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もちださんの鎌倉リポート No.245(2017年1月13日)



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日向山


 相模の神奈備・大山(1252m)には、大山ケーブルがのぼる伊勢原口のほかに、日向薬師のある日向口、実朝首塚や大日堂のある蓑毛口、八菅口などいくつかあって、かつてはそれぞれに修験道がさかえていた。日向山にも、「難所にして小児・老僧にては山入相成らず」などと記された、大山・丹沢への峰入りの記録がのこっている。

 修験は役小角や行基を始祖とするが、奈良時代の記録では、かれらは当初、呪法で民を惑わす犯罪者よばわりされてきた。雑部密教の山伏行者であるいぜんに、国家にとって徒手徒食の「私度僧」にすぎなかった。そればかりか、かれらが救済し包括してきた数多くの「弱者」とは、ようするに国税や罪科遁れの逃散者だったため、かれらの手がけたいくつかの社会事業や更生教育その他を勘案したすえ、明治になってついに修験は解体の憂き目をみた。



衣装場と岩根道
 昨年、本堂の大改修を終えた日向薬師(霊山寺宝城坊)へは、小田急伊勢原駅からバスがでている。道はいつしか一車線となり、日向川をわたる十二神橋のほとりに「坊中」という停留所がある。そのあたりから社家や子坊が栄えていたらしく、谷間の集落からはもう、右側の日向山も、正面の大山の頂も、みえなくなる。

 宝城坊入り口の先には、浄発願寺という別の寺があり、江戸時代に木食弾誓という人がひらいた。近世にはここが逃散者の駆け込み寺となっていた。奥の院にはかつて日向薬師にもあったように、洞窟が行場になっていた。日向山は山頂に弁天をまつり、水源信仰の地であるとともに、母胎にはいって「生まれ直す」霊地でもあったのだ。

 また修験の常として荒唐無稽な伝承も多い。石雲寺ちかくには壬申の乱の大友皇子が逃げてきたといい、南北朝期の石塔を墓と伝えている。また宝城坊の下・旧参道には、病者に化けて行基に救われ、逆に創建を助けたという熊野・白髭明神の社(現・日向神社)がある。これは小栗判官とおなじ湯峰薬師縁起をふまえたものなのだが、いまでは、おなじく修験の寺であった日高市の高麗神社や大磯高来神社にならって、「明神の正体は高麗若光」などといっているようだ。古文献にはみえないから、現代山伏による近年の新説だろう。宝城坊は神社でもあり、かつては薬師堂の裏に、八菅とおなじく七所権現社を構えていた。


 大山に関する中世以前の記録はとぼしいが、日向には平安時代の歌仙・入道一品宮相模の参拝がしられる。相模は勅撰集の入集数が和泉式部に次ぐ女流の大歌人で、式部とも親友。長生きして能因法師らと王朝和歌の刷新につとめ、俊成の「近来風体抄」などにも高く評価された。

 式部が苦手とした歌合せ歌にも進出。上東門院の養女で、枕草子の定子中宮の忘れ形見でもあった脩子内親王という、政治的にもめぐまれない主君に仕えながら、本歌取りなど斬新な技法を駆使、関白家秘蔵の長老歌人・赤染衛門を破るなど衝撃をあたえた。「袋草子」には「殿中、震動」などと表現している。歌合はあくまで儀式だから、おめでたい歌を詠むのが常道。相模らはそこに、中世的な高邁な美学をねじこんだ。

 境内に詳しい歌碑がある日向参詣の歌が記されたのは、定家が書写させた「相模集」。ここに相模守となった夫とともに下向した記録がおさめられている。「指てこし日向の山をたのむには めもあきらかに見えざらめやは」。歌じたいは詠み捨ての凡作ながら、当時からこの寺が眼薬師信仰で栄えていたことを裏付ける。霊鷲山にちなむ霊山寺なら、元々は薬師ではなく釈迦が主尊であったはずだ。



堂回り・庇の土間・母屋内(外部から)
 「いと我ばかり物は思はじ」という古歌の引用ではじまるこの私家集は、夫との不仲を詠んだものが多い。たとえば伊豆箱根権現との百首贈答では、実際に返事をしたのは権現であるはずもないから、夫が妻・相模を慰めるために返歌したと解釈するのが妥当とされる。「めにわづらふ事ありて日向といふ寺に籠りて」云々の、眼というのもいわば判じ物(め=女)であって、「夫の不実もはっきり見えるようになるはずだ」という含意があるのかもしれない。

