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もちださんの鎌倉リポート No.254(2017年3月1日)



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ささご姫・1


 横須賀線のルート変更いらい、あらたな人気タウンとして再開発がすすむ川崎郊外のイメージはドラスティックな変化をみせている。さきに王禅寺や影向寺を紹介したが、ほかにも、鎌倉にまつわる重要な古寺が、いくつかある。

 常盤がうんだ義経の同母兄で、醍醐の悪禅師とよばれながら二代将軍・頼家の代までいきのびた、阿野全成(1153-1203)ゆかりの妙楽寺は、小田急向ヶ丘遊園の東、藤子不二雄ミュージアムよりすこし先の、「長尾」というところにある。バス停から急坂をのぼると崖のうえは新興住宅地。停留所ちかくの信号に「あじさい寺入り口」とあるように、初夏の花の寺としてもしられている。

 山門左の薬師堂におさまった戦国時代の仏像(伝・行基作)右脇侍に、「武州立花郡大田郷長尾山威光寺」云々の胎内銘1545が発見された。これが「吾妻鏡」1180条などに書かれた源氏歴代の祈願所「威光寺」で、全成に与えられたとする「長尾寺」に該当するというのだ。


 全成は沼津の阿野を本領とし、妻は実朝の乳母をしていたが、自身は八田知家にあずけられ、常陸でころされる。のち嫡子時元も挙兵して死んだ1219。ただ女系は生きながらえて阿野簾子、すなわち後醍醐天皇の挙兵を後押し、大塔宮を血祭りにあげたスペードのクイーンを生んだ。生前の全成の記録はほとんどなく、悪禅師というからには僧兵を率いたり、醍醐寺の法系につよい政治力を発揮したとも思われるが、そのあたりは残念ながら不明。

 威光寺はやがて、かの碑文谷日源が改宗した雑司が谷鬼子母神法明寺の前身「威光寺」と混同されたり、現存する妙楽寺も近世には深大寺末の天台寺院になって、全成とのかかわりは忘れ去られていた。薬師堂はもともと境内左の高所にあったらしく、かつては影向寺の古仏と同木で、円仁作との伝えもあった。その背後に横穴墓を転用した霊窟「大師穴」があり、梵字の存在から「弘法大師の遺跡」とされ、月待ち板碑1492などがたっていたという。

 周囲はいまでこそ住宅街だが、辺縁からの見晴らしは良い。江戸期の紀行文「松の栞」(*原得斎1832)によれば、かつては江の島までみえたとか。岡の上にあるということは、威光寺もかつては山岳寺院だったようだ。戦国時代には一帯が砦となったこともあるらしい。坂のすぐ上の長尾神社は「五所権現」といって、修験の神社。隣接する公園には、「五所塚」というなぞの塚も現存している。



下段・右奥が長尾神社
 一直線に並ぶこの塚は、平将門か長尾景虎(謙信)の合戦で死んだ、「御所」方の墓ともつたえる。「松の栞」にも書かれた稚児の松(*現存しない)などの伝承もあり、付近から石の箱を掘り出したこともあるらしい。ただこれはただの古墳ではなく、各地の村境などにおかれた、十三塚と総称される中世のなぞの塚の一種なのだ。

 十三塚は修験の祭壇ともいわれ、くわしい用途は不明。近付くとたたりがある、と伝えられた所もおおく、ちかくに経塚や入定塚を併設するところもある。十三基ならべるのは成仏をいのる十三仏にちなんで、ごく一時期におこなわれた流行にすぎないようだが、五所塚も長尾神社敷地部分にむかってさらに数基、ならんでいた可能性もある。射的祭「マトー」は桃の弓をもちいた魔よけの神事で、もとは流鏑馬だったともいう。埋められた稚児は合戦ではなく、この流鏑馬で死んだとの説もあるようだ。

 太古から、世界中に共通してみられる風習で、魔を避けるためにあえて村の入り口や境界に墓をたてたり、首狩り塚のように厭物を埋めたり、晒したりした。いぜん触れた畠山重忠の六ツ塚や、泣坂踏み切りの古墳なんかもその例かもしれず、ひろい意味では北鎌倉の「晴明石」や関の伯母様、あるいは山稜部のやぐらなんかも、同じ機能があったのかもしれない。川崎では後述する「九郎明神」の上、稲城市平尾との境に十三塚が完形で残るらしいのだが、柵の奥のヤブのなかなので事実上、見学はむずかしい。影向寺ちかくの十三菩提は宅地化で消滅した。



重成夫妻の墓
 小田急向ヶ丘遊園にはかつてモノレールがあり、同名の遊園地があったがいずれも廃止された。すこし駅にちかいところに「生田緑地」というのもあって、首都圏有数の古民家園や岡本太郎美術館などもあるのだが、ここは本来、稲毛重成(?-1205)の枡形山城跡として知られていた。早雲も在陣したが、城らしき遺構はほとんどない。重成の子・小沢小太郎重政は北西の小沢城に依ったという。

