トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第255号 


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もちださんの鎌倉リポート No.255(2017年3月5日)



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ささご姫・2


 小田急新百合ヶ丘の北、五月台駅にちかい古沢というところに、九郎明神という小祠がある。源九郎義経にまつわる伝説は付近にいくつかあり、弁慶と渡した二枚橋や、忠臣亀井六郎の城跡・・・。馬をつかわない流鏑馬祭りでしられる高石神社にも、義経が祈願したゆかりが傍示してある。ここには奥州を従える直前、若き義経が刀を残したのだとか。

 古沢あたりはまだ多少畑があり、農村だったころの雰囲気がのこっていて、裏山つづきの東京都稲城市との県境には、十三塚・入定塚などおおくの塚が知られている。御座松塚というのは新田義貞の鎌倉攻め1333にまつわるものという。鎌倉街道は分倍河原、関戸をへて、ほんらいは「貝取板碑」のあたりから本町田方面に入るのだが、北条泰家を破った軍勢は北条領となっていたこちら、川崎市麻生区方面にも入ってきたらしく、王禅寺あたりにも「はかな谷」など、激戦にまつわる数多くの伝えがある。

 さて、新百合ヶ丘北口ちかくのビルのすきまに、笹子(笹合)稲荷というのがある。以前はすこしさきの造成地の丘の上にあって、後白河院(1127-1192)の姫君、笹子姫主従の塚だ、といわれていた。


 笹子姫なるものは、史実には存在しない。しかしこれからむかう法雲寺には「開山塔」となづけた御陵もあり、古木の株は従者の墓。裏手の鎮守熊野権現のかたわらにはもうひとつの笹子稲荷(上写真右)がまつられ、本堂と同じく姫の位牌がおさめてある。笹子姫は鹿ケ谷事件1177に失敗し後白河院が鳥羽殿に幽閉されたころ、従者4人とともに上述の古沢郷へ逃げてきた。やがて都の父院から「一刀三拝して」作らせた阿弥陀の霊像を贈られ、高石の権現山に安置して尼となり、法雲寺(法音寺)をひらいた、とされる。

 頼朝が「日本一の大天狗」と評した院には、有名な式子内親王をはじめ、殷富門院・宣陽門院など正式には六人の姫宮がしられているが、該当する者はない。もちろんそのほかにも、名もしれぬ寵妾による認知されない落としだねがなかった、というわけではあるまい。「隠すは聖、せぬは仏」とまで喝破した方なのだから。ただそれが古沢の地と何の関係があったかは、謎のままだ。

 能などで、笹をもって登場するのは大抵が狂女ときまっているが、それとこれとは話は別。そもそも「笹子」とは、まだ冬に鳴くうぐいすのことで、チチチ、としか鳴かないことから歌語では幼い雛鳥をあらわす。笹子姫は狐にのった奇怪な姿であらわされることもあるというが、それはたたり神としての豊川稲荷(*ダーキニー。インドの女夜叉)と習合したものだ。


 高石法雲寺は、百合ヶ丘駅に近いが街路整備がすすんでおらず、迷路化した路地の、だいぶややこしい場所にある。このへんのかなり奥まったあたりに、かつてS君という留学生のアパートがあったはずだが、住宅が密集しここ数年でかなり様変わりしたようだ。工作員のような他の韓国留学生とはちがい、政治論争などはきらっていたし、「あすなろ」のころのキムタクに似て、ほんとうに外国人? と疑うひとも多かった。

 当時はまだ大手新聞も北朝鮮にいれあげていて、「拉致問題は自民のでっちあげ」「ピース‐ボートで行くアジア未来航海」「変わるタカ、ハト」。こんにちの靴の裏をなめるような韓流ブームもなく、南はむしろ霊感つぼを売り歩く、東南アジアあたりのありふれた犯罪国家というイメージしかなかった。

 紙面からは日々、狂おしいまでの独善と、他罰的要求型の自己愛とが、ほとばしる。無責任な空想にもとづく、「報道」という名のキャンペーンは、学説までも左右した。偏見は【生み出される】のだ。たしか・・・モームかなんかの小説で、「真の友」というのがあった。困ったときの友こそ、真の友。ただしカネを無心に来た堕落した旧友を、見殺しにする話だ。


 法雲寺の本尊は、境内の文化財標示の看板写真(右)からもうかがえるように、伏目がちな独自のまなざしに華奢な手のひらなど、あからさまな定朝様を示している。おそらく院政期・都での製作で、土俗的な要素は皆無、時代観もほぼ伝説と合致している。行基作との所伝もあり、すくなくとも近世までの感覚では、虚構と仏像の製作時期を一致させなければならない必然性はみとめられない。

