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もちださんの鎌倉リポート No.251(2017年2月16日)



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消えた伝説・2



七度小路
 「頼朝最期物語」では、頼朝が浮気のため女装して徘徊しているところを、畠山六郎に誤殺される。あまりにも見苦しいので、事実はそのまま内密にされてしまった。その後、六郎に懸想した娘が悶死し、遺言で六郎が通る切り通しに、追善の堂をたてた。だが六郎は、気味悪がってその堂を焼き払う。激怒した娘の親は頼朝殺害の事実を明るみに出し、六郎は追討を受ける。六郎は浜の大鳥居に飛び乗るなど奮戦ののち、みずからの非をさとって海に没し、そのまま龍宮の婿になった。

 ・・・荒唐無稽の伝説には違いないが、六郎の墓(供養塔)と称するものは、今も大鳥居のそばにあり、六郎茶屋と称する店もあったという。中世、鎌倉公方は八幡宮への参籠のさい、大鳥居を七度くぐった。お百度参りのような意味があったのかどうか、この行事から若宮大路を「七度小路」とも「千度小路」「千度壇」とも呼んだ。



太田道灌墓(源氏山)
 中世の伝説の「薄気味わるさ」をひとくちにいえば、主人公はもとより人間ではない、ということだ。物語の六郎はしだいに妖気をおび、鳥居の上からひとり大軍をしりぞける天狗(鳶)の化身かとおもえば、さいごは海底人・・・。そういえば平家物語の緒方三郎には鱗があり、太平記にでてくる阿度部の磯良は海底に棲み、神功皇后に龍宮の玉をたてまつったという。

 太田道灌には「夢見が崎」の伝説がある。横須賀線新川崎駅ちかくの加瀬山に城をつくろうとした夜、鷲に兜をうばわれる悪夢をみて、断念した。こうして道灌は【江戸】に移転、将来の繁栄を予知した、というのだ。兜が落ちたという場所にはなぜか塚(古墳)があり、断念したはずの岡にも「天守台」なるものが伝えられ神社となってのこった。中世の庶民にとって、貴人とはそのようなものでなくてはならず、なんの神通力ももたない現実の支配者なんて、つまらないものに思えたのかもしれない。

 未開人の空想力を笑ってはいけない。それはある種の寓話なのだ。二十世紀、抗日の英雄として崇められた中国の少女は、自在に空を飛んで夜な夜な日本軍に火の玉を降らし、大砲の弾もしぜんによけていったという。気色の悪い話ながら、思い当たる点はなくもない。


 和田義盛の息子・朝夷奈三郎義秀は怪力伝説の持ち主で、小坪の浜で大鮫を手づかみで捕らえたとか、和田合戦では敷石を投げつけ力任せに幕府の惣門を押し破り、敗戦後は朝比奈切り通しを一夜でひらいて房総からはるか高麗の地にのがれ、やがて釜山で神にまつられた、などとされた。かつては切り通し麓の平場でも三郎茶屋などといって、歌舞伎などでの義秀人気にあやかった「力餅」が売られていたらしい。

○ 然るに狭き切り通しを転ばし出さん事なり難く、あぐみはて、天に祈りける・・・かくてあさいな、丹誠をこらし祈りしかば、たちまち空かき曇り、雷一つ響くと等しく一つの雷火、大石の上に落ちたるその響き、地も裂くるかとすさまじく、かの押し倒せし大石、二つ三つに打ち割れけるぞ有り難き。

 絵草紙「鎌倉金沢 あさいな切通」は、義秀が一夜で切り開いた伝説をあつかってはいるが、ここでは「切り通し全体」ではなく、勧進和尚が百人の人夫で開削するなか、どうしても取り除けなかった「ひとつの大石」を噂に聞き、家来とふたりがかりで、さりげなく片付けたことになっている。さいごは落雷という合理的な解釈で割り切られ、神の申し子・半神半人としての三郎本人の霊性はかなり減退している。江戸時代は啓蒙の時代でもあったのだ。



茶屋跡のちかくにある三郎滝
 吉田松陰の「癸丑遊歴日録」には、数度にわたる鎌倉来遊の一端がしるされる。嘉永六年1853五月二十五日、松蔭(24)は瑞泉寺に竹院上人(母の兄)をたずね、終夜談笑。次の日は旅のつかれからか、読書。二十七日の午後からは寺の小僧をともなって、大塔宮土牢・頼朝法華堂・頼朝島津大江広元公の墓などをたずね、荏柄天神を参拝、補陀落寺から浜にでて富士山をながめた。二十九日には上人らと大仏・観音をみ、浜辺をあるいて江の島見物。帰りは竜口・化粧坂をへて寺に戻り、詩を詠む。翌日、江戸に帰還。・・・行き来とも戸塚を経由したらしいから、東海道ルートだったようだ。

