トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第257号 


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もちださんの鎌倉リポート No.257(2017年3月18日)



No.256



無名寺社紀行・8



医薬神社
 八幡宮はかつて八幡宮寺という寺でもあった。明治人のさかしらによって神社部分以外、仏教的要素をすべて破却・撤去していまの姿になった。伊勢神宮にしてからが、同様の処理を経た。

 横浜市青葉区みたけ台にある医薬神社も、明治までは東光寺という寺だった。医薬神社の名のとおり、本尊は薬師如来だったようだ。かつては裏の斜面下に旧大山街道(現246)がとおり、社殿はそちらをむいていた。天正の創建とされるが、斜(はす)向かいにある墓地には多くの板碑片があるし、墓石などの記録では江戸初期の住職が20世だということだから、逆算すれば鎌倉期の古寺だったかもしれない、という。医王堂をいみする東光寺は同名寺院が多く、かつては鎌倉にもあった。


 「御伽衆」の項でふれた石塔坂(横浜市青葉区)の寿光院跡は、墓地だけをのこす。説明板はないが、道端にあたらしく五輪塔がたてられ、中世以来の歴代住職の命日と、文明十年1478にたてられた寺の跡である旨の「石塔縁起」が刻まれている。寺の退転後は、地域本山である恩田徳恩寺の持ちになったようだ。

 ひときわ大きな宝篋印塔にまつられる糟屋清印夫婦は、永禄四年1561三月五日・八日が命日。小田原攻めをいそぐ謙信の大軍はすでに相模原あたりまでせまっており、相模国のどこかの城で討死したとみられる。ただ、その供養塔はあまりにも立派で、室町以前ものの転用の可能性も匂わせる。

 石塔坂も大山街道の旧道筋。渡辺崋山の「游湘日記」がよくしられているが、中世では、連歌師・心敬が品川から隠棲先の大山へ移ったさいも、この道をとおったはずだ。もっとも心敬は文明七年に没しているので、寺はまだなかったかもしれない。ただ文明十年といえば、太田道灌による小机攻めがおこなわれたから、この地域の古寺も再編され、室町以前の古寺の檀越や宗旨が更新されただけ、という可能性もある。


 心敬(1406-1475)は応仁の乱を避け、品川の鈴木長敏(道胤)にさそわれてまず、南品川にあった長敏の屋敷ちかくに庵をひらいた1467。ただ品川では戦乱にまきこまれる危険もあり、また長敏をはじめとして太田道真・道灌親子など、連歌をまなぶものが多数押し寄せたためか、やがて相模大山の麓の浄業寺という荒れ寺に転居した1471。

 長敏の屋敷は南馬場にあった。南馬場には日什上人が改宗させた本光寺がある。長敏の代には南宿の天妙国寺を新たに什門の本山にしようと莫大な寄附をするが、もともとは本光寺の方が古いのだ。日什は会津の生まれ。会津といえば、のちに天才連歌師となる猪苗代興俊(兼載・19)が、ここ品川に心敬(65)をたずね、主著「さざめごと」を贈られている1470。心敬滞在のニュースがすぐに伝わるほど、会津と品川には深いつながりがあったわけだ。

 やがて心敬はこの若者とともに、はるばる奥州へと赴き、かれの求めで自作に詳細な自注をくわえた「愚句芝草のうち岩橋」を著述。翌年には川越の道真(61)のために「私用抄」なども書いている。連歌仲間の宗祇にも、句評や連歌論を書き送った。慣れぬ旅先での引く手あまたの催促はさすがに心敬の身をさいなみ、「今はいかなる岩の狭間・苔の筵にも、しばしの心延べばや」(「老いのくりごと」1471)という心境にもなったのだろう。


 いまではまったく消え去ってしまった寺も多い。横浜市緑区十日市場の神明下の阿弥陀堂は、明治ごろ廃寺となった長運寺の仏堂を村持ちの堂として坂の下手に移したもので、その後また丘の手の集合墓地のかたわらに移転している。