 院政期には白河六勝寺をはじめ、都周辺の御室や鳥羽離宮などに皇室による無数の寺院がつくられた。荘園整理などの強引な政治手法で、「成功(じょうごう)」とよばれる莫大な献金があつまったのだ。こんにちまでにそれらはほぼ失われ、後白河院ゆかりの六条長講堂(レポ29)や鳥羽法皇の安楽寿院(レポ28)など、湮滅を免れた少数の寺院に、重文クラスの半端な仏像が、ごくわずかにつたわるのみだ。数千数万とつくられたはずの仏像は、いったいどこへ消えたのだろう。

 実在した姫宮のなかには、15歳で早世したものがふたりあり、たとえばそうした少女のためのささやかな仏堂が時代と共にうしなわれ、不要になった仏像とともに、忘れられかけたその高貴な面影が、伝説となってはるか東国まで、転々と運ばれてきたということもかんがえられよう。


 仏像の開帳は年二回、2月と10月におこなわれる、涅槃会などの法事とその片付けのあいだにかぎられる。お寺の意向で現物の詳細な写真は割愛せざるをえないが、雰囲気程度のカットはお許し願いたい。法量(おおきさ)は小柄。2005年に文化財修理がほどこされたさい、後世の金箔が除去されたために、標示板写真とはやや、印象がことなる。じっさい、真っ黒な漆下地と後補の光背の明るさとの対比から、表情などは見えにくい。脇侍には観音のかわりに彩色された地蔵がたつなど、客仏らしい半端さもみせている。

 堂内の長押に掲げられた古写真には、村の祠ていどのあれはてたようすが写っている(下)が、現在の堂はあたらしい。ひろくはないがエアコンも天井画などもあり、外には信徒会館のようなものもたつ。「風土記稿」には、上杉禅秀と闘ったのち若くして死んだ管領山内憲基のものとつたえる謎の古位牌や、阿弥陀画像板碑なども安置するとしているが、現在はみあたらない。二月の涅槃会にちなんで、古くはないがおおきな涅槃の画幅がかけられていた。

 以前は尼寺であった、ともいうが、その息子と旦那さんなのか、いまは和尚がしきっていて、とくにお嫁さんが継ぐというわけでもないらしい。だいぶふくよかな尼さんのほうは、法要後に秘仏をタブレットへ、名残り惜しげにおさめている。「これならいつでも見られるから」。とはいえ、まだまだお元気そうだ。



かつての阿弥陀堂と客殿
 法要にさきだち、ご詠歌の回向があり、そとで檀家の古札などのお焚き上げをする。涅槃会の法要は般若心経と遺教経で、総じて2時間ほど。仏像だけが目当ての人は、二時半すぎに来るようだ。その後、檀家さんにはお汁粉などのふるまいがある。またお供えの分配もあって、あまったぶんをなぜか私もいただいてしまった。

 遺教経は釈迦さいごの教えとしてしられ、「戒を保とうと思うなら、商売などするな、家財をもつな、人畜を使役するな、占いをするな、有力者とつきあうな」云々という、要はすべて和尚にたいする教訓である。これを重んじたのは現在の宗旨である曹洞宗の開祖・道元禅師らの遺言であり説諭でもあるのだが、こんな耳の痛い道徳を訓み下し文にして延々檀家にとなえさせるのは、和尚にとっても勇気のいることだ。

 道元禅師は宋で禅をまなんだが、只管打坐(ひたすら座れ)というほかはむしろ仏教の原点回帰につとめ、実際にシャカ本人が説いた【原始仏教】的な教えを析出し、そこに独自の価値観をうちたてた。阿弥陀信仰には否定的であったから、本尊が先にあってお寺の方があとからやってきたのだ。桃山時代に臨済宗として再興、それ以前のことはわからず、曹洞宗になったのは昭和になってのことらしい。


 ちかくには岡上の阿部原廃寺など、奈良以前の古寺もあり、その傍らの東光院には和様の兜跋毘沙門天(平安末)といった古仏ものこっている。仏像がいったいどこから来たか。廃寺と中興、宗旨や寺名の変転などもあって、確実なことは何もわからない。中世までの仏教は修法・呪術が中心だったため、檀家が敗北すると連座されやすかったのかも。・・・そしていまは、都市化によって郊外の風光もしだいにうしなわれつつある。

 駐車場からは、読売ランドの観覧車と、香林寺というところの大きな五重塔がみえた。さいきん中世の禅宗様式でたてたのだとか。

 さきに九郎明神にむかう途中で、足元から大きなアオサギがとびたって、そばの家の屋根にとまった。古沢あたりにはまだ、わずかに畑や林がのこり、えさとなる蛙とか沢蟹のたぐいがいるようだ。こんなふうに油断しているのは、現代ではもう、開発業者以外に、いじめる人間がいないからなんだろう。


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