 そのわずか三日後、「賊艦来泊」の報を聞き、松蔭は佐久間象山を追いかけるように浦賀へと急ぐ。黒船は杉田あたりへ北上し、すでに測量を開始している・・・。いわゆるペリーの来航。松蔭の日記は部分的にしか残っておらず、鎌倉に関する著述はこのていど。だが二年前にも、三浦半島の海防を視察のついでに瑞泉寺を訪れた。また当年九月、長崎でロシア艦に乗ろうと旅立つ前にも、上人をたずねたとされる。



破損仏(八菅神社)
 松蔭に関する本1893がヒットした徳富猪一郎(蘇峰)は昭和二年、顕彰碑の依頼をうけて二十年ぶりに瑞泉寺を訪ねた。駅からわざわざ旧式の幌馬車に乗っての見物だった。寺は大正大震災で全壊したまま、仏像などは仮屋に安置していた。

 同じころ、蘇峰ははじめて覚園寺を訪ねた。「燈台もと暗し」と言い訳しているが、当時はあまり知られていなかったのだろう。黒地蔵は修復されていたが、薬師堂は「上下動の為めに、須弥壇が毀れ、本尊の薬師から十二神将まで、何れも首を失ひ、手足を捥がれ、そのまま放棄して、目も当られぬ様体だ」ったという。宝戒寺は本堂・山門などを焼失して庫裏だけになっていた。その一隅に仏像を修復する「美術病院」が、明珍恒男氏によって設けられていた。甲冑細工師の出で、岡倉天心に命じられ奈良美術院で仏像修復にたずさわった、当時指折りの専門家。

 「有隣」339号によれば、覚園寺の仏像は「黒地蔵を除いて修理をやっておらず、瓦礫のような状態が戦後まで続いてい」た。その後、跡を継いだ息子さんによってようやく専門的な修復がはじまる。それまで待てず、へたな仏具屋に頼んでいたとしたら、かえってひどいことになっていたかもしれない。


 蘇峰は逗子の別荘で被災し、鎌倉の惨状もつぶさにみている。「蘇峰随筆」によれば、三層に建てた逗子の山荘(老龍庵)のすぐ下まで水がおしよせた。そばの富士見橋は津波でながされ、田越橋は真ん中から折れて坂になった。上流の堤防もくずれ、息子の家(桜山山荘)はすでに倒壊しかかっていた。

 関東大震災当時の写真は、極楽寺の本堂などにも掲げられているほか、各種書籍、専門のHPもあるようだ。八幡宮も長谷寺も倒壊。「空の宮様」としてしられた山階宮武彦王の新婚の妃・佐紀子女王は懐妊中の身で圧死し、一家が遺体とともにまだ御成御用邸の奥庭の天幕におられるところを蘇峰も見舞っている。

 蘇峰らは殺気立つ被災地を、炊き出しなどの世話になりつつ、東京大森の本宅まで徒歩でむかった。作家のなかには暴動を信じ、自警団にいりびたった者も多かったが、かれはさいしょから信じてはいなかった。「社会主義者が煽動する朝鮮人労務者」とまちがわれないよう、あらかじめ「国民新聞記者」と書いたたすきをかけていたものの、途中、何度も誰何(すいか)をうけ、怒号をあびた。・・・蘇峰の国民新聞はかつて日露講和に賛成の立場をとり、朝日派暴徒による焼き討ちの惨禍に遭った。この震災によってさらに社運はかたむき経営権を譲渡、大戦中、東京新聞に吸収されて終った。


 かつて文学館の館長をしておられた永井龍雄さんが、評論家の小林秀雄さんと泥酔して帰宅中におちたという「八幡宮の溝」とは、どのあたりだろう。小林さんも、水道橋駅のホームから外堀に転落したことがあるらしい。それいらい母上の霊が小林さんのうしろを提灯のように付いて来て、どんなに酔っ払っても守ってくれるのだ、とか。

 こんにち、小林文学は「私(わたくし)評論」などとよばれ、対象の分析よりも個人的な自己表出に重きをおいた、一種の随筆のようにかんがえられている。さきの大戦にたいしても、「僕は無智だから反省なぞしない」といって、安易な変節をきらった。徳富蘇峰は、戦時中に悪乗りした責任を限定的にみとめた。いずれにせよ批判は受け止める心積もりだったのだろう。小林さんの追悼号でノーベル作家のOは、氏を「ソヴィエトを批判する反共主義者の頭目」と糾弾。ソ連産の高級キャビアを送りつけてやった、どうだ、美味かったか、などと子供じみたことをさも得意げに書いている1983。

 だれにでも誤りはあるものだ。だが、かれら知識人をたくみに利用して金儲けにはげんできたのが、かつての内閣情報局のドン・大手偏向新聞の幹部だったことを、けして忘れるわけにはいかない。売れてもたかだか数千、数万部にすぎない作家個々の声など、数百万メディアにとっては、波にただよう塵芥(ちり・あくた)のようなもの。日本の未来を誤導したのは、実は名も知れぬ、数多くの記者たちだったのかもしれない。


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