トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第259号 


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もちださんの鎌倉リポート No.259(2017年3月28日)



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無名寺社紀行・10


 横浜市都筑区川和町にある妙蓮寺は、お猿畠をひらいた朗慶上人の庵の跡というが、厳密には長禄年間(1460ころ)に碑文谷の六世・日耀によって移転したと伝えられ、元の地は裏山・もしくは門前にあった小丘陵であるという。今は造成で削られている。

 小丘陵は七面山・もしくは城山とつたえられ、かつては土塁もあり、風土記稿の考察によれば、寺の移転を行った日耀は太田道灌の知人ということだから、あるいは築城にかかわる「立ち退き」だったのかもしれない。ふるくから開山碑、と称して「貞治五年二月九日」1366の題目板碑が伝わるらしいが、これは朗慶二十三回忌にあたるのだろうか。調べてみると命日(28日)の日付もすこしちがっている。ただし古い時期の題目板碑にはちがいない。

 戦前までの川和町は、中山恒三郎氏の「菊屋敷」でしられていた。鎌倉薬王寺に奉納された板碑も、この辺で橋板になっていたものを町田あたりの金持ちが買っておさめた、とつたえる。秩父平氏の中山氏となにか関係があるのだろうか。


 「鉄古典獅子」の項でふれた青葉区鉄町上鉄の宗英寺には、石幢にきざまれた、めずらしい庚申塔1676があった。石幢には六角柱のほかに、燈籠状の仏龕をもつ笠塔婆のかたちをしたものがあり、ますます「幢(=幡)」とはかけはなれているようだが、中国大陸ではむしろ燈籠型が普通だったようだ。猿と鶏がほってあるから、これも庚申塔。「見ざる言わざる聞かざる」の語源は論語の顔回編だが、庚申の猿に結びつけたのはもちろん日本語のだじゃれ。鎌倉時代の説教僧・無住の「雑談集」にも、すでにみえている。

○ 先年、目の病につや/\見えず、咳病に音(こえ)枯れてつえ/\たたず。耳は久しく聞へず侍り候ままに、思ひつづけて、
 目もみえず耳もきこえず音たたず 三つの猿こそ保ち易けれ
 言はざると見ざる聞かざるよりもなを 思はざるこそ保ち難けれ
言はざる見ざる聞かざる、見惑は断じ易きこと石を破るが如し。思惑は断じ難きこと藕糸(*ぐうし、蓮の糸)の如しと云々。
 三つの猿はよしや踊りも跳ねもせよ 思はざるこそよく繋ぐべき
 三つの猿と思はざるだに保ちなば 坐禅の時の心地なるべし(巻四)


 江戸六地蔵のひとつ、品川大仏がある品川寺の宝篋印塔は宝塔のかたちをしているが、正面に「宝篋印塔」と彫ってある。じっさいにはそのどちらでもなくて、真言密教の秘密の塔「瑜祇塔」を表している。亀趺(碑の台座)のようにみえるのも実はれっきとした塔の一部で、唐招提寺につたわる金銅製の舎利塔(12世紀)ほか、いくつか古い遺例がある。

 高野山金剛峰寺の名の由来にもなった「金剛峰楼閣一切瑜伽瑜祇経」(瑜祇経)にとかれるもので、「塔の下に金亀有り、是れ世界の建立を表し、是れ依正不二の意なり」などと記す。古代インド人が想像した宇宙像で、全世界(須弥山)を支えているという黄金の亀のすがたなのだ。宝塔はこの須弥山山頂のある楼閣をあらわし、金剛界・胎蔵界の不二合一を説明する。釈迦と過去仏の同一を説いた法華経宝塔品の密教版、といったところか。

 これに「宝篋印塔」と彫った理由は不明。近世、民間仏教では瑜祇経を男女合一などと性的に理解することが流行ったので、誤解や混乱を避けるため、同趣の経典から仏舎利崇拝に特化した「宝篋印経」を選び推奨する目的があったのか、と想像する。亀といえば乙姫様であり、品川もまた海辺にあって宿場女郎がさかえた地なのだ。ちなみにこのお寺、覚園寺の現住がいぜんいた所だが、「写真撮影」は自由。



