トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第24号 


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もちださんの鎌倉リポート No.24(2008年2月29日)



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名越三昧山・2



衣張山から。
 「新編相模国風土記稿」には、極楽寺ふきんに「長吏」という項目がある。長吏とは非人のことで、かれらは江戸浅草で罪人の死刑をとりあつかっていた弾左衛門の先祖を名乗り、頼朝が書いたという免許状を持っていた。

藤原弾左衛門に長吏座頭を与う
舞々、猿楽、陰陽師、壁塗、土鍋、鋳物師、辻目暗、非人、猿引、鉢叩、弦指、石切、土器師、放下、笠縫、渡守、山守、青や、坪立、筆結、墨師、関守、鐘打、獅子舞、蓑衣作、傀儡師(くぐつ)、傾城屋、右のほか道の者、あまた附(つけたり)これあり候。これみな長吏はその上たるべし。このうち盗賊の輩は長吏としてこれを行なうべし。風呂屋・湯屋は傾城屋の下たるべし。・・・ことごとく達すること件のごとし。
治承四年九月、系図鎌倉住人藤原弾左衛門頼兼(ママ)、頼朝花押。



極楽寺駅まえの坂を下ったところにある。
 現在ではわかりにくいものもあるが、陰陽師というのはここでは民間の祈祷師のこと。青屋は藍染めの下職人(紺掻)で、手が染まっていたことで蔑まれ、やがて葬送にもたずさわった。放下は山伏虚無僧の類、傀儡師は平安時代から名の知れた人形使いの演芸一座で、漂泊生活をおくりながら売春などもおこなった。すべて説明するいとまはないが、これらは中世の「職人歌合(さまざまな職業をえがいた絵巻物)」にものっていて、当時は「道の者」という認識もあった。職人とはほんらい散所の「職」についているひとびと(官奴)、という意味だが、やがて現代語とおなじく「その道にすぐれた人、匠」といういみにもなる。極楽寺にある針摺橋の名のゆらいである針摺なども、そのひとつである。

 こうした人々に中国・朝鮮などからの帰化伝承がおおいのは、渡来人と主張するほうが生存に有利だったからともいわれる。しかし、かの地でも古来、都市住民から排除されてきた部曲とか生口、禾尺、才人とかいった後進的な被差別奴隷の制度があり、凄惨な虐待・蔑視に耐えかね反乱・粛清をくりかえしていた。国を追われた、そんな棄民たちがさまざまな技術を携えて亡命してきたり、物の代わりに売買・貢上(職貢とよばれた)されてきた歴史があるからとかんがえたほうが良いようにおもわれる。



「朝鮮雑記」(1894、34ページ)にえがかれた病者。日本でも中世まで伝染病の患者はこうして山野に遺棄されることがふつうだった。
 弥生時代には農奴として、古墳時代には品部(ともぺ)を構成する官奴・部民の、文字通りエリート労働者として王権の巨大事業に従事するなどしてきた者が、やがて古墳築造の衰退や軍団の解体などによって零落し、事実上、公民制度の死角になっていた散所の被差別業に細々と専従し続けるようになっていった。浮浪人として登録され、ちまちました口分田をもらって零細農民として生きなおすよりは、身に付いたしごとで仲間どうし、自由に生きたほうが良かったのかもしれない。

 銀閣寺などの庭園の石をはこんだのは山水河原者とよばれたひとびとだった。「六国史」推古二十年612にみえる「醜い百済びと」は、病者ににていたので島流しになるところ、庭造りができると主張したためにひろいあげられ、労務者のルーツとなったという。平安時代には潤青という在日犯罪者を瓦師に弟子入りさせ、更生をはかった事例もある(864年9月13日条)。江戸時代、前野良沢らが外科手術の前提となる翻訳書「解体新書」を編んだが、これを実証した腑分け作業に活躍したのも浅草近在の非人だった。



祇園山より、和賀江島方面を見る。和賀江島は足利入府以前から極楽寺の管轄下にあった。修築は近世まで坂ノ下の人足がおこなった。
 「もののけ姫」のエボシ率いるたたら場のような架空の自由都市があったわけではないが、鎌倉の前浜は当時、極楽寺の管轄下にあった和賀江島という港をかかえ、そこで働くひとびとが暮らしていた。たんなるドヤ街(簡易宿泊施設)というよりも、ある種のアジール(自由空間)だった可能性があるという。「盗賊云々」という自治権の主張は、そのことをいっているのだろう。後世、祇園には祇園の、吉原には吉原のルールがあって客にくれば大名もそれを守ったように、そこにはかれらだけの世界があった、のかもしれない。さきの文書自体はいわゆる「木地屋文書(権威付けを目的にした贋文書)」にすぎないが、非人集団に慣習的に認められてきた内容を反映しているには違いない。

