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もちださんの鎌倉リポート No.246(2017年1月17日)



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歌びとを訪ねて・1


 「氷ばかり艶なるはなし」。そんな謎の歌論を展開した中世の連歌師・十住心院の心敬僧都(1406-1475)は、応仁の乱を背景に東国に亡命し1467、やがて品川湊から大山の侘び寺へ姿をくらました1471。

 その侘び寺とは明治に廃寺となった浄業寺という寺で、伝えでは北条政子の創建。大山ケーブルがある伊勢原口へむかう道のなかば、まだ相模平野がひろがる上糟屋の「石倉橋」バス停ちかくにあった。小さな工場のプレハブを目印に脇の路地にはいり、写真の渓流にくだって畑の畔道をただみちなりにゆくと、石段の跡につく。ちっちゃな碑はその先にある。大山の頂は、はるかむこうに木隠れにみえるだけだ。


 寺は心敬のいたころから荒廃していたらしく、江戸時代にいったん禅寺として中興された。歴代の墓はそれ以降のもので、雲珠という、脳みそのような形の柱頭装飾のついた石塔などが、山すそになかば崩れ苔むしてならんでいる。

 ここに心敬時代の遺物があるとすれば五輪や印塔のちぐはぐな破片ていどで、それは「半月池」の跡といわれる竹藪のほとりにたつ地蔵尊のあしもとなどに、わずかばかり集められているだけだ。発掘調査はあまりすすんでいないようだが、「三ノ宮比々多神社の別当寺として北条政子が創建した大寺院」というよりは、大山修験のささやかな里坊のひとつだったのではないか。心敬は「老の繰り言」のなかで、当時の浄業寺をこんなふうに描写している。

○ 仮寝の夢の中に、五年まで漂ひ侍るに、剰さへ吾妻の乱れ頻りになりて、互ひに弓胡簶のみの喧しさ、さながら刀山剣樹の下となり、旅の愁へも益々身を切る如くなれば、今はいかなる岩の狭間・苔の筵にも、しばしの心延べばや、と尋ね入り侍る程に、相模の奥・大山の麓に星霜年久しき苔の室あり。・・・


・・・本堂苔に古り、台傾き桧皮破れて軒には忍草・小松、心のままに生ひ、扉を叩く嶺の嵐に飾りの玉の乱れあへる声、簾に吊れる尾の上の鐘の微かなる響き、身に透り、袂を絞らずと云へる事なし。南の山の傍らには三熊野を遷し、梛の葉・楢柴など陰古り、苔の道細く、誠に神さびたり。門前の方には杉・檜原・花の木ども左右に並び立ちて遥かに続き、長河清く漲り落つ飛泉苔を洗ひ、流石滑らかなり。
・・・夕陽に望みて古橋に佇めば、白波の月を待ちとる影、世俗の塵垢を洗ひ、更長けて蘿洞に入れば、青嵐の松を叩く声、色相の夢を破る。

 ふるくは鎌倉光明寺の末の釈迦堂を称していたともいい、くわしくは「風土記稿」にみえるが、境内十景なるものもあったようだ。たとえば、さいしょに渡った鈴川(大山川)の橋が「連雲橋」。三熊野云々は裏山にあった「三神廟」で、江戸期にはすでに礎石のみとなっていた。


 連歌というのは俳句の原型となったもので、貴族の楽しみであった和歌や古典の教養を、ひろく庶民のものとする仲立ちをはたした。鎌倉にくだった冷泉為相は、武士たちに題詠百首歌などのプラクティスを課すほか、連歌の会を推奨。素人が気軽な即詠を楽しみながら場数を踏み、上手や他者との合作・講評によって上達してゆく方法をつたえた。