仮本堂
 相模原市当麻の無量光寺をたずねたのはだいぶ前の、三が日の朝のことだ。淵野辺の龍像寺ちかくに「当麻道」の道しるべがあったけれど、明治三十九年に書かれた小島烏水 の「相模野」では、あたりはまだ原野の面影を残す開墾地で、寺も十数年前に全焼、かつての当麻宿もかなりさびれていたようだ。

 寺伝では一遍上人がたびたび止宿し、やがて亀のかたちをした丘に小庵をたてた1270ということになっているが、寺院としての開山は二世真教。三世智得に遊行上人の号「他阿」をゆずり1303、この亀形峯の地にはじめて本山(当麻道場)を設立した。しかし四世呑海の遊行中に智得が没し1320、北条高時が別の弟子(真光)に寺を与えてしまったため、呑海は藤沢に清浄光寺(藤沢道場・遊行寺)をひらき1325、あらためて本山とした。やがて建武新政権の支持もあって、そちらが最大流派となっていった。

 当麻派の全盛期の記録はあまりのこっていないが、当麻上人も独自に「他阿」をなのり、地味ながら遊行もおこなっていたようだ。



教学院・称名寺
 仁王などに金網が貼られているのは、もちろん鳩などの害を避けるためなのだが、東大寺(運慶ら)や称名寺の仁王(院興ら1323)など、鎌倉時代の貴重な彫刻がボンヤリとしか見られないのはなんとも無念だ。最近はガラス貼りのところもある。ただしガラスは埃がつき外光を反射もするので、見えにくいことに変わりはない。左は東京・三軒茶屋にある目青不動(教学院)だけれど、目が青いかどうかなんて、とうてい伺い知ることはできない。ただ本物は奥にあり、これは秘仏のお前立ちだという。

 目青不動こと教学院の創建は鎌倉時代1311とも桃山時代1604ともいい、場所はのちに江戸城に取り込まれる紅葉山で、その後各地を点々としたのだとか。明治以前には青山百人町にあり、目黒不動を中心とする江戸五色不動にいちづけられていた。カラコンなどと同じで、たぶん眸のまわりの光彩に繧繝模様のような五色の隈取があったのだろうが、そうだとすると目白はどうなんだろう・・・。



町田市小山田
 このずんぐりした四天王像は、横からみるとけっこう腹もでており、多聞天のアゴもザキヤマのように割れている。腰のひねりも「ジョジョ立ち」を思わせ、宝塔をまもる指先の、仄かに曲げた薬指など、アンバランスな造形も見ようによってはキュート。

 小山田大泉寺の四天門のなかにあって、ほの暗いうえに格子のガラスも曇っている。ちっこいコンパクトカメラはこういう場合にべんり。人気まんが「ジョジョの奇妙な冒険」にでてくる奇妙なポーズはルネサンス彫刻をヒントにデフォルメしたものとされるが、実は仏像もギリシャ彫刻を源流にしている。有名な近江向源寺十一面観音が「東洋のミロのヴィーナス」とよばれるわけは、いずれも「ある角度」からみると極度に前傾しているようにみえる、きわめて特異な立ち方をしているのに気づく。まるでマイケルのゼロ‐グラビティをみるようだが、そのことによって、彫像がいまにも歩み出そうとしているかのような躍動感を表現している。

 彫刻はいろんな角度からみなければ、わからない。かすかなデフォルメ、不均衡が「動きmouvement」をうむ。図版なんかではいちばん安定した構図でだけ撮影されてしまうが、たぶんそれだけではないのだ。


 近代美術史家の嚆矢・岡倉天心が幼時を過ごしたとされる神奈川新町の長延寺は戦後に移転し、もとの場所は広場がちの小さな公園になっている。現在地は横浜市北部、緑区三保町にある旧城寺の南方にあり、写真奥にみえる「三保不動緑地」のなかに、印融法印修行の滝跡がのこっている。

 旧城寺には長延寺の旧山門がつたわっているが、天心のいたころは神奈川の大火で燃えて存在していなかったから、残念ながら後の建物のようだ。現・長延寺も全くあたらしいコンクリート造りで、山門も白金の美術館にあるのと同じ、こんな食虫植物みたいな現代彫刻になっている。天心は幼時からアメリカ人宣教師バラ(James Ballagh1832-1920)の英語学校にかよい、やがてお雇い外国人フェノロサの助手となって美術史というものを知った。こうして日本の骨董は、すべての国民の貴重な財産であることが、広くしられるようになった。


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