トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第25号 


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もちださんの鎌倉リポート No.25(2008年3月15日)



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切り通しと城・1



寿福寺の切り通し。
 切り通しというと、京都などでは「突き抜け」と同じように、通り抜けのイメージがある。山の切り通しも、だから通りやすいように急坂を削って広く平らにしただけのものと思いがちだ。だが、発掘調査報告書などをみると、たいてい山城の中を迷走するような、うろこ状の曲輪をもつ、いかつい造形になっている。

 京都では、修学院雲母(きらら)坂城【注1】というのが比叡山の中腹にあって、意図的に道を掘割構造にし、かたわらに高台や平場を築いているが、これは皆さんご存知の名越砦(まんだら堂)を貧弱にしたような城(砦=とりで)である。東勝寺の大町トンネルのまうえにある切り通し跡も同様だ。中世の「城」の概念から見ると、切り通しはりっぱな城砦というしかないのだ。



大仏坂の遠望。中央左が大仏。その左の谷筋が切り通し。右は佐介につうじる大谷戸。
 明治14年(1881)の石碑「重修大仏坂記」【注2】では、荷を担いで道をゆくものは、汗だくになって喘いでいたという。この年ようやく石畳の道ができ、荷車もすれ違えるようになった。旧道からトンネルにむかって10mほどのこっている広い枝道が明治の新道(廃道)の跡らしいが、すでにかなり埋もれている。やぐらのある、一番ふるい部分は「火の見」バス停ちかくにあるが、ふもとであるにもかかわらず両側から切り込んだ3段の崖がせまり、むしろ嫌がらせに近い構造だ。荷車はもちろん、荷駄さえすれちがうことは困難だろう狭隘さにくわえ、急傾斜のカーブまでがくりかえされている。

 むろん合戦をかさねるたびに、細くしたり、石で埋めたり、棘をめぐらしたりの小細工を繰り返していたに違いない。切り通しはまた、地震でなんども埋まった記録があり、そのたびに時代に相応しいかたちに改修された場合もあると考えていい。生活道路として再生されなかった場合には、きびしい防塁の名残がそのまま刻まれているのだろう。逆にいえば、広く平らな「切り通し」は、むしろ明治の道に酷似している。



碑はいま大仏の門前にある。
 腰越といふ平山のあはひを過ぐれば、稲村といふ所あり。険しき岩の重なり伏せる迫(はざま)を伝ひゆけば、岩に当たりて裂き上がる波、花の如くに散りかかる。(「海道記」)

 「海道記」ではいわゆる稲村道をとおっていて、切り通しの記述はない(そのかわり、京の粟田口のところに「堀道」という記述がある)。「とはずがたり」には化粧坂(極楽寺坂の誤りかとも)の名が見えるが、とくに切り通しの描写はみえない。

 江戸時代、元禄の大地震のさいには巨福呂坂が埋まり、旅人は木の根にとりついてようやく越えたことが梨木祐之「地震道記」1703にみえている。その後、明治ころまで巨福呂坂は円応寺の旧境内を裏門から表門まで突っ切っていたという。つまり私道のようになっていた。この道はすでに鎌倉時代から崩落が続いており、1240・1250年に改修の記録がある。

 海蔵寺のふるい栞に「寂外谷」といって頼朝が作りかけた切り通しがある、というのは大堀切のことらしい。瓜ヶ谷やぐらの脇に抜けるはずのちいさな切り通しは埋められ、現在まったく通行できないが、真上を十字に交差する葛原ヶ岡ハイキングコースでは、数段に落ち込む壮大な空掘のようになっていて、切り通しの断面構造がよくわかる。

 底を横切る土橋をほんらいの位置まで掘り抜いたばあい、上の道は引き橋をわたして立体交差になるほかない。掘割みちの上部に橋や櫓を渡す構造は近世の城にもおおくみられるほか、寝殿造りなどでも廊下の下をくぐる立体構造「馬道(めんだう)」は不可欠な要素となっていた。