 日向の薬師は鉈彫りの初期作であることがしられる。相模の下向は11C前半だから、ほぼ同一時期にあたり、造立背景も明らかになる。寺の草創は行基、とつたえているが、考古学的にみて実質的な創建は村上天皇の時代、10C半ば頃になるらしい。

 王朝時代には、藤原道長が吉野金峰山を参詣、みずから経筒をおさめた。院政期には白河院らが熊野古道に熱中した。都にはない、霊地特有の呪力と風光が、権門たちを惹きつけた。貴族と修験が、この時期もっとも濃密なかかわりを持ったのだ。頼朝は大姫の快復祈願のため、ここ日向に参詣している。「当国に於いては効験無双のあいだ思し召し立つ、と云々」(吾妻鏡1194.8.8条)。



暦応三年(1340)銘
 参道は「衣装場(いしば)」から嶮しい石段となり、仁王門からは岩根道となって本堂下の石段につづく。本堂は江戸時代の改築1660であるが、以前は軒も傾き、波打って、解体修理もやむなしの状態であった。調査の結果、室町期の大改築1380以前、すなわち鎌倉期の部材もわずかながら残っていることが判明。本堂は江戸前期の瀟洒なすがたに復元され、堂前の木々もきれいさっぱり片付けられ、かつての荒れ寺の雰囲気は、もうすっかりなくなっていた。

 古い建物は外に、薬師三尊の梵字を浮き彫りにした南北朝時代の鐘を吊る鐘楼があるくらい。写真の右区には「・・・暦応三年(大歳庚辰)十二月十五日(甲子)・大工大和権守物部光連・大勧進権少僧都豪海・院主権律師忠覼」「勧請十二神将・證誠七所権現」と陽刻されている。その傍らに公方基氏が幡をかけたという二本杉の巨木や、奥の院から移した石仏を納める古木の洞(うろ)など、みどころは多くない。

 旧本尊で秘仏の鉈彫り薬師三尊の厨子は、以前からコンクリート造りの「宝殿」に移されている。そのほか14Cころの等身十二神将をはじめ、大ぶりの四天王、御前立ちとされる丈六の三尊、および丈六阿弥陀など、頼朝参詣にまつわる伝えもある中世の古像が収蔵され、秘仏以外はいつでも見られるようだ。厨子の開帳は三が日など、年に数回。



(外部から)・宝殿・本堂
 そう。たしかに開扉はされるのだけれど、手前には壇をもうけ、和尚が二段構えで立ちふさがり、とめどなく法要や法話をはじめて拝観をさまたげ、容易に近づくことができない。仏像鑑賞には、まれにおこなわれる外部での展覧会か、県立博物館にある精密なレプリカをみるほうがよい。

 大勢の参拝客にたいし、和尚には和尚なりの、気負いのようなものがあるのだろう。参拝者全員への厄除け祈祷、薬師真言、般若心経、尽きることもない法話。和尚が手づから塗香(ずこう)をくばられ、左手で受けて両手に摺り込んで、合掌し頭をお下げください、・・・云々。もう仏像のことは諦めて、ふと両手の匂いを嗅いでみると、激マズのエスニック‐カレーのような、上級者向けの強烈な刺激臭が、鼻の粘膜に突き刺さる。これはどう洗っても落ちない。帰宅してファブリーズや手ピカジェルをまぶしても、残る。和尚らのへんな「意気込み」を、どう好意的に解釈したとしても、このいまいましい匂いだけは、どうにもいただけなかった。


 境内裏から日向山(404m)にものぼれるが、たいして展望もなく、陽はさしてきたものの、さほどいい天気でもないようだ。朝から空と相談していたが、今回は遠慮して、もとの参道を下りた。バス停の側で、日向みかんとか甘酒なんかを売っている売店のじいさんは、すっかり居眠り中。かつての参道は、もうすこし上流の、神明橋を通ったらしい。
 
 次のバスまでは時間がある。十二神橋までくだって、手をつっこみたくなるような日向川の渓流をながめながら、スパイシーな手のにおいを確かめ、カーリー寺院や注文の多い料理店を想像しつつ、ふたたび和尚さんの一方通行ぎみなサービスを思い返してみた。今度来ることがあるとすれば、もっと人の少ないころに来よう。そうすれば仏像も和尚も、もっとゆっくり拝見できるにちがいない。


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