トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第240号 


▲もちださんトップへ戻る

もちださんの鎌倉リポート No.240(2016年12月9日)



No.239
No.241



世界遺産考・2



下町感
 日本の近代産業遺産に中国・韓国が妨害したり、長崎のキリスト教会群では「一方的な迫害」だけにテーマを絞るよう強要してきたりと、政治的な独善傾向がつよいのもユネスコ職員の特色のひとつ。文化人がどれだけ友好の蓄積を強調していても、結果としてはそんなものなのだ。

 国際社会には友好や親善では解決できない問題もある。朝鮮で戦争がおきたら韓国をたすけよう、政変にはすすんで巻き込まれよう、はてはアジアのために死のう、そう唱える活動家もいる。北朝鮮による拉致が発覚したさい、「拉致被害者なんて、死んであたりまえや」と生放送で言明した映画監督もいた。武装スリ団、仏像ドロ、ひわいな民族式エステ・・・安易な援助や弁護への期待が、あらたなテロや戦争への誘因になっている。

 暴力性の高い、一部マスコミ文化人の歪んだ虚栄心など、目の前の人命にくらべれば、はるかに下位の概念でしかない。そんな野蛮な位相でしか語れない【友好】なら、いっそないほうがまし、というべきだろう。



さりげなさ
 韓国では、請求権を放棄する約束で「南北あわせて103万人分」の補償金をほぼ全額私物化したまま軍事独裁者が横死したため、「まだ一銭ももらっていない」などといって長らくゴネつづけ、指導者が変わるたびに毎度悪びれもせず「おかわり」を要求する。そのいきさつの再調査を行った盧武鉉は自殺、腐敗政権はまたぞろ「慰安婦は別料金」などと繰り返し、「カネクレ星人」の異名をとってきた。

 未開人には【王殺し】という習慣があり、王を殺しさえすれば世界が再生し、あらゆる法律も条約も借金も、「すべて帳消しになる」という徳政信仰がある。だから大統領が死んだり投獄されたりすれば、それまでの受刑者の多くが釈放されるし、歴代の指導者が日本にせびった巨額援助も、みずからの恥知らずな反日行為も、日本側文化人による交流のこころみでさえも、野生の思考ではすべて無条件で「無かった事」になってしまう。

 つまりそれは、おもちゃのぜんまいを巻き直すように、またいちから【同じこと】をくりかえすための呪術、「忘却の祭り」なのだ。そうでなければ、本来国民のものであるはずの請求権資金をネコババした当の独裁者がいつのまにか記念館が建つまで英雄視されたり、その娘がまるで他人事のように大統領に当選し、不正な富をむさぼり育ったあらゆる記憶を喪失して「まだ一銭ももらっていない」などと言えたりするはずがない。そもそもボロを出すまえに歴代の大統領を血眼になって殺したりもしないだろう。



市場踏切
 また、未開人には【互酬制】という習俗もある。援助をもらった方が負け、というもので、アメリカ先住民にはポトラッチといって、嫌がらせ目的での贈与合戦がおこなわれていたという。アジアでも有史以来、中華王朝から代替わりごとに冊封をうけた属国の王が、「糞土臣」などとへりくだって貢物を上回るさまざまな「恩典」を施されてきた。

 未開人たちにとって、「援助の一撃」は「国を亡ぼす負い目=債務感」でしかなかった。それゆえ指導者らは援助の事実を秘匿し、血相を変えて否定するし、問い詰められれば狂ったように「一銭ももらっていない」とわめきたて、面子をとりつくろうため「被害を水増し」したり、はては「古代にはわが方が援助していた」などと、つじつま合わせの妄言を口走る。もとより感謝などするつもりもないし、嘘をけして認めようともしない。かつて日本の援助を受け入れて郵便局をつくった者は、ソウルの民衆によってバラバラに切り刻まれたあげく、その肉を食われたことさえあった(マッケンジー「朝鮮の悲劇」)。富をつかむには、それに見合ういけにえが必要なのだ。

 未開社会とは、変化の期待がもてない社会のことだ。文化人たちがかれらの思考に同調しているかぎり、「モナリザは韓国人」みたいな妄想学説はけしてあとをたたないし、「朝鮮学校のチマチョゴリが切られた」「在日は被害者」みたいなデマがなくなることはないだろう。



4大町遺跡(現在土の下)
 未開人は自他の区別がつけられず、良いものはすべて自分の姿だとかんがえる。たとえば日本人がノーベル賞をとると、なぜか自他をとりちがえ、あたかも自分の手柄であるかのように、官民挙げて「ノーベル大国」「青色ダイオード大国」などと浮かれだす。霜降り和牛は「雪花韓牛」とかいってはしゃいでいる。これを【鏡像段階】といっていて、アニメのヒーローになりきったり、鴨の子がはじめてみたものを自分の親だと思い込むのと同じだ。

 かつては「小中華」などといって、中国文明をじぶんのもののようにいっていた。中国の仙人をおびきよせるため、にんにくでスタミナをつけ、人間の女にばけて穴にこもり、まんまとその精をさずかった民族の先祖「熊女」。手練手管をつくして巧みに客を競わせ、貞淑な処女として玉の輿にのった大人気娼婦「春香」や「沈清」。・・・すべての神話・すべての民族英雄が憑依して、ひとびとを突き動かしている。

