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もちださんの鎌倉リポート No.241(2016年12月18日)



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五色如来の幡


 以前、腹切やぐらの近く、大町にぬける宝戒寺トンネルあたりで拾ってしまったこのお札は、なんとなく見覚えがあった。いぜん腹切やぐらで撮った写真を拡大してみると、卒塔婆の地蔵の梵字のうえに、「南無地蔵大菩薩」と書かれた全く同じ五色の札が、たしかにはってある(下写真)。

 これもたぶん、傍らの墓地から飛ばされてきたものなのだ。もともとインドの神に由来する地蔵は融通無碍で、雑部密教においては阿弥陀仏と同一であったり閻魔十王と一体であったり、回忌供養の十三仏と重ねられたりしている。このお札の五色の色も五色如来をあらわしたもので、仏教では、五色の雲とか五色の糸とかいって、高時らの極楽往生と、ふかいかかわりがあるようだ。


 腹切やぐらに捧げられる北条氏一門の卒塔婆のうち、日輪寺殿崇鑑大禅定門は高時のもの。苅田式部大輔篤時(公)というのは、俳優の故・高倉健さんが毎年春秋の彼岸に奉納してきたもので、健さんの先祖とされる人物の俗名。太平記では高時とともに、ここで自刃したことになっている。

 ただ尾張四郎・苅田の式部大輔こと北条篤時(?−1292。法名元心)は、ここで死んだのではなかったかもしれない。太平記の流布本(慶長古活字本)には矛盾や誤記も多く、たとえば篤時の前に記される江馬遠江守公篤(息子)や阿蘇治時(高時の猶子)などは、関西で交戦のすえ七月になって京都阿弥陀ヶ峰で処刑されたという記述が、すぐ次の巻にみえている。つまり切腹しようにも当時鎌倉にはいなかった。また玄玖本など、古態本とされる別系統の古写本には、東勝寺玉砕の記述にこれらの人物名はみえない。

 篤時の没年(1292)や法名の存在が仮に誤りだとしても、東勝寺で自刃した(1333)のであれば80歳くらい。孫もすでに成人し、子には都で歌人として知られたものもいて、幼い子供を備中小田郡経由で九州に落ち延びさせた・・・とかいう小田家(健さんの実家)の伝承はイメージにあわない。備中というのは、杉田東漸寺をひらいた名越備前禅門宗長(レポ184参照)の一門との混同もあるらしく、宗長が守護をつとめた豊前にも苅田庄というのはあった。



相模入道并一族自害事
 篤時の父・名越時章(1215-1272)は二月騒動で誤殺されるが、一族は無実と判断され兄・尾張次郎公時(1235-1296)は評定衆にもなった。苅田という名字は、名門極楽寺北条家の長男がたまたま母方の豪族より奥州苅田郡(宮城県蔵王町付近)を継承したためうまれたもので、おなじ名字を名越北条家の篤時が名乗った経緯・縁故は不明。孫とされる中務大輔時如(父・秀時は二階堂行藤の婿)は金沢顕時の婿となり、鎌倉滅亡後は青森に逃れ、南朝方と戦って敗れたことがしられる。

 小田家は近世に福岡で両替商を営んでいたという。近世における先祖伝承がどこまで正しいのかは疑問だが、仮帽といって、武家じたいが先祖伝承を身分にふさわしく虚構していたのだし、相手が高貴なものの御落胤であればこそ、カネを借りるがわのメンツもたつのだ。木っ端武士よりははるかに優位な立場にあるちょっとした豪商が高貴な出自を語ったとしても、とくに責められるものではないだろう。九州にも佐賀などに小田氏という土豪がいたらしいが、それでは役不足だったのかもしれない。

 とはいえ施餓鬼とはそもそも、無縁にほどこして余慶をいただくものだから、健さんがだれを供養しても間違いということではない。



(参考・横浜市内)
 さて、施餓鬼には別に五色如来の紙幡を貼ることがある。写真の例とはべつに、一枚に五色を施す紙幡もあり、さきの地蔵菩薩の五色の札はその応用らしい。五色如来は「仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼神呪経」(焔口餓鬼経・不空訳)などの経典類に説かれており、実体は石塔類に刻む五智如来の変化身とされる。つまり札(旗)と卒塔婆(塔)は同じものであった。旗も塔も、遠くから見える、という目的においてはおなじであり、それは仏の墓標であるとともに、永遠不滅に存在し続ける仏のすがた、そのものだった。色や主尊の当てかたには諸説あるが、チベットの峠をいろどる五色旗(タルチョ)なども基本的にはおなじものだ。

