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もちださんの鎌倉リポート No.256(2017年3月15日)



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無名寺社紀行・7



宝生寺(横浜市磯子区)
 仏教の各宗派には「伝法血脈」というのがあって、地位の正統性を示すための系図、いわば血統書のようなものだ。とりわけ密教では、印明といって秘法ごとに極秘の印の結び方や呪文を授け、印信という証明書のようなものを発行。皇室出身の門跡なんかが継承したこともあって、一世一代、容易に授けられることがなかった。

 鎌倉では、京都仁和寺にはいった頼助(1246-1297)がはじめて仁和寺御流の正式な継承者となり、鶴岡別当として活躍。真言密教は「野・沢12流」にわかれるが、頼助はすでに鎌倉でも三宝院流、安祥寺流などを受法していたという。一門は頼助の父・執権北条経時の菩提寺として師の守海が創建した遺身院(笹目)を中心にうけつがれたが、北条幕府の滅亡によって退転。遺身院は、経時ゆかりの佐助蓮華寺(光明寺の前身)、甘縄無量寿院(密教系)、笹目長楽寺などの界隈にあったらしいが、いずれも住宅地になっていて、たしかな場所もわかっていない。ただ、建物の指図だけは、金沢文庫にのこっている。


 横浜市南区にある宝生寺は平家の全盛時、法印覚清という者が草創したといわれる1171。これが室町時代に再興1380され、仁和寺から子院・宝金剛院を継ぐ寺と正式にみとめられた1409。時の住持・民部卿法印権大僧都覚尊(?-1417)がもっていた三宝院流の印信六通(良忍の伝、1376・78)が現存、のちの住持覚日が戦国最大の学僧・印融からさずかった四通も合綴されているという(右写真上段解説板)。一方の印融も、覚日から頼助系・覚尊系の法をさずかっている(長享元年西院流血脈目録)。

 覚尊はよくわからない人物だが、鶴岡別当快尊から当地の所領・補任をうけている。ちなみに快尊はかの上杉禅秀の子であり、のちに父とともに自害した1417。

 宝生寺の本尊は江戸時代に移された覚園寺旧蔵・金剛界五仏。北条貞時所願とつたえ、ガラス戸越しにぼんやりとしか見えない(レポ184)が、「横浜市史稿・佛寺編」などによればなかなかの秀作。かつて寺は平子郷石川村に属していて、子院も数多くあったらしい。根岸の宝積寺(写真下段)のほか、元町の薬師堂も「石川宝金剛院」すなわち宝生寺の末寺とされており、「武州久良岐郡横浜村」云々とかかれたこの古文書1442の写しが、横浜の地名の最古の記録にあたるものとして知られている。


 鎌倉大御堂に墓のある義朝の寵臣・鎌田正清をまつった鎌田堂。中原街道が横浜から川崎に抜ける低い峠「道中坂」の手前、比較的きれいに造成整備されてしまった車道のかたわらにある、ありふれた地蔵祠だ。くわしくはレポ160「中世の道と郡・1」に書いたとおり。もとは印子(*いんす。純金)の観音を祀っていたが賊にうばわれ、いまの石仏になってしまったともいわれる。

 昭和51年にまったく別の場所で再発見された「主君往生板碑」がもともとあった「殿谷三宝寺」には、風土記稿によれば正清の守り本尊という一尺ばかりの観音像がつたえられていたらしい。場所は高圧線の鉄塔をはさんで坂の下方にある「東山田町公民館」。すなわち廃寺になった寺は、そのまま村の集会堂をへて町内会館になっているのだ。鎮守や力石など、境内であった痕跡がわずかにのこる。ただ、「守り本尊」のゆくえは不明。鎌田堂あたりにはかつて念仏道場があって、「道場坂」ともいったらしい。堂の背後は城山とつたえるが、私有地らしく立ち入りは躊躇される。


