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もちださんの鎌倉リポート No.248(2017年1月31日)



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詩碑


 江ノ島の見晴亭から稚児ヶ淵にくだるところに、芭蕉の句碑など様々な古碑が活かっている。これは徂徠門下の詩人・服部南郭(1683-1759)というひとの碑。市井の詩人・佐羽淡斎(1772-1825)の古碑もあるが、碑としては南郭のもの1805のほうが古いようだ。

○ 題石壁
風濤石岸闘鳴雷。直撼楼台
万丈廻。被髪釣鼇滄海客。三山
到処蹴波開    南郭服元喬

 江戸時代の儒学者・荻生徂徠(1666-1728)は古文辞学ということを提唱。封建思想をそだててきた従来の朱子学は後世にでっちあげられたものだと批判。孔子の時代の素朴な儒学に還り、要は「豊かに、楽しく暮らそう」と主張し、文芸なども重んじた。


 徂徠派(蘐園派)と対立した朱子学の巨頭・山崎闇斎(1619-1682)にも鎌倉めぐりの詩があるが、「実朝は忠孝を軽んじて和歌におぼれて死んだ」、などと理屈っぽいものだ。闇斎は垂加神道を提唱して朱子学の日本化に成功したけれど、東アジアを蝕んできた朱子学の狂信的原理主義を定着させてしまった。

 儒学も、元来は周代の平和を思慕する穏当な学問だった。漢代になると「今文派」といって、五行だの神仙学だのといった迷信や呪術を習合。契丹や金・西夏・元などに蹂躙された宋代にいたってしだいに凶暴性をまし、玉砕型の国粋主義をうたう朱子学へと変容する。 

 朱子学の狂信性は明治維新や「昭和維新」にも影響をあたえた。よく知られているのは赤穂浪士をめぐる対応で、朱子学者はテロを正しいと主張し、徂徠らは現実主義の立場から批判した。いまもなお性急な暴力革命を信じたり、四十七士を慕うひとが多いのだから、朱子学の影響はちいさくなかった。本居宣長らの国学を右翼思想と混同するひとも少なくないが、過激な中華思想のエッセンスはほぼ、朱子学に由来している。「もののあはれ」とは朱子学が重んじる「理」より情をうえにおくという意味だから、ほんらいは徂徠や伊藤仁斎ら、先行する反朱子学の思潮にちかいのかもしれない。


 江戸初期には諸外国と対峙するうえで、朱子学などの共時的理解も必要だったのだろう。しかし永久不変の完全思想などは存在しない。必要なのは補完し合う言論の多様性なのだ。

 鎌倉をめぐる蘐園派らの漢詩文は、新編相模国風土記稿の芸文編に程よくまとめられている。なかでも牛込の徂徠塾につどう太宰春台(1680-1747)・安藤東野(1683-1719)・山井崑崙(1690?-1728)らが、おのおの紀行をしるした三人旅がおもしろい1717。古跡マニアとしてしられた崑崙は足をひきずって参加したが、残念なことに文章は簡潔。春台の紀行には、東野とまずい酒をのんだり、あちこちで得意の笛を吹いて八幡の氏子に教えたりと、珍道中が饒舌に記されている。下戸の崑崙はきなこ餅や蕎麦なんかを平らげた。

 よく知られているのは、駆け込み寺を評して「孰(だれ)か松岡を淫婦の叢林に非ずと謂わんや」と非難した部分。他人の更生をみとめず、女は貞節に死すべし、という古い考え方を示すものだが、春台(38)は色男に惚れた女が一律に駆け込むものと思い込んでおり、読みようによっては可笑しい。最初の妻に死なれて後妻をむかえたが病弱で、実子はなかった。このひと、「経世済民」をとなえる現実主義者で、幕府は実質的に国家であり将軍は国王である、などの説をのべて波紋をひろげたりもした。


 三人の旅はケチケチ旅行だったらしく、拝観料を要求する寺には「どうせ贋物」などとしてよりつかなかった。倹約を旨とした吉宗の時代、ということもあるのだろう。伝説をやみくもに否定するのは、いかに啓蒙主義とはいえ、直言ぐせのある春台らしい辛口ぶりだ。すこしばかり漢文ができることを鼻にかけ、「華語」で悪口を言って、理解できない僧をからかったりもしている。ミッション系の小学生がよく地下鉄のなかでやってる幼稚な遊びと、おなじだ。