 線路沿いから専修大学にのぼってゆく道のほとりに、韋駄天をまつる天神社と広福寺の参道が向かいあっている。重成夫婦の墓は、この寺につたえられている。重成はいとこ畠山重忠の謀殺にかかわったとして評判はよくないが、ただ正史とはべつに、重忠と共に闘い、一門共にほろぼされたことを強調する異伝もある。

 収蔵庫にある出所不明の秘仏のほか、境内に古いものはなにもない。ただ近代につくられた鐘にくわしい縁起文がきざまれている。寺はもともと円仁の創建で、重成は亡き妻のために出家、復興したという。妻とは北条時政娘・一室円如(?-1195)。吾妻鏡は彼女の死のあたりでいったん途絶えているが、頼朝変死の端緒となった相模川橋供養1198というのも、重成がこの妻の菩提のためにおこなったとされる。


 そういえば阿野全成の妻も時政の娘で、実朝の乳母にもなった阿波局(?-1227)。北条政子の妹で、俗に「保子」というのはむかしの大河ドラマでつけた仮名らしい。『曽我物語』にみえる北条政子の夢買いのエピソードによれば、彼女はせっかくの吉夢を姉の政子に売ってしまった、残念な女性とされている。

 阿波もそれなりの努力はしたらしく、梶原景時追放1199のきっかけとなった、結城朝光への告げ口も彼女。ただ将軍頼家は実朝派の彼女の謀略とみたようで、やがて夫・全成を誅殺1203。阿波は姉・政子のとりなしで辛くも一命をとりとめる。対立した頼家は直後に病にかかり没落したものの、今度は牧氏のクーデターで実朝の地位があやうくなる。阿波はまたも政子に告げ口し、父・時政の追放にまで発展した1205。畠山重忠の謀殺はその直前のことで、牧氏のクーデターに巻き込まれた、との見方もある。

 たのみの実朝が横死するとそのわずか四日後、乳母子にあたる阿波の実子・時元は本拠の阿野で「挙兵した」とされ、追討軍によって始末される。吾妻鏡は「(北条追討の)宣旨を賜」わったとするのだが、実朝暗殺が京都に知らされるのは、その翌日なのだ。



広福寺観音堂・本堂
 阿波にせよ政子にせよ、肉親をつぎつぎに「生贄」にしたしたたかな女、といえるのかもしれない。人々はたえず狐疑をいだき、体制転覆のうごきは常にあった。頼朝の異母弟、九郎判官義経は奥州に追われて殺され、蒲の冠者・六郎範頼は富士の巻狩(曽我兄弟の仇討ち)にからんで修善寺に幽閉され1193死んだ。八男・三井寺の義円はすでに源平の墨俣合戦で死んでおり、全成は七男だったという。

 先日、北朝鮮の金正男(1971-2017)が暗殺され、おおきな話題となった。源氏一党が皆殺しにほろんでいった状況と、どこかにている。正男はとことんダメ人間を演じ、野心の無いことをアピールしていたらしいが、それでも正男を担ぐ計画があったとすれば、独裁者の人望はそれ以下なのだ。かつて殷の暴君「紂」の叔父にあたる箕子は、発狂したふりをし、奴隷にまで身をやつして姿をくらました。「朝鮮がいつまでもみすぼらしいのは、箕子の子孫だからだ」。そんな箕子朝鮮神話は、単なるとりつくろい史観にすぎないのだろうけれど、説話自体はふるくからあり、未開社会の思考形態をよくあらわしている。百済という国号も、あるいは周を非難して餓死した伯夷・叔斉にもとづくのかもしれない。


 川崎付近はもともと摂関家の荘園で、承久の乱いご、過半を関東直轄領とするため、よそと交換させた文書(関東下知状)がのこる。もともと武士らは各地の荘園に庄官・地頭(地回り)として寄生していったようだ。もちろん鎌倉時代の地頭には、幕府による任命・認可が必須となった。

 川崎駅にちかい宗三寺(旧勝福寺)に、かつて佐々木泰綱と母十阿(河崎尼)がつくった梵鐘1263が伝えられていたという。泰綱の実母は北条義時の娘とされ、河崎尼は継母にあたるが、早くから川崎を開拓していた秩父平氏(河崎為重)の娘。泰綱の父・佐々木信綱の鐘1227は座間の星谷寺に今ものこる(レポ79)が、この地も和田合戦1213で没落した縁戚・渋谷氏との関わりで領有したとみられ、この渋谷氏は河崎氏とほぼ同族なのだ。かの全成もかつて、石橋山合戦の直後にはじめて佐々木氏と合流したさい、ともに渋谷氏に匿われたことがあった。

 佐々木泰綱(六角流)が河崎氏ゆかりの橘樹郡小机付近を再開発したことはべつに書いた(レポ78)。妙楽寺のある長尾あたりはかつて太田郷とよばれ、領家職は河崎尼の血を引く佐々木道誉(京極流)やその子孫にまでうけつがれたようだ。要は、稲毛庄にあった稲毛重成の遺領の多くはこの筋にうつったとみられる。


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