 発掘調査の図面によれば、こうした「立体交差」や「木戸」、極端な段差をのぼりおりするため取りはずし可能な梯子をもちいる「懸門構造」などがあったことは、ほぼ確実であろうとかんがえられる。まんだら堂やぐら(名越切り通し)の斜面に木製の「懸け橋(桟道)」のようなものがあるが、ああいうものが中世にもあったかもしれない。ただ木製構造物はのこりにくく、遺構といえるほどのものはない。


大堀切。人工的に掘り割った垂直な「切り岸」があらわになっている。右手の崖下が海蔵寺。切り岸のうえは平場。



底部に直交する土橋。いったんこの先を上がりきってコの字型にまがると左の谷底(瓜ガ谷やぐら)におりる別の隠し道があらわれる。
 ハイキングコースをあるくと急激な段差や路傍の高台、切岸、平場のたぐいがいかにも目立つ。尾根筋・谷筋をとおる廃道に名も知れぬ切り通しがのこっていることもある。なにが遺跡なのかは、中央図書館で発掘調査報告書などを見てはじめて気づくことも多い。すっかり舗装道路になった化粧坂の佐助ルートにもかつてやぐらなどが分布していたというし、亀谷坂の両脇の山中にも遺構が残っているらしい。

 化粧坂、という名前は、そこにすむ遊女の化粧とか、首実験の化粧とかいう説があるが、わたしは「行粧を繕う」場所ではないかとかんがえている。旅支度と府内で威儀をただす儀礼行列とはべつになっていたからだ。つまり公式行事や使節などのばあい、境界にあたる場所で衣装を変えなければならないしきたりがあったのだ。それはそれとして、坂自体がさまざまな「仕掛け」によって粧われていたのだという見方があってもいいと思う。

 やぐらは、街を巡る境界に分布することがおおく、当時の他界観や、「穢れ」の問題が指摘されている。そのいっぽうで、墓を城壁や町、集落の入り口に配置し、その霊力で敵をおびえさせるという習俗も、世界各地にある。日本でも縄文以来、おこなわれていた。ちかくでは横浜市北部にある歴史博物館に隣接した公園に復元されている大型弥生集落「大塚・歳勝土遺跡)」でも明瞭にみてとれる。

 朝比奈切り通しの出口(鎌倉側)にある朝比奈砦跡は半円形の平場にやぐらや火葬場、納骨堂のようなものが検出された。大仏坂の入り口や、名越切り通しの峠にあるものとほぼ同じものであることがわかる。攻める側もきもちがわるいし、先祖の墓がそこにあれば、武士たちはより真剣に持ち場を守ったはずだ。


大仏坂では、入り口近くにこんな切岸に囲まれた高台を設け、みちを見下ろす「武者溜まり」に利用できるようにしていた。

【注1】雲母(きらら)坂城については京都市文化財ブックス第20集「京の城―洛中洛外の城館―」2006.3.1刊。
【注2】重修大仏坂の記  
鎌倉の地たるや南は海に瀕(せま)り、東西北はみな山なり。七路あり、山を鑿(うが)ちてこれを通す。その西北の路を大仏坂といふ。最も険しくかつ隘(せま)く、負ひ担ぎてこれを過ぐる者は数歩せずして口喘ぎ背に汗す。郷の父老「三橋左衛門・矢澤小左衛門・徳増七三郎」等二十余名、金を募りこれを修めんと相ひ謀る。官、その志を嘉し、賜うに金百円を以てす。明治己卯(1879)夏五月、彼を興し、庚辰(1880)春三月に至り竣功す。 およそ五町の間、両崖を三丈削り石を畳み以て崩壊を防ぐ。而して平坦を得るは八十余歩、広さ二軌を容るべし。用いし工二千三百五十余人、費せし金一千余円。昔の口喘ぎて背に汗する者、今はすなはち歌を謳ひて過ぐ。衆みなこれを徳とす。それ、人に恵みを施すは金帛を小とし道路を修むるを大とす。その久遠に迄(およ)ぶを以てなり。小左衛門等二十餘人、能くその大なるものを択び率先して功を成す。偉と謂ふべし。余、万に其事を記し、以て郷人の志を石に勒するなり。  
 明治十四年五月  阿波 伊藤士龍  撰し茲に書す (原文は漢文)   


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