トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第258号 


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もちださんの鎌倉リポート No.258(2017年3月23日)



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無名寺社紀行・9


 インド寺院の神門トーラナに象なんかも刻んだ寺院(東京品川区)。近代的な珍建築の寺は、いまではもう珍しくもなくなったが、一周まわってすでにキッチュな魅力をかもしだしている。面白さも寺の魅力だから、こういうのも経営努力の一端なのだろう。

 墓地だけを真新しい、ツヤツヤの墓石に改装整備する寺なんかもある。ブルドーザーが走り回り、奥の方では砕けた無縁墓石をゴミのように積んでいたりする。庭園にまで墓石が寝食し、境内を月極め駐車場がわりにする貧乏寺もあれば、あらたに宗旨不問の礼拝施設を設け、会葬者向けの茶室・ドリンク‐バーなんかも併設・・・の例も。葬式仏教といわれて久しいが、住職がやたらカネをつかう寺よりも、古い石塔なんかをちゃんとまつっている寺のほうが、なんとなく信頼できる。


 品川にある海雲寺千躰荒神の公衆便所は、烏枢沙摩明王堂の背面に作られている。トイレの神様とはいいながら、お堂がトイレとはなんとなく勿体無いような、罰当たりのような気にさせられる。これは火の神アグニで、すべてのものを食い尽くし浄化してしまうので、もちろん釈迦のいやがる不浄のもの、つまりびろうな話・・・う○○をも食ってしまうんだとか。

 鎌倉の西御門来迎寺には風呂の神様「跋陀婆羅尊者」の像がつたわる。もとは頼朝法華堂にあったもので、風呂当番で悟りをえた羅漢だから当初は禅寺の浴室、たぶん報恩廃寺からきたようだ。一時は江の島で稚児白菊と心中した建長寺の美僧・自休の像などともいわれていたらしい(新編鎌倉志)。中世の風呂はサウナであり、真っ暗ななか垢を蒸らしてこそげとり、濯ぎのお湯は桶にたった一杯。その湯量をめぐって喧嘩がたえなかった。建長寺にのこる蘭渓和尚の貴重な自筆のひとつが、風呂での諍いを禁じる張り紙なのだ。



横浜市青葉区
 むかしの禅寺では、まったく仕切りのない東司(とうす)をつかっていた。中国では近年まで「ニーハオ・トイレ」として知られていたが、その方式を直輸入したらしい。道元の「正法眼蔵」には洗浄の巻があって、桶に水を汲んでもってゆき、用を足した便器を掌で洗う、としている。

 この恩田薬師堂のトイレは堂のうらにむきだしになっている。むかしの新幹線でも、後頭部がまるみえのトイレがあったけれど、私などの世代ではちょっといやだ。立小便はかっこわるい、といった都会の常識が、まだ遠い未来だった時期に設置されたのだろうか。

 ゴルゴ13が、「俺のうしろに立つな」と女を殴るシーンがある。だれも油断を狙っているわけではないのだろうけれど、野中の豪快な立ちしょんべん、なんて記憶はほとんどない。いぜん渋谷のガード下かなんかに、便器のない壁小便式のがあって、横から丸見え。しかも女子とのしきりもあいまいで、おばちゃんがいりぐちでたむろするわ、で困ったおぼえがある。さいきんでは影向寺のトイレがそうだった。


 都筑区東方町の天満宮。神体は木製の束帯像1592で、合祀の八幡は矢大臣のような姿というが、もちろん本殿に秘めてある。写真は三座にわかれた境内末社のもので、石の宇賀神像や、午頭天王の名残りとみられる風化した束帯像が開け放しでおさめてある。可笑しいのはそのとなりに彩色のちびた福助なんかもすわっていて、最後の一座にいたっては瓦礫のようなものが詰められている。

