トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第250号 


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もちださんの鎌倉リポート No.250(2017年2月13日)



No.249
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消えた伝説・1


 荻原井泉水の「鎌倉の雪―実朝を尋ねて―」には、昭和のはじめころの大御堂谷がえがかれる。そこにあったちいさな五輪塔(散逸)は、義朝主従のものではなくて、実朝母子のものだという所伝をつたえている。まだそのころは、道の左右に「細長い田」などがあった。それがとぎれるあたりに、今も残る鎌倉青年会の石碑がたっていた(レポ38参照)。

 さらに奥のバンガロー風の家の畑がつきあたりで、「ささやかな森」のなかに「好くも雪に埋れなかつたと思ふ程の小さな五輪の塔があつた」。かたわらに後世の角塔婆が朽ちており、「も一つ、二間程離れて、猶小さい同じ形のものは政子の墓と称するものだらうか」。 

 江戸期、ここをたずねた山崎闇斎は義朝・鎌田の詩とともに実朝についても詠んでいる。ただし歌学にふけって孝忠を怠った、と批判的だ(垂加草・巻3)。


 亀ヶ谷坂の獅子王文庫、すなわち日蓮学者・田中智学邸のことは明治四十五年、高須梅渓(評論家1880-1948)という人の「スケッチ文集」鎌倉の印象の項にでている。このへんを「かなめ山」といっていたらしい。岩船地蔵から養気園という小汚い温泉宿をへて、洞門をくぐる。智学氏は書生を愛し、居候を苦にしなかったとか。文庫には香風園というちいさな庭園もあった。

 獅子王文庫はやがて香風園の名をひく老舗旅館としてしばらくあったようだが、いまは獅子王文庫の碑をのこし、すべてアパートに変わった。「千羽鶴」を書いた文豪・川端康成も愛し、D.キーンさんが「みごとな庭園」と書いたその庭はすでに跡形もなくなっている。ここは勝縁寺谷といって、志一上人かなんかのゆかりの寺があった跡だともいう。

 経典研究の場、といえば、いまは鈴木大拙氏ゆかりの松ヶ岡文庫が研究者向け施設として山ノ内にのこっているが、一般には公開していない。名著とされる大拙の「日本的霊性」というのを読んだことがあるが、これは戦時中のありふれた精神論を説く通俗的な書物にすぎなかった。私にはまだ、彼らの真価をよくわかっていない。


 高浜虚子「道」の「一日(鎌倉)」という章に、鎌倉能楽堂のことがでている。これは今の「鎌倉能舞台」とはまったくべつのもので、佐助(笹目?)の塔の辻をすこしはいったところにあったらしい。大正のはじめころ、金持ちのじじい連が道楽でたてたものに、世話役を称して虚子が入り浸ったという。虚子の父祖は愛媛松山藩で代々能の世話役をしていたらしく、兄も明治の能楽復興に尽力、おそらく血が騒いだのだろう。

 自身、骨がらみの能好きだったのはたしかなようで、舞ったりするほか新作能を書いたり、ふさぎがちな漱石にしつこく勧めたりもした(「漱石氏と私」)。残念ながら鎌倉能楽堂は大正震災で倒壊し、虚子の文名をもってしても能文化の発展を担うものにはならなかった。

 このころの佐助は畑だらけだったというのだが、いまも奥のほうには畑をやっている土地もある。東佐介宝塔という、ほぼ無傷の石造宝塔がでてきたのは、いくつかの子谷のひとつ、「法性寺跡」とされるところ。「佐介右馬允」の銘のある、極楽寺付近で出土した印塔は、いまはどこかの遠い田舎に所蔵されているらしい。



無言の塔
 志村智鑑「日蓮聖人の教へられたる国家と人生」1920には、かつて多宝寺の五輪塔を「無言の塔」といっていた、などの所伝がみえる。あれほどの大きさにもかかわらず、銘文がなかったから。茅をかきわけて登ると、塔の下の平場は当時、畠となっていたそうだ。

 浄光明寺には行敏の天狗松・蛇松というのがあり、サトイモのかたちをした行敏の墓なるものがあったという。行敏は日蓮の訴訟にでてくる浄光明寺の浄土僧で、日蓮とはげしく対立。日蓮宗の遺恨はともかく、なぜか浄光明寺のほうでも、彼と弟子は天狗と蛇になって寺史から抹殺された、としている。