 横浜の三渓園には東慶寺の旧仏殿1634など、古い建物が多数移築されているが、東京の世田谷観音寺にも、京都二条城の楼閣や華頂宮持仏堂、奈良内山永久寺の鎌倉仏など、古い建物や仏像が集められている。元実業家の和尚が戦後につくったもので、さほど広くもないが、たんなる骨董好きの好事家ではなかったようで、豆まきや花祭りなどの地味な行事もふつうにおこなっている。

 裏口の石段をおりて向かいにある児童公園(子ノ神公園)には、ちっちゃいころよくあそんだデンマークの現代彫刻「かたつむり」が、ちょっとまえまでは活けてあった(写真右)。芸術的な「公園遊具」は日に日に減ってゆくが、愛好家による写真集も出ているようだ。子ノ神とは、大黒天をまつるちかくの駒繋神社のことで、頼朝伝説がのこる。このへんを下馬(馬引沢村)といって、ここの沢で頼朝の馬が倒れて死んだ。またはつまずいたため、牽いて神社に奉納した。その蛇崩川は、いまは緑道。かつては葦毛塚という塚もあったといい、いまは碑だけたっている。


 かつての「村の堂」に、ふるい仏像がのこっていることも少なくない。近江なんか観音の里といわれているが、比叡山をはじめ数多くの巨刹から、半端な仏像が分け与えられたりしたのだろう。奈良法華寺のうらの墓地にも立派な古仏があり、東京三軒茶屋の太子堂なんかも、和尚が大和の久米寺から担いできたなんていわれがある。

 この保木薬師堂(横浜市青葉区)の本尊は、鎌倉時代の銘をもっている。無住の堂であるから、ふだんは県立博物館の撮影禁止のショーウインドウにおさめてあり、ご開帳の日だけ包帯に包んでやってくる。こののち和尚を呼んで檀を築き、護摩を焚くなどして一夜ばかり魂をいれるらしい。着いてすぐは明るい畳のうえで披露されるが、たとえ見えにくくても、仄暗い厨子に安置された後のほうが本物らしい。光背にあわせて角度をとると、こんな額づいた体勢で拝むのがほんとうだとよくわかる。



右は門前の雷神塔
 川崎市高津区千年の能満寺は、古刹・影向寺門前のがけの下にある。鎌倉覚園寺の仏師・朝祐作の如意輪観音があることでしられるが、江戸時代の鎌倉仏師「鎌倉日向守」作の檀那像1633も、不動堂におさめてある。小田原北条家の家人・増田駿河守満栄(小机衆・?-1558)の孫、増田内膳正孝清(信忠)という無名の人物であるが、江戸幕府の御家人にはならず、この地の主百姓として定着、子孫繁栄をねがって65歳のとき寿像としてつくらせたという。

 墨書銘には「・・・六字の称名怠る事無く、年を過ごし日を送る。去ぬる月、六十五歳の砌に自らの身これを立て、殊には子孫繁栄、心中の永願、如意に満足せんとの旨、仍て件の如し」などとある。北条役帳によれば増田氏は川崎作延・瀬谷阿久和を領し、祖父満栄のころには両所の寺社を修築するなど、かなり羽振りがよかったようだが、孝清がどうしてこの地に土着したのかは不明。ただ子孫は武士の名乗りを捨てたあともかなり裕福に生き延びて、明治にも像の修復をおこなっているらしい。


 能満寺は影向寺の旧子院が天文年間(1550ころ)、および正徳年間(1714)に復興されたとつたえ、孝清本人の業績とは直接むすびつかない。ただ「風土記稿」には、運慶作の地蔵および閻魔十王の小像を寺の寮(別院)の地蔵堂に寄附したとあり、いま孝清像とともに不動堂におさまっているこれ(写真)がそうなのだろう。

 同書によれば運慶が鎌倉新井の閻魔堂(現・円応寺)の閻魔をつくるさい、試作品としてつくったものという。それはおそらく訛伝であるとしても、あるいは上述「鎌倉日向守」がつくった可能性はある。ガラスが反射してこまかく観察はできないが、近世の小像としてはわりと出来のいいものだと思う。


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