 奥に小型板碑がうらがえして置いてあるが、これは風土記稿にいう「応永十六年の古碑」1409なのだろう。その手前には空き缶にはいった、ひな人形の残骸みたいなものも。近所のお寺などが人形供養をしてくれないのか、祟りそうなものはなんでも適当に納めていったらしい。境内は広くこざっぱりとして、氏子のふるい住民たちが、子供神輿の準備に追われていた。



熊野三社大権現
 横浜市都筑区仲町台(旧・大熊村)の熊野神社は、12cmほどの阿弥陀像を神体としてまつっていたが、神社整理令でよそに合祀されるにあたり、仏像だけは元の場所にのこされた。やがて神体を保管していた別当寺の長福寺が新築、あたかも境内社のように復元されていまにいたっている。

 かの平将門が、霊夢によって当社に参籠、三熊野三座のうち、残りの木の不動像と金の観音をさずかって運がひらけたのだとか。風土記稿によれば、天文年間にはすでにそんな伝説が信じられていた、という。その真偽はともかくとして、このへんの神社の神体には不動をきざんだ鏡(懸け仏)などもおおいらしい。都筑に大量に分布する古社、杉山社は五十猛命という造林植樹の神とされることが多く、同名の神を祀る熊野修験とも、ふかくかかわっていたようだ。



西八朔
 武蔵六の宮杉山神社は「本社」が不明になっていて、しかも旧都筑郡周辺にまんべんなく、50社以上(村社合祀による改名を含む)が分布するため、目星もつけられない状況。「本社」の有力候補地(=論社)といっても、周囲の地形が他より微妙に広いとか、その程度の根拠でしかない。別当寺院がついているものもすくなくないが、それを含めても突出した規模をほこるものはない。

 鎌倉にも元八幡・若宮・鶴岡と霊地の変遷がしられる。中世には有力神社の勧請がさかんになり、神々は寺や村、個人の持ち物ととして身近になっていった。杉山神社もまた、村のマスコットとして、集落ごとに平等に分配された時期があったのかもしれない。五十猛(イソタケル/イタケル)の名は海洋信仰のひとつ磯武良とも相通ずるから、植樹の神は造船・海運ともかかわりがあるらしい。

 鶴見では「田祭り」、鉄町では「古典獅子」、新羽では「藁蛇」などと、伝統行事をつたえるところもある。藁蛇にはふたつ謂れがあって、ひとつは別当寺・西方寺の和尚が請雨経による雨乞・止雨行事のため、藁で龍神をかたどり水に浮かせたというもの。神社の水屋に注連縄として、平目のような顔で大口を開いているのが、たぶんそれ(下写真)。もうひとつは「注連引百万遍」などといって、村人が疫病や作物の病害虫をさけるため、村の入口にたつ木に大蛇形の注連縄を巻き付け、大数珠をまわし念仏をおこなった。



新羽杉山神社
 藁蛇行事は全国的に分布しており、鎌倉でも白山神社のムカデ注連縄が知られる。白山神社はかつて、頼朝が京都の鞍馬にならって毘沙門天を祭った場所とされるため、神使(つかわしめ)のムカデになったようだ。

 悪鬼を避ける「道切り」のために張られる縄を勧請縄というらしく、蜜柑などの供え物をつるすところもある。また「鳥潜(とりくぐ)ラズ」といって害鳥を封じる呪符をつけるなどする。この鳥は「七草なずな 唐土の鳥が・・・」とうたわれる外界の悪霊(=病害)のことなのだろう。関西での藁蛇は、「蛇綱引き」とか「蛇巻き」などといって、村中の家々へ巡回し人を囲い込む所作などして、さいごは神木に巻き吊るすらしいが、やはり人の厄除けばかりでなく、雨乞いなどの農耕行事とのかかわりもふかいらしい。

 新羽杉山神社の石段脇には菊の紋のついたなぞの神馬像が置かれている。修験の影響からか、ここの祭神はヤマトタケルとされ、境内社のなかには不動明王の石仏も一緒にまつられる。


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