トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第26号 


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もちださんの鎌倉リポート No.26(2008年3月15日)



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切り通しと城・2

 「重修大仏坂記」では、明治初期の人々が荷を担いで山を越えたといっているが、これは中世歌謡にうたわれた連雀商人そのものである。むかしは千駄櫃にめずらしい小間物をいれて田舎で高く売っていたが、戦後も昭和50年代までは、千葉の農婦が「ごく新鮮」な野菜を得意先である東京の旧家まで担いでくる風物詩がまま見られたという。信頼できる産地直送がまだめずらしかった当時、店で売っているまずい野菜よりも、ずっとおいしいと評判だったからだそうだ。

 いまでこそ物の値段は平均的であるが、トンネルもなく、車輪さえ満足に使えない時代には、わずかな距離であっても流通は重労働であって、値段に大きくはねかえった。高く売れるのでなければ、だれが牛馬のようにものを担ぐだろうか。山賊、山姥、雲助などが徘徊する森林や行方も知れぬ行者道は、ひとびとの畏怖をあつめていただろう。普通の人間には不可能な、けわしくかぼそい道を担げばこそ、かれらは物価を支配できるのである。


参考・アジアの渡し舟。その国では道が悪く、120年前まではほとんど車輪がつかわれていなかった。以下、古い絵葉書から。



参考・アジアの峠。かつて担夫はこの何倍もの荷を背負って外国人を驚かせた。あたらしく出来た峠に庶民が家を建て住んでいる。
 こんな人足ふぜいが、と思われるにちがいないが、1890年代までの韓国では、褓負商といえば国家を動かすほどの一大勢力であった。中世のギルド(座)はまず清水の次郎長一家のようなものだったと考えるとわかりやすい。

 援助は正しいことのようにいわれているが、けしてそうではない。道路を作り、鉄道を通し、橋を架け、為替や電信までつくったことが、李氏朝鮮の「中世」経済をどれだけ破壊したことだろうか。まず、これが理解できなければ、中世経済がどんなものか知りようがない。

 岬の突端に当たる輪島(石川県)や堺湊(鳥取県)、瀬戸内の島にすぎない因島(広島県)などが過去にさかえたわけは、海上交通の拠点だったからだ。鉄道や高速道路網が発展すれば、その場所を経由する必然性がなくなる。

 南蛮貿易がはじまった16世紀、素通りされた沖縄(琉球)は没落した。海禁政策をとっていた明や清の安い生糸を、属国の地位を利用し釜山まで大量に運ぶことで日本の銀のおこぼれにあずかっていた朝鮮担夫の首を締めたのは、日清の開国と蒸気船だった。かれらは鎖国という高くけわしい切岸にあいた、か細い「切り通し」だったのだ。ひろい道ができたら、とうぜん、その役目を終える。

 かれらだけが大量に物を運ぶことができ、かれらだけが各地の市況をいちはやく知ることができるのでなければ、そもそも経済を意のままにできたはずがない。中世とは、そういう幼稚な独占がなりたっていた社会だった。流通とはたんなる「運送」ではなく「相場」そのものだった。中世日本で馬借・車借・問丸(郵船業)のたぐいが栄えたのも同じ理由であって、親方を中心にきびしいなわばり意識があったのであろう。中世に勃興した悪党・海賊などのやからもこうした「街道の守り役」として歴史の舞台にでてきたらしい。


参考・アジアの船。平安前期から室町にかけて、日中間の商船を襲うなどして自由交通をさまたげた(レポ21)。



参考・アジアの担婦。飲み水や肥を頭に載せて運ぶのは女の仕事だった。徹底した儒教のおしえにもとづく。
 中世の支配層が、関やら橋、辻などの狭まった場で通行税をとったのは、会計学が発達せず、十分な商業税が確立していなかった時代のいわゆる運上金(流通税)のようなものだった。だから、ひろく自由な交通路などというものは全くひつようではなく、律令時代の、馳道(ハイウェイ)ともいうべき道路網はむしろ極端にせばめられ、「弓杖ばかり」の幅になっていった。鎌倉街道にはところどころに要害まで配置された。

 鎌倉時代から室町にかけて、土倉(高利貸し)へは土倉役、徳政(債権廃棄)などの「臨時税」が課されもしたが、商業資本はけして没落などしなかった。権力もまた、かれらと対立するよりも密着する形でうまれかわってゆく。織田信長などは「いやしいもの」とされた商業を利用した最大の革命家なのだろう。若き日の秀吉や蜂須賀小六などが興じた石合戦(印地打ち)などは当時の人足ら、すなわち非人のふるまいそのものだった。

 鎌倉時代の繁華街の多くは切り通しの下にさかえた。ものが右から左から動くさいには、じっさいには峠を越さずとも為替をつかえばよい。さまざまな智恵を、日本人はそこから学んでいった。不平等条約が結ばれ、外国の軍隊が駐留した明治維新においても、私たちの先祖はどうすればグローバル化、植民地化の波からまぬかれるかを自分自身でかんがえることができた。

 私たちが「近代化」に被害感情をいだくことなく、誇りさえもつのは、むしろ珍しいことなのかもしれない。中世経済をのりこえるにはとうぜん痛みもあったにちがいないが、なんにせよ、それは押し付けなどではなく、じぶんたちの手で成し遂げてきたこと、であるからにほかならない。


岩場を切って乙字状にのぼる大仏坂の入り口。



巨福呂坂遠望。
 近世になると、日本では為替はもちろん、先物取引まで発展し、先進的な経済が生まれた。小額を運ぶのにも銭運搬用の馬をやとわなければならなかった李氏朝鮮の「穴あき銭」経済が、進出した日系商人の最先端文化に太刀打ちできたはずがない。文明開化の恩恵によいしれた人々は、いきなり「みなごろし」に走る現地人の昂奮をうまく理解できなかった。開化をわかちあっている、と勘違いまでしていた。

 明治の繁栄の中、近代化を逆恨みし、首を狩ってしかえししなければならなかった異国のひとびとの怨念、徹底した落伍感を、わすれるわけにはいかない。それはけして他人事ではないのだ。私有財産を極力否定する古代律令式の物価統制は一見魅力的だが、「角をためて牛を殺し」てしまっていたら、日本も途上国でおわっていたかもしれないのだから。


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