 怨念にみちた日蓮宗側の歴史では、桑ヶ谷問答の相手・龍像という和尚が、夜な夜な死人の肉を切り取って食った、などとつたえる。桑ヶ谷といえば極楽寺の療養所があったところで、忍性が非人や病者をあつめた。非人には薬、と称して肉食の習慣があり、かつては餌取りといって鷹の餌と称し野良犬の肉をあつめたりもした。また魯迅などが書いているように、韓国や中国ではつい近代まで健康な子どもの生き肝が病者の妙薬だと信じられていたため、日本でも「安達原の鬼婆」「合邦が辻」などの怪奇伝承がうまれており、非人や病者を蔑む、このような謬見が組み立てられていったのだと思われる。


 日蓮宗門では忍性は最大の仇役「良観房」とされ、手の付けられないホモビアンで桑ヶ谷療養所の美僧を溺愛し、ついにハンセン病をうつされた、などと面白おかしく伝えられた。「玉舟和尚鎌倉記」によれば、この美僧は「エンケン首座」といって、かつては蘭渓の弟子で、江ノ島童子(竜王八王子)の化身した美少女が蘭渓に仕えているのを女犯だと讒言して師を流罪の窮地におとしいれ、また師の没後に形見の円鑑を傷つけたりしたため、出奔して療養所にまぎれこんでいた札付きの犯罪者だったという。

 円鑑とは銅鏡の表面に水銀のようなものでウチワをもつ女体観音像とおぼしき影がえがかれた、建長寺の秘宝(「風入れ」で展示)。むかしは鍍金といって水銀を銅に直接塗り、金箔などを貼り合わせる。水銀は銅にも金にも瞬時に溶けるので、あとは水銀成分を焼いて蒸発させればメッキが完成するのだが、水銀蒸気が有毒なため、現在は原則禁止されている。鎌倉大仏の金箔もたぶんこの技法らしく、大阪の四天王寺には平安時代に「太子お手塗り」の露盤(塔の相輪)なんてものが名所になっていたから、「塗る」技法はたぶん、広く知られていた。


 江戸前期のふるい紀行文には、とりとめのない伝説が多い。たとえば「巡礼物語」には、鎌倉の大仏が「風神級長の尊と申すの娘」を娶り、悪女ゆえに離婚したその腹いせに、大風が大仏殿を破り、いまも眷属の風雨が「仏に仇をな」している、と云々。

 「金兼藁」には、報国寺の天岸慧広が上方から来た相撲取りを投げ殺してしまって、その供養のため自らの左の小指に火を灯して回向した、などという。また「源十郎弥十郎」というものが大根をつくって長者になった、という話は佐助稲荷にも掲示してあるが、その話には続きがあって、最後に「覚苑寺の奥の二基の石塔は、弥十郎夫婦の為に立てけるとなん、語り伝ふる」と結んでいる。

 この塔は覚園寺墓地の奥に土塁を隔てて背中向きに立っている二基の開山塔(平時は非公開)のことで、同時期に書かれた「玉舟記」には「頼朝の石塔。覚園の後にあり。夫婦の二塔なり。并に石塔十二あり。いかさま故ある様なり。何人のしるしと云事を知らず」などの異説もつたえる。開山・二世の塔は各十二もの梵字月輪をきざむ巨大な宝篋印塔。十二の石塔は歴代の卵塔のことで、かつてはハイキング‐コースからも下りられたらしいが、いまは境内として封鎖され、なかなか拝観できないのは残念。右は古写真などをもとに描いたイメージCG。


 明治時代の鎌倉研究者・大森金五郎博士といえば、首まで漬かりながらあの岬を海中踏破した、「稲村崎徒渉の記」1902でしられる。これは「歴史談その折々」という本に収められているが、他の随筆にも、宇津宮稲荷はじぶんが見つけた、などと当時の手柄話がのっている。当時は畠の中にあったらしい(レポ74参照)。

 明治以前には宇津宮辻子幕府のあった場所は確認されておらず、この祠の呼称から【地名の残存】が学界に初めて知られたのだとか。同様に、洲崎千代塚の「洲崎」の地名も湮滅していて、洲崎天神という小社の通称から実証されたのだという。大森博士が書くところの「洲崎天神」はいまの上町屋天満宮のことらしい。名もなき「史蹟」は、こうして学者に【知られる】ことによってのみ、由緒をもつようになってゆく。逆に学者が否定し黙殺した伝説は、みな忘れられてしまった。


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