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もちださんの鎌倉リポート No.244(2017年1月10日)



No.243
No.245



金沢の地景の事



金沢図書館のロビーにて
 三浦浄心の仮名草子「巡礼物語」(別名「名所和歌物語」)の上巻四章「金沢の地景の事」(1614記)は、「鎌倉物語」「新編鎌倉志」などをさかのぼる、金沢八景の最古級の記録として知られている。

 八景とは雪舟ら中世いらいの日明水墨画の交流史を背景としたもので、モデルとなった明国・瀟湘八景の図は湖南省・洞庭湖周辺のかつての風光を描いたもの。瀟・湘とは湖にながれこむ川の名で、「湘南」のルーツとなった地域とほぼ重なる。近江八景につづいて、あえて狭い地域に密集させていることが日本の八景の特徴だが、個々の画題はまだそのままを踏襲しており、金沢の地名が入るのは明僧・心越禅師が来遊し、詩に詠んで以降のことらしい1694。四石八木にはより古い記録もあり、これらの変遷については関靖「かねさは物語」に詳述されている(国立国会図書館デジタル‐コレクション)。



古写真にもとづくCG
○金沢の地景の事
見しは今、愚老武州久良岐の郡を巡礼せしに、金沢の湊、海辺の眺望、世に比類なき境地、四海五湖の風景、立ち所に顕れたり。この湊を見渡せば、海中へ東より洲崎が崎出で、西の方よりは弁財天島出でたり。この両島崎、海中にて出で合い、そのあはひ十間程の瀬戸有りて橋架かりたり。内海は漫々たる大海、平地に波瀾をたて、潮の満ち干速き事、さらに譬ふる物なし。橋のほとりに有つて目を驚かすばかりなり。
しばらく見るが内に、大海は干潟と成りて真砂平々として、見し面影さらになし。これただ邯鄲の仮枕、夢の覚めたる心地す。何物有りて山海増減、干珠満珠を今ここに沈めけるか、と不思議のあまりに、これを語らん友もなければ口号(ずさ)み侍る
 この浦に龍の都や移すらん 満ち干の玉の奇特顕はす
とぞ詠みたる。



金龍院
さてまたこの前の海へ、また東より野島が崎出づ。西よりむろの木が崎出で向かひ、その間に一町程の大瀬戸有りて潮の満ち干速し。内は広き大海にして底深し。汀の周りは三里、その内の入り江小島、挙げて数ふべからず。外の海面には陸地を離れて猿島・夏島・烏帽子島浮び、後には知足山・金沢山聳え、霊験の山嶺続きたるは近江の水海に異ならず。津々浦々にて網引きをなせば、沖には浮かべる海士の小舟数々に、立ち騒ぎたる村鷗・渚に漁る友千鳥の、鳴き交はしつつ声々に、社家町や釜利谷・六浦の塩焼く煙は山に棚引き、島々入り江/\に潮滔々と満ち、波悠々たる。磯辺の松風は琴の音を調ぶる粧ひ、南は海北は嶺続き、称名寺・龍花寺(りうげんじ)は他にことなる境地。時得顔なる山々の紅葉はただ錦を晒すがごとし。拾遺に
 湖に秋の山辺を映しては はたばり広き錦とぞみる
と観教(*歌仙源公忠の子・法橋僧都)が詠ぜしに異ならず。
我聞き及びしは、当地には名所旧跡その外、色々様々の名物有りとかや。これを里人に尋ねばやと思ふ処に、これに翁あり。我問つて云はく、「当所初めて一見の者なり。されば金沢八景の詩歌と号し、皆人賞(もてあそ)び給へり。さて八景はいづくを指して名付くやらん。委しく教へ給へ」。



泥牛庵より平潟湾方面を望む
翁答へて、「金沢八景の詩歌、世に隠れなし。
@瀟湘夜雨とは、あれに見えたる一村の、こずみ(小泉)といふ在所なり。晴天の夜も必ず雨灌ぐ。
A洞庭秋月は、向かひの原。
B漁村夕照は、瀬戸。
C江天暮雪は、野島。
D遠浦帰帆は、むろの木。
E山市晴嵐は、峠。
F平沙落雁は、平潟。
G遠寺晩鐘は、称名寺。
これを八景と号す」。
また問つて云く、「四石八木とて、由来ある木石有りとかや。これはいづくに候ぞ。その名を教へ給へ」。翁答へて、「四石八木、当所の名物なり。
@美女石、A乳母石。両石は称名寺の寺中にあり。
B福石は、瀬戸にあり。
C飛び石は、金龍寺の上にあり。
この四石なり。八木と名付くは、
@雀が浦の松は野島にあり。
A柏槇は瀬戸にあり。
B黒梅、C桜梅。この両木は称名寺にあり。但し今は絶えてなし。
D文殊堂桜、E普賢堂桜、F西湖梅、G青葉楓。この四木は称名寺にあり。



