トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第247号 


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もちださんの鎌倉リポート No.247(2017年1月21日)



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歌びとを訪ねて・2


 上糟屋には当時、扇谷上杉氏の最大拠点、「糟屋館」が栄えていたという。心敬は大田道真・道灌父子と親しく、扇谷氏はその主君なのだから、より安全で閑静な住まいとして、ここを紹介されたのかもしれない。ときおり江戸の連歌会で道灌や品川の鈴木道胤とも再会しているから、仲たがいして隠棲したわけではないらしい。

 糟屋館は大田道灌(資長1432-1486)が主君・扇谷定正(1443-1494)に殺された場所としてしられる。扇谷氏は相模守護を世襲し、その守護所となった糟屋館はふるくから栄えた上糟屋のほかに、市役所にちかい下糟屋丸山城址公園付近も有力候補とされる。道灌の墓も両所にあり、上糟屋の方は荼毘に付された「胴塚」、下糟屋のは首を捨てた「首塚」とされ、「首塚」は近年すっかり再整備されている。胴塚の傍らには古い石塔だまりもあるが、これらは後述の極楽寺跡から移設されたものらしい。


雲もなほさだめある世の時雨かな    心敬

 こんな句碑が、胴塚のほとりにたっている。ただし心敬は道灌より先に死んだ1475。やはり道灌と親交のあった詩人・万里集九(1428-1507ころ)による手向けの松が、大正期にはまだ一本だけのこっていたらしい。墓の両脇にいまは切り株となって、六角の笠をかぶせられている。ただその株も、もはやカサカサに風化して無残にくずれてしまっている。万里が道灌を偲んだ自筆の祭文がそばの禅寺・洞昌院に伝わっているが、これは「梅花無尽蔵」によれば江戸で書いたもので、実物なのかは不明。万里は道灌のもとで過ごした江戸の客亭を、この詩集の題名にした。「二千石(*太守。道灌のこと)、余の為に客簷を築く。梅花無尽蔵と号(なづ)く」。

 洞昌院は生前の道灌が創建したとつたえ、徳富蘇峰がおとずれたころには単なる農家のようだったというが、いまはそこそこ立派。三徳殿という堂が、道灌をまつる霊廟になっている。正式名を公所寺というのは、上糟屋が相模の守護所であったからという。ちかくにたつ太田神社は、教派神道系の新立神社。早雲が道灌をまつったといわれる五霊神社はすこし離れた、東名のむこうにある。また、上粕屋神社周辺には討ち死にした近臣の墓とされる「七人塚」というのもある。


 道灌(55)はなぜ殺されてしまったのか。扇谷定正は「道灌が本家・山内上杉に不忠を働いたため」と言い訳している。道灌は山内上杉から出た謀反人・長尾景春を退治したものの、その勢力圏に進出。鎌倉公方府の滅亡からつづいた享徳の乱の和平交渉1483に乗じて旧敵(公方家)にも接近し、五十子の陣を追われた山内家の不興を買った。いっぽう道灌の快進撃で「焼け太り」が指摘された定正は、お詫びのしるしに味方を殺せば、だれもがきっと喜んでくれる、そう考えたのかもしれない。一説に、首は山内方に送ったともいう。だが扇谷家は、わずか一年後には山内方の攻撃をうけるようになってしまった(長享の乱1487〜)。

 そのころ、都では銀閣寺でしられる義政の息子が早世。養子となった堀越公方の息子・義澄(清晃)がまたぞろ内乱のすえに擁立される。伊豆堀越では新将軍義澄の実弟・潤が、廃嫡となっていた異母兄・茶々丸によって母子共に殺害される事件があり、定正は出家した北条早雲を勧めて仇討ちにうごいたらしい。茶々丸が山内方であったからともいう。早雲は新将軍を擁立した伊勢貞宗の縁者(いとこ?)であったらしく、定正は早雲を、将軍家の代官のように思っていたようだ。

 定正は早雲や古河公方とともに山内方とたたかうが、やがて不慮の死を遂げる。早雲はその直後、亡き道灌に次ぐ扇谷家の無二の忠臣であった小田原・大森氏頼(?-1494)の孫を襲撃。一転して梟雄としての本性をあらわしてゆく。本家山内への義理だとか、将軍家への忠だとかいった、権威への追従にとらわれてきた定正の判断は、もはや時代遅れであったのだ。



鎧塚・上糟屋・心敬歌碑
 そもそも関東の内乱は、太田道真(道灌の父)らが鎌倉公方成氏を襲撃した江ノ島合戦1450が、引き金のひとつとなった。番頭(管領)を通り越して手代(家宰)が主人(公方)に弓を引く、下剋上はとうにはじまっていた。古河公方と管領上杉による長年の角逐(享徳の乱)も、実質的には道灌と長尾景春による代理戦争が和平への帰趨をもたらしたにすぎず、もともとそこに勝者などありはしなかった。