 連歌の流行によって、全国各地を宗匠として放浪し、歌道で身を立てる人もでてきた。たえまない戦乱がかれらを追い立て、貴族が独占してきた都の文化は地の果てにまで拡散していった。心敬の和歌の師・清岩禅師正徹は冷泉家に学びながら冷泉家の現在を批判し、いにしえの歌仙・定家卿の境地のみを思慕する、独自の歌学をうちたてた。心敬もまた「冷え」なる境地を理想とする辛口の連歌論を展開、多くの名人を「前句とのつながりが悪い、手前勝手な句だ」と批判した。

 美を追求するうえで、他人との合作には、限界があったのだ。やがて連歌は孤高の世界をもとめて独吟、俳句の世界へと突きすすみ、ついには芭蕉の美学を産み落とす。


 はじめ品川に亡命した心敬は、連歌論「独り言」で荒廃する都のようすを語り、歌・連歌の歴史と衰退するさまを説き、諸芸のうつりゆくさまを語った。大山で書いた「老の繰り言」では、いぜん書いた主著「さざめ言」の繰り返しだとことわりながら、「前句と我が句との間に、句の寄り持ち、作者の粉骨は表れ侍るべし」という、いつもの持論を展開している。

 つまり他人の句と自分の句がつながることに、心敬はこだわりをもった。自己完結(「結構」)の句をきらい、前後に余情をのこすこと。これは独吟を旨とする俳句や、ひとり詠む和歌の世界とはあきらかに異なっている。もちろん思わく通り、他人と100パーセントうまくいくなんてことは、けしてありえない。田舎連歌師にならった半可通は、せっかく教えてもすぐ元にもどってしまう。そう歎きながらも、教えることをあきらめなかった。まだ年若き愛好家・猪苗代兼載にともない、わざわざ奥州におもむいたりもした。

 宗祇にも、太田道灌の父・道真にも、この荒れ寺の名も知れぬ和尚にも、求められればわけへだてなく、懇切丁寧に教えた。


 伝承によれば、「心敬塚」といってちかくの小高い尾根のてっぺんに古墳があり、心敬はその傍らに葬られたという。畑がちな斜面のうえ、「三ノ宮浄水場」のほとりにある、というのだが、とくに標識のようなものはなく、Web情報でも二、三、べつの場所を撮ったものがある。「風土記稿」には「真磬塚。高さ五尺・・・来由詳らかならず」とある。

 とりあえず「伯母様」のバス停まで降りて、地元の方に聞いてみることにした。伯母様というのは戦国時代に後北条氏に仕えた土豪・布施氏の伯母が領主となり、いい人だったので記念の石仏にまつり、それが今も路傍にのこっている。一説には「小狭間(をはざま)」の訛り。ふきんの果樹園に、かつてこの伯母様の位牌があった廃寺「高岳院」の碑がたち、かたわらに鳩小屋がある。そこにようやく人影がみえた。

 「わかんないな・・・むかし立て札があったような記憶はあるけど」。郊外の里山は開発がすすみ、どこも同じようにほつぽつ新しい家が建ちはじめている。ただ、さすがに大山・丹沢とは尾根続きである証拠に、いまも熊がでるという。「だいじょうぶ。先月、射殺されたから」。


 教えられたとおり、斜面の畑を突っ切って、さっき目星をつけた尾根のうえにふたたび登ってみた。これより先は林になっている。一息であがれる尾根のうえは標高50mもないだろうが、相模平野が遠くまでみわたせる。鎌倉の禅僧も、尾根の上からはるか故郷の宋を思ったように、心敬もここから長く過ごした京か、出身地・紀伊につづく海のほうを、望んだのかもしれない。

 そうだとすれば、ここに墓があるという伝承も、さながら嘘ではないのかも・・・。考古学者は古代の古墳といっているが、古塚の上やその周囲の空き地に中世の墓地が同居する例はすくなくないのだし、いずれにせよ塚は未調査とされている。享年(70)。浄業廃寺にいくつかころがっていたような、室町期の無銘の塔の台座のひとつも、ここらにまだ埋もれているかもしれない。


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