 都貴族が「大津の浜の賑わいのよう」と感嘆した由比の前浜の遺跡からは、牛の脳髄を割って食べたあとがみつかった。非人道具のひとつに浅鍋があり、ホルモン(もつ)やポシンタン(いまも韓国などで喜ばれている犬肉の汁)のルーツのようなものがあったと考えられている。前浜には日本人だけでなく宋人なども住んでいた。ギョーザや索餅(かりんとうのルーツ)のような唐菓子をたべたひともいただろう。



大仏の向かい、鎌倉病院よりすこし下の路傍にある。
 前浜に直接埋葬されたひとびとは元弘の大量死体のようなばあいを除いて、おもに町人以下の庶民であったとおもわれるが、「光明真言土沙加持」などというものもみられるという。加持をした土砂(辰砂?)を掛けると、そのひとの生前の罪障が消えるとかいう秘法らしい。髑髏に「阿」字や経文を直接書いたものもあった。また、らい病患者の骨もまじっていた。こんな、土葬というより風葬に近かった庶民たちも、三昧地の成立でしだいに居住地からはなれた場所で荼毘に付される、という習慣がひろがっていったはずである。

 忍性がたてたハンセン病(らい病)の療養施設は大仏の西、桑ヶ谷にあった。そのほか施薬院、悲田院、福田院、施益院、坂ノ下馬病舎などがあったらしい。悲田院というのはすでに京都にあった官立の病者収容施設で、このころ泉涌寺の持(もち)であった。福田とは身寄りのない僧侶を助けるための田をいう。忍性は既存のシステムから行基菩薩の布施屋の伝説まで、ありとあらゆることを学び、実行に移した。政治的に対立する前の日蓮も、これは生身の如来かと讃えたほどだった。



面のイメージ(CG)。ふだんは宝物庫に展示され拝観できる。
 坂ノ下の権五郎御霊神社のまつり「面掛け行列」は、一名「非人行列」ともいった。頼朝が非人の娘をはらませたため、行道を許されたかれらの正体を隠すため、あるいはその異形を象ったものとも伝えられる。むろんこの説明はあやまりで、じっさいには散楽の面で、鶴岡八幡宮の放生会などでもかつて行なっていたものである。「非人」というわけは、かつてはこのような芸能にたずさわっていた人々もまた、「非人」と呼ばれていたからだ。

 非人の仕事のひとつに神社の「清目(そうじ)」や祭りの「先立ち」があった。キヨメとは神官が触れることのできない鳥の屍骸・汚物などをかたづけること。先立ちには魔を払うという信仰があったらしく、大名行列でやとわれる「奴さん」などと似たものだとおもう。ちなみに紀伊国屋文左ヱ門一行の記録「鎌倉三五記」1709によれば、八幡宮の「面掛十人」とは陵王、小飛出、釣眼、大圧※見(べしみ=テング)、顰(しかみ)、福禄寿、末社、ウソフキ、おふく、天女であるという。

【注】大圧※見 「圧※」は当て字。「惡(旧字体)に病垂」と書くのがふつう。写真右上。べしくち。



銭洗弁天の裏から、前浜、小坪崎。
 庶民の生活がどのように変わってきたか、その因子とはいったい何であったかを考えるうえで、非人たちのようなマイノリティー集団を特異だからといって切り捨てるわけにはいかない。農村では鋤ひとつ、鍋釜ひとつ自分たちの手でつくりだしていたわけではない。穴があけば流浪の鍛冶屋のせわになった。良民、すなわち土地と刀を持った百姓(士・農)だけで成り立っていたかに見える農本支配の世の中を変えていったのは、土地も、刀ももたない自由民たちだったろう。

 現代の感覚では、けして驚くような職業ではない。しかし、いまだ差別・逆差別をうみだして対立をあおるひとびともいる。社会運動を国家打倒の手段にして勢力拡大を図るゆがんだ政治団体や利権集団に魅入られたひとびとは、「恨み・復讐の構図」だけを強調され、「社会に抵抗する時限爆弾」であるかのように報道されるなど、だしがらになるまでその私利私欲にほんろうされる。「同和」とよばれたひとびとにとって、こんな現代こそ、もっとも不幸な時代なのかもしれない。


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