 道灌が主にこのんだ学問は、漢詩や和歌・連歌などだった。万里によれば、11もの自作家集を編んだという。これらはただの趣味ではなく、詩歌を愛好する禅僧や知識人・有徳人をひろく江戸・川越にあつめ、都・諸国の貴重な情報や、直近の民情を探るのに、役立った。

 文芸が社会の隅々までひろがり、都鄙貴賎を貫く広範な情報ネットワークを形成していたということは、中世を理解するうえできわめて重要だ。下剋上は文化においてもおきていた。連歌師ら芸能者には僧がおおく、基本的に【無縁】を旨としており、そうでなければ地上の義理人情を超越し、敵味方の領地を横断して旅することなどは不可能であったろう。はたして、山内や扇谷が恐れたのは、どんな事態だったのか。道灌がいきていたら、関東はどうなっていたか。


 上糟屋の「上杉館」跡は、いまだはっきりとはしていない。かつては産能大学の東、御伊勢ノ森というあたりがそれとされ、胴塚の裏手にまでつづく図のような広大な空堀がよこたわるといわれてきたが、鈴川の旧河道などの自然地形を「利用した」ともいわれる。Googl mapの航空写真などでもあきらかなように、空堀というにはあまりにも巨大なのだ。

 安楽寿院領の荘園として成立した糟屋庄は、「御伽衆」の項でふれた糟屋氏のかつての本拠でもあった。没落後は赤橋・大仏ら北条一門の領地を経て、足利・扇谷上杉へとつたわったらしい。これまで、平安時代から中世にかけての遺物や造作が多少は検出されているが、他の推定地をしりぞけて相模国の守護所・扇谷氏の居館を決定付けるような、大規模遺構は確認されてこなかった。発掘がすすめられてはいるが、考古学ではいまだ縄文・弥生の研究に重きが置かれ、進展は遅々としている。数千年積りかさなった太古と、農耕技術がすすみ、攪乱されやすい中世とでは、遺構の残り方もちがっている。


 道灌塚から伊勢原駅ないし日向薬師に向かうバスはほとんどないので、本数がおおい日向道に合流する「高部屋」バス停まで延々とあるくことにした。「高部屋」バス停ちかくにある鎧塚は、古代の古墳に中世「実蒔原合戦1488」の遺骸をあつめたところとされる。長享の乱において、山内家が糟屋館を急襲したさいの戦いである。

 高部屋の地名はひろく糟屋庄の古名であるとされ、市役所ちかく、東海大病院前の下糟屋にも、式内高部屋神社がある。ただ、そこは霊地というよりは246(大山道)沿いのありふれた微高地で、同時期に栄えた糟屋館のもうひとつの候補地「丸山城」の郭内でもあった。同社につたわる鎌倉公方二代・氏満時代の鐘銘1386には「糟屋庄惣社八幡宮」「願主平秀憲(*人物未詳)」などとあり、故地はどこかべつにあったのかもしれない。

 「高部屋」の手前、上糟屋の秋山・和田内あたりは、第二東名の工事で大規模な発掘がおこなわれている(写真)。広域発掘はこういう機会がないとできないが、調査後は毀されてしまう。高速出口にはたいていラブホテルが建って、環境もまた一変する。ここも上糟屋館の想定最大郭内にあたるらしいが、かながわ考古財団の最近の速報をみるかぎり、結論はまだ先のことになりそうだ。


 和田内にあった鎮守熊野社に、鎌倉武士・糟屋有季が付属の氏寺・極楽寺に奉納した小ぶりの鐘1196が、明治の初めころまで残っていた。特異な形状が図絵にえがかれ、「集古十種」に拓本まで採られた相模屈指の古鐘であったが、廃仏運動で鋳潰され、神社そのものも他所へ合祀してしまった1869。

 世直しの名のもとに、目先の欲にとりつかれた人々は古金屋の甘言にとびついて、二束三文で売り飛ばしてしまったのだろう。その後、この地は不作にみまわれ、文明開化の狂気を恥じた村人が、跡地に熊野金山神社という、神社というにはあまりにもささやかな祠をたてて今にいたる。ふきんにぽつねんと卵塔があるのが、寺のなごりらしい。最近、湯屋の跡らしいものもみつかったようだ。糟屋一族のものとされる石塔類は、さきにものべたように道灌胴塚のかたわらへと、移設されている。極楽寺は洞昌院の末寺になっていたし、道灌の先祖は糟屋氏の姻戚だったともいう。


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