 かやぶきの堂だったものが、いまはプレハブみたいな建物になって、一見墓地の管理棟にしかみえないけれど、たまに旧家による念仏講の集いもあるらしい。ここには鎌倉時代の「弘安四年の板碑」(レポ77)がつたわり、また長運廃寺ちかくの地主の庭からも、14世紀の板碑が出土、これも同家の区画に活けられている。

 長運廃寺そのものの発掘では、近世以前のことはよくわからなかったようだ。地名の十日市場というのはこのへんに市が立ったからといい、ここから「榎下踏切」にくだる道が鎌倉古道であったという。古道の周辺には中世の榎下城の、城主とも家老ともつたわる「芦垣浄泉」の子孫とされる家々が分布し西の前砦が置かれるなど、古くよりさかえていたらしい。



観護寺、同寺からみた城山
 新編武蔵国風土記稿の鳥山村三会寺、および小山村観護寺(院)の項には、戦国最大の真言学僧で両寺ゆかりの印融法印(1435-1519)が晩年、「久保村旧城寺」に住んだと伝えている。ただ旧城寺(横浜市緑区)はかつての榎下城の跡に、江戸時代になってから創建されたとされており、時代が合わない。古文書では印融付法の地を「榎下観護院」としている。小山村も久保村も榎下郷から分村されたのだから、「榎下観護院」は小山村の観護寺と同じものを指しているはず。しかし風土記稿には、当の観護寺や地域本山の三会寺が、口をそろえてこれを否定していたわけだ。

 ひとつ考えられるのは、印融は「旧城寺」ではなく、旧城寺の「場所」に住んでいた。つまり、草創期の観護院はいまの旧城寺がたつ位置にあった、という謂いなのだ。旧城寺がたつ以前、榎下城には鎌倉公方足利持氏の代に寵臣・宅間上杉憲直が在陣したとされるが、憲直が永享の乱でほろんだのち、おそらく廃城となっていた一時期に、印融が観護院を営み、晩年をすごした。

 やがて後北条時代に城山が再利用されるにあたり、にわかに寺や墓地の立ち退きをせまられた。現在の場所はたぶん、一時的な、疎開場所であったのだろう。現在の観護寺は鶴見川の旧河川敷にぽつねんとあり、由緒ある中世寺院の立地としては、たしかに不自然。むかしの河道では、おそらく城からみて川向こうに当っていた。



無眼薬師堂の内部(昭和末)
 徳川時代に、領主交代にともなうなんらかの事情により、城址には旧城寺という別の寺が分立してしまう。旧勢力とむすびついた観護寺は、もはや「もとあった場所」にはもどれなくなってしまった。・・・そう考えると、印融が「旧城寺に住んだ」という確信的な寺伝とも、つじつまがあう。

 旧城寺は低い岡の上にあって、中世の古道や、印融法印産湯の井戸があった「久保村の旧家」にもちかい。ただ開基の墓とつたえる近世板碑型の墓は、印融とも城主ともかかわりがなく、土地の伝えでは三河から流れ着いた徳川方の侍をはじめて歓待したという名主夫婦の墓とみられている。境内にはちかくにあった村の堂・「眼無し」薬師堂も移転されている。右は子供のころ撮った秘蔵写真で、いまはきれいに建て直されている。観護寺のほうも現在はコンクリート造りだ。



三保浅間神社(横浜市緑区)
 団地のこどもたちが長年こども神輿を舁いでいるのに、当の神社がないという。よくみると児童公園のわきにある小高い塚の上に、碑だけ建っている祠が、三保浅間神社であるらしい。この塚はすなわち、富士塚なのだ。

 明治期の富士講弾圧で古い碑は毀してしまい、いまのものは近代に再建されたもの。ただ風土記稿には「藤塚」といって、由来は富士講よりもかなり古いものらしく、上記の榎下城の砦(浅間山砦)であった時期もあったようだ。小机城にある「富士仙元」もふるくは城の物見台として築かれたもので、はたして物見台に当初から浅間社がまつられていたかなど、詳細は不明。「鎌倉年中行事」に「六月朔日。御祝い、常の如し。富士の御精進七日これ有り。御近辺、飯盛山の富士へ参詣これあり。」との記述があることから、鎌倉公方府では持氏・成氏のころより富士塚らしきものがあったことが知られる。


No.256