称名寺
宗祇の歌に
 言の葉に心染めてや時雨にも この一本は緑なるらん
宗牧の発句(*「東国紀行」所収)に
 秋もいざ青葉に匂ふ花の露
近衛殿の御歌に
 今日ぞ見るこの一本の若楓 時雨に馴るる秋はありとも
と詠じ給ふ。いにしへより今に至るまで詩人歌人、当地へ尋ね来たり、詩を嘯き歌を誦し給ふ事、挙げて数ふべからず」といふ。
われ聞きて、「この浦の景風、聞きしより見て目を驚かす。かるがゆへに当代の名画狩野右京(*光信1565-1608)、江戸の御殿にこれを写されたり。その御座を金沢の間と申すとかや。誠に当地の景、見所多かりけり」と云へば、翁聞きて、「当浦の景、天下無双によつて写されたるも理りなり。
然るといへども、いにしへを伝へ聞きしに、金岡(*巨勢金岡。大和絵の祖)といへる絵師、この金沢山に上がり湊の有様を、心を尽くし写しける処に、時もいつしか引く潮に、跡は干潟となり、平地と成りて見し面影さらに一つもなし。その時金岡、筆を捨ててのけに(*仰けに)帰る。この謂れ候ひしにより、この山に堂を立て置き、これをのけ堂と名付く。また一説に、この堂にて能く見て写しける故、能見堂と書くともいふ。今に絶えせずこの堂あり。
昌叱(*里村昌叱1539?-1603)、
 学ぶるに賢し愚かの程見えて
と前句をせられしに
 墨絵に山ぞ重ねあげたる
と紹巴(*昌叱の師1525-1602)付けたり。金岡は墨絵に山を十五重かさねあげしに、また金岡四代目の広高(*一条天皇のころの名人)は五重かさねたり。学べる道も次々愚かなる、といへり。



伝日荷上人墓と手植えの榧
金岡は仁明天皇の御時の人、承和の比ほひなり。慶長十九当年(*1614)までは七百八十一年に成りぬ。この絵師、上代にも類へ手なし。いはんや末代に至りてをや。然れば当所の風景をばいにしへの蘇秦・晏平(*雄弁家)が口舌にても述べ難し。伶倫・離朱(*仙人)が耳目を以ても見聞し難し。禹が筆にても尽くし難し。然る所に、当代名を得る絵師・狩野なればとて、当地の景、筆に及ぶべからず」と云ふ。
愚老聞きて、「尤も道理至極せり。然りといへども伝へ聞く、金岡はこの湊、秋の気色潮満ちたる所を見て興に乗じて写されしに、干潟と成りていよ/\致景まさりたり。故にこそ金岡は筆を捨てたれ。袖中抄(*中古の歌学書・顕昭編)に「潮満ちて見らく少なく恋ふらくの」と詠ぜり(*「潮満てば入りぬる磯の草なれや 見らく少なく恋ふらくの多き」)。水辺の眺望は潮の干潟ぞ勝りける、と顕昭は委しく記せり。その上、万事満つる物は欠くる習ひ、古歌に
 誰も見よ満つればやがて欠く月の いざよひの空や人の世の間(なか)
と詠めり(*道歌。作者は一休とも信玄とも)。



夕なぎの平潟湾より野島方面
さてまた狩野は陽春の磯辺・潮の干潟を写されたりしに、常になき小島限りなく出で来、入り江・島根に潮残り、岩のはざま・さざれ石間に螺(にし)・栄螺(さざい)・鮑・ふくだみ・かせ・しただみの類ひ取りつき、磯菜には青苔(のり)・甘苔・神馬草(*ホンダワラ)・海髪(をご)・つくも・藻塩草・和布・荒布(あらめ)・海鹿藻(ひじきも)・海松藻(みるめ)の類ひ茂り合ひ、爰かしこの溜まり水池に、鯐(すばしり)・鮗(このしろ)・鯒(こち)・小平目・海老・まじりの雑魚・うろくづ浮び、平々たる真砂の上に、長螺(へなだり)・蛤・千鳥貝・海松貝(みるくひ)・法螺貝・帆立貝・蜆・あさり・桜貝、大蟹小蟹は家を出で、我が時得顔に横走りして遊ぶありさま、心言葉も及ばれず。その上、潮はつかに満ち来る体を書けり。潮差し初むる処は、生の初め、これ目出度き喜慶長久の本懐を写されたり。
されどもいにしへの金岡に、今の狩野が勝りたるには非ず。それ如何にといふに、金岡が捨てたる筆、この山に朽ちずして七百八十余年有りといへども、これを拾ふ人なし。今、遇ひ難き君が代に遇ひ、得難き筆を狩野拾ひたり。然れば昔の金岡が捨て筆は、今の狩野がための師にあらずや」と云ひければ、里の翁聞きて、「旅客が返答、殊勝」と云ひて去りぬ。 (了)


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