 特に感心したのは雪ノ下の住民に対してで、「厥(そ)の人農圃にして巫祝の事を執る。然るに能くその業を修め以て祭祀の役を共にし、古楽を奏して以て鬼神に事(つか)え、五百年一日のごとくなり。・・・余、これに於いて古き王国の遺風を見る」などと書いている。

 当時の江ノ島では満潮時、観光客を肩車して渡すのがふつうだった。わざと深みに填まるフリをして客を騙し渡し賃をぼるのだと三人をあきれさせ、岩屋も存外つまらなかったらしく案内賃をすった、とぼやいている。このあたり、政治思想(経学)に重きをおいて、同門の南郭のような人気詩人にはなりきれなかった、かれらの現実的な性格があらわれている。春台の墓碑銘は、時に反目しライバル視しつづけた南郭がつくったという。南郭は詩画が売れて豊かだったことや、隠者的な思想が春台の気にさわったようだ。


 風土記稿にはほかに平沢旭山(1733-1791)や川村華陽(1744-1784)というひとの紀行も収められている。江ノ島の岩屋周辺にはいまも立ち入り禁止のむかしの岩根道がのこっているが、華陽はどこを通ろうとしたのか、波にさらわれそうになり、ずぶぬれのまま崖をよじのぼってほうほうの体で宿にかえった、と記している。

 稲村ヶ崎では茶店のはばあが、大館次郎の話をするので感心して聞いていると、観光地図を売りつけようとした、などと書く。長谷寺では僧が滑車で明かりの紐を上下し、真っ暗な観音の厨子を照らすなどして、巧みに拝観料をかせいでいた。

 昔の儒者には雅号のほかに字(あざな)とか通称・文号などさまざまな署名があり、旭山は「沢元ト」、華陽のばあいは「川栄寿(万年)」などと認ためてある。三人旅のメンバーも「太宰純(紫芝園)」「安藤煥園(藤東壁・東野)」「山井鼎(山君彛)」などと名乗っていて、検索がむずかしい。川栄寿で検索しても何のかかわりもない、元AKBのあの人しかでてこないのだ。


○ 観瀾閣     釈義堂
軒臨滄海渺風煙。坐見数州来往船。
世事紛々白鷗外。百年真楽一床眠。

 海を詠んだ詩では、こんなのも載っている。観瀾閣は「さざ波を望む高殿」といったいみ。ここは建長寺半僧坊の座禅窟前にあった開山・蘭渓の旧庵室・観瀾閣のことだろう。ここで海をのぞめば遙かにかすみ、国々の船が行き交っている。俗世界の悩み事などカモメたちのずっと彼方に消えてしまう。なんにせよ一生の楽しみはひとときの昼寝。・・・

 こんな禅僧たちの詩にも、いくらか儒学の影響は仄見えている。中巌円月は入元し、禅の修行のほか宋学を研究。「中正子」などとみずからを語る思想書をしたため、天皇なんかも古代中国の聖人の出であるなどと、中華風に解釈している。天孫族(弥生人)はアジア共通の王、などとうたった戦前の極右思想の萌芽なのかもしれない。



203高地の石(江ノ島・児玉神社)
 こんにち、儒学にかんする関心はきわめて低い。しかしヤクザは、おのれを利用する組長のために、死を賭して忠をつくす。周辺アジアでは、たあいもない嘘(=理)に土民が激しく一体化し、歴史の一真実を知ると国が滅ぶ、嘘がバレると人生が終る、と国家ぐるみで悶絶している。「理」にすがって破滅型の「英雄人生」をあゆみ、ただ殉死だけが正義とされる。

 毛沢東主義とか、統一教会とか、民主化運動だとか、どれだけうわべの意匠を変えたとしても、その本質は亡国の時代にはぐくんだ「朱子学」と何もかわっていない。それは生きた思想などではなく、破滅をくりかえしてきた周辺アジアの、みじめな歴史の排泄物なのだ。

 異文化にあこがれる者は多いが、ただ追従し模倣すれば済むという問題ではない。儒学がどのように侵入し、日本になにをもたらしたか、わたしたちは「自身の歴史」から、いまいちど学び直すひつようがある、と思う。


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