 それゆえ時間という感覚も希薄で、現在と過去、物語を流れる【神話的時間】との区別もつけられない。だからいまだ植民地時代の独立運動と錯覚し、自分は弾圧されているなどといって意味も無く座り込みをおこなう。朝日新聞が捏造した「セックス挺身隊」などの架空のストーリーも、すべてみずからの【体験談】として、切実な共時意識をもってすりこまれてしまう。民族英雄として祀られるあの銅像とはつまり生身の、かれらの存在そのものなのだ。



五岳荘跡から
 一見愚かしく、支離滅裂にみえる周辺国の問題行動も、けして昨日今日の霍乱とか病変とかいうのではなく、未開人にとっては「つじつま」があっている。つまりそれこそが、人類学に立証された未開人の普遍的な意識レベル、【野生の思考】というものなのだ。未開人の存在などけして認めない、というのであれば、そもそも人類学とは、何を理解しようとしてきたのか。そして文化人はなぜ声を枯らして、かれらを「要介護民族」と訴え、特別保護(affirmative action)をとなえてきたのか。

 戦前はナチスを美化し、批判をことごとく禁じた。戦後は米民主主義やソ連・韓国を先進国と名付け、究極の理想像として描いてきた文化人の創意創作意識からすれば、空想と自分とは等価であって、「理想の国」「あこがれの革命の体現者」と賛美しながらじっさいには「自分自身の善意」を賛美してきたに過ぎない。したがって事実との齟齬を指摘されると激しく動揺し、よけいに意固地になって硬直した友好キャンペーンや言論統制にむかうのだろう。

 ゴルフで韓国人が勝つと、マスコミの異常愛が爆発。「関西の人間は目が細いので渡来人」「日中韓は同祖」なので国境は存在しない、だから全ての日本人が犠牲になり、日中韓を中心とする東アジア共同体を構築なければならない・・・明治以来、そんなばかげたうわごとを変わらず口走ってきた日本の文化人だって、しょせんみずから不幸を買いあさりみずからの正義を誇っている、ぶざまな未開人とおなじだった。



地下道の上
 アメリカのような国でも、「日本は軍国主義に突き進んでいる」「原爆で市民が救われた」などと奇想天外な妄想をひろげているのは主に大新聞であったり、市井の教育者だったりする。75年間にわたって米軍が占領し都合よく指導している事実にはいっさい触れず、他国をフレームアップすることで、警官によるあいつぐ黒人射殺や児童ポルノ拡散国と名指しされている自国の荒廃した人権状況から、ことばたくみに目をそらす。ナチス‐ドイツでは反日が自国の罪を軽くし、中国ビジネスを有利にすると信じられている。

 そんな相手の言葉をいちいち信じることが、文化人のいう「まごころ」なのだろうか。他国のいやらしいウソと「共生」してきた者たちにとっては、他人をだますことなど快感以外のなにものでもない、のだろうか。言論のプロがうそをいい、それをしろうとが否定しなければならないなんて、あまりにも異常。

 日本各地にへんな石人やトーテム‐ポールをたてて「渡来人」遺跡を捏造するばかりか、中国に唐招提寺のような寺(恵果記念堂)をたててやったり、韓国に四天王寺のような寺(百済団地)を建立。みすぼらしい歴史文化を水増しし、民族主義のオナニーに手を添え、「○○大国」「○○先進国」などと、まいどおなじみの殺し文句をささやく。それで相手の劣等感を解消してやったつもりになっている。他者の思考を真に理解しようともせず、世界はひとつだなどと、あたかも自分の【善意や期待】だけが唯一絶対の正義、究極の解決法であるかのように押し付ける。それでは相手をスポイルするだけだろう。


 「武家の古都・鎌倉」が国際的な機関から一蹴されてしまった理由は、あんがい根深いのかもしれない。鎌倉という歴史文化の客観的な価値というよりは、それを伝えることに失敗した現代の文化人、すなわちテレビや新聞に満面の笑顔で登場し、「国境を越えた相互理解」などと、口先だけの万能感を謳歌・指導してきた「専門家」たちの現実、これが結果のすべてだったのだろう。

 外国には外国の常識というものがある。つごうのいい話だけが濾過されて、日本がわの真意・ないし弁明などは全く考慮されず、すべて澱のように吐き捨てられてしまう。たとえば市役所には、「平和都市宣言」なんて碑に文化人等が揮毫しているが、たぶんそんな宣言は、文字通りには伝わっていない。美辞麗句を羅列したおなじような碑は、北朝鮮にだってあるだろう。

 そのむかし、ある駐アルゼンチン大使は「日本人はみにくいホッテントット」などといって外国人に愛敬をふりまいた。「荊妻豚児」なんて謙遜がていよく忖度され尊敬されるのは、極東のガラパゴスとよばれる孤立した島国のなかでだけ。ほかのどんな国でも、「自国や家族を愛せないような者は人間の屑」として軽蔑を買うだけだ。まずはそのことを肝に銘じるべきなのではないか。


No.239
No.241