黄・過去宝勝如来   南・地・多宝宝生  タラーク
青・妙色身如来    東・空・薬師阿閦  ウン
赤・甘露王如来    西・火・阿弥陀  キリーク
白・広博身如来  中央・水・大日   バン
黒(緑)・離怖畏如来 北・風・釈迦     アク



宝戒寺
 前述「焔口餓鬼経」では阿難尊者(十大弟子のひとり)が醜い餓鬼から、三日後、おまえも同じ姿になる、と告げられる。阿難は釈迦に救いを求め、釈迦は「まず餓鬼を救え」と教える。・・・そうして呪文(加持飲食陀羅尼)をさずかり、五色如来の功徳がのべられるのだが、要は「醜い餓鬼」とは他人事ではなく自分自身だと悟ること、「利他行」は自分自身を救い、自分自身に施すのと同じことだ、と説くのだ。

 餓鬼の飲食は食べようとすると燃えてしまう。それは自分や他人を不幸にしてでも銭をかせぎ、それでも満足しない巨大企業の、飽くなき貪欲と同じだ。自他の血のしみついたごちそうは、どれだけ食ってもうまいはずがない。だか加害者側にならなければ、あっというまに被害者側に立たされてしまう。出世や地位の亡者となり、互いのみにくい姿に震撼する。それでも他人を妬み羨み、貪ることをやめない・・・喩え話には、それなりの真実があるのかもしれない。

 五智如来ではなく、地蔵菩薩が主人公・目犍連の餓鬼となった母親を救うのは「盂蘭盆経」の類。唐土でつくられた仏教系の変文(説話文学)の影響をうけた偽経(擬経)とみられ、孝行思想に退化した低次の経にすぎないが、京劇化もされ、現在でもよく知られている。



安国論寺(鎌倉)・蓮乗院(川崎市高津区)
 かつて仏教には偶像の概念が無く、釈迦を示すアイコンには仏塔とか法輪、仏足石などの記号がもちいられた。仏足石のなかには魚や焔など、仏陀の徳性をしめす絵文字のようなものがほどこされたりした。密教では蘇悉地といって金剛杵(武器をかたどった仏具)を仏のすがたとしたり、梵字種子を仏とみなすことも多い。文字とか、呪文とか、河原に積んだ石の塔、手にむすんだ印でさえも、仏の形そのものだった。

 わけのわからない名前の仏が多いのは、古代世界では形容詞がそのまま神の姿となるからで、仏陀の徳性の数だけ、その化身が創作されたため。仏陀は広大無辺の世界に蔓延し、増殖しつづけるのだ。

 修験道や一部山岳寺院などにおいては、ほんらい神道の形代であった神鏡に仏像や種字を刻む「懸け仏」がまつられる。これらは厳密な仏像とはべつに、鏡に映るたんなる光のようなもの、はかない色彩のようなものも、すべて仏であるという可能性をしめしている。密教において万物はほんらい仏(自性清浄心)であるのだから、功徳をおこなうその瞬間には、だれであろうと仏の化身なのだ。



東京国立博物館にて
 先祖や「前世」がわたしたちにもたらす因果、業(カルマ)のようなものは、転生とはいわないまでも、過去の因習とか社会にはびこる不正とか骨がらみの出世欲とかいった、さまざまな形で遺存し、現代社会の宿命・病理として積み重なり、私たちを苦しめる。もともとそんなものは空疎なもの(一切皆空)として社会全体で滅却しなければならない。自他親疎の「縁」にとらわれず、無縁な者にまで施しあたえる法界平等利益ということは、とうぜん仏教思想の核心であり、善人社会をめざす社会改良をいみしている。

 人類の歴史がつちかってきた積悪は人類全体で贖うひつようがある。けして前世の報いとか呪いなどといった個人的なものではない。かりに先祖にだけ飯をそなえても、そんなことで先祖の過去が消えるわけではないし、いっさいを他人のせいにして自分だけが得しようとしても、他人が認めてくれるわけでもない。

 夢窓国師は、敵を供養し成仏させることこそが真の調伏、と説いた。ほんのわずかでも人間同士が思いやり、すみやすい社会をつくろうとする、それのみが先祖や「前世」の行いを無化し、ひいてはみずからの幸福にもつうじる。施餓鬼とか因果応報とかいう概念は、元来そのように理解されるべきなのだと思う。


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