トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第260号 


▲もちださんトップへ戻る

もちださんの鎌倉リポート No.260(2017年4月3日)



No.259
No.261



無名寺社紀行・11


 伊勢原にある相模三の宮・比々多神社には、好事家の神主が代々考古遺物をあつめ、開発でうしなわれた近所の古墳とか敷石住居・ストーンサークルなどを境内に移築、考古資料館なども設けてある。古墳と神社のかかわりはよくわかっていないが、奈良の大和神社では中山大塚古墳をお旅所にしてきたし、相模一ノ宮・寒川神社には大神(応神)塚といって、旧別当寺・安楽寺にある前方後円墳(5C)を、かつて祭神の御正体とされた応神天皇の墓などとつたえており、そのちかくには三角縁鏡が出土した重要な古墳もある。

 一ノ宮・二ノ宮などの神階のゆらいは、律令制度において国司が「神拝」といって主要神社をめぐり、あるいは惣社といって一ヶ所にまとめて奉祭した名残りであるらしい。ただし相模五ノ宮の平塚八幡宮は式内(*延喜式神名帳記載)の古社ではないから、有鹿神社を宛てる古説のほうが正しいのだろう。


 戦前回帰もいちじるしい古代史学界では、なんでも例外なく渡来人(=外地の労務者)に結びつけ、褒美を期待する傾向にある。パブロフの犬というのか、その貧困な発想力には、古代史と聞くだけでうんざりしてしまう人も多いのかもしれない。

 神拝に准ずる祭祀は鎌倉幕府や鎌倉公方府もおこなっていたようだ。三ノ宮の別当寺院は能満寺といって、明月院のところにあった鎌倉禅興寺の無印素文(了堂の弟子)が、尊氏によって派遣された。それ以前は、三ノ宮氏が没落してしまったために不明であるらしく、弘法大師の創建とも、かなり離れた場所にある政子創建の浄業寺(廃寺)が別当寺であったともいわれている。比々多神社は、吾妻鏡には三宮冠太明神と記し、実朝出産の祈願がなされた。

 寺にとくに古いものはなく、境外の古道にかかる「三ノ宮橋」という、老朽化した趣き深い橋だけが見どころ。膝までの欄干なんて、田舎からもしだいに姿を消しつつある。古道はここから寺の門前をへて比々多神社へ登っていたらしい。いまは神社の脇腹にでてしまうが、旧社地はやや奥にあったのだ。



銘文は格狭間の右側面
 鶴ヶ峰で畠山重忠を射落とした愛甲三郎季隆の「供養塔」が、愛甲石田の駅近くにある。すっかり都市化した駅の東、坂の下から納骨堂のビルを兼ねた山門をくぐる。門内の壁のちいさな木製のパネルに、「李隆」(ママ)の事跡が紹介されている。本堂には、先住和尚の趣味・手作りとおもわれるおびただしい珍仏が、柱ごとに並ぶ。寺の名は円光寺。石田庄と隣接するこのへんが旧愛甲村で、季隆の本拠地となっていた。

 本堂前、左側に置かれた宝篋印塔には、かすかに「建久三年正月廿五日 大施主有信大勧進徳阿」の銘文の痕跡が読める。ただし建久三年1193には季隆は生きており、和田合戦1213で討ち死にした、というのが通説。逆修塔(生前葬)という見方もできるが、そもそもこれほど古い宝篋印塔は存在せず、形式的には山崎天神山の塔にちかい室町ころのもの。「建久」の二文字は改ざんされているようにもみえ、ほんらいは「延文」三年1359なのかもしれない。

 「風土記稿」の説では、幕末まで残っていた過去帳にのる唱阿なる人物の命日に一致するので、その三回忌に建てたものか、としている。開山とされる建長寺回春院の玉山徳璇は鎌倉末期の人。ただ禅寺になる以前にも真言寺院があったといい、唱阿はそのころの人物、ということになる。


 愛甲氏は武蔵七党のひとつ横山党の出身とされる。一族には海老名・本間ら代々騎射の名人が多く、重忠を射落としたというのも、遺恨があったわけではなく、たまたまだろう。その後、和田合戦に横山党とともに参戦・連座して没落。子孫は中小武士として地味に生き残っていったようだ。

 さて、この趣味の悪い仏像群を残した住職といえば、寺を再興した元タレント和尚(芸名・O)と推測せざるをえない。逮捕時、暴力団とのよからぬ交際が報道されたこともあり、本人は檀家さんに迷惑がかかるとして引退したらしいが、続報は不明。本山筋にあたる建長寺ではどのように対処したのだろう。

 江戸時代の易学者・新井白蛾は「闇のあけぼの」のなかで、口寄せなどさまざまな迷信とその害悪をのべている。教員・和尚をはじめ、巧みなトークで道を説く「聖職者」の不祥事は今もあとをたたないが、それにしてもお寺くらい、安心して参拝させてほしいものだ。


 愛甲季隆の墓は愛甲石田にもう一ヶ所あり、円光寺の北方、駅からはいくつかのバス停をすぎ、東名の上をわたって段丘を右に降りたところにある、宝積寺。段丘の下はまだ都市化をまぬかれ、畑なども多少のこっている。参道の真正面には大山の頂が位置している。さいきん新しい坂ができて右にくだっているのが写真でもわずかにわかるとおもうが、左から寺の奥にむかってつづく段丘の上が、愛甲館の跡とされている。

 ここが、レポ155「山崎天神山」の項でふれた愛甲三州の氏寺、「郡の宝積寺」であるらしい。ただ、中世の愛甲郡には山深い奥三保の地(相模原市緑区津久井)にも、かつて【桐ヶ谷宝積寺】という、もうひとつの同名寺院があったという。草創は退耕行勇、蘭渓もおとずれ、中興開山は夢窓疎石・・・。その後、長尾景春の乱で与党の海老名・本間氏が道灌に攻められ、奥三保に籠ったさい被災したものか、15世紀末には建長寺末・三浦和田の龍徳院などとともに、近在の【桜野光明寺】へ合併。その後も信玄小田原攻めの兵火(三増合戦1569)によって灰燼に帰すなど、複雑な変遷を繰り返したようだ。現存する光明寺は、夢窓の住房(光明院)だった所という。

 義堂周信(1325-1388)の時代には、師・夢窓ゆかりの宝積寺だったわけで、愛甲氏とのかかわりは未詳ながら、草創が退耕なら、愛甲季隆の生没年にも矛盾しない。義堂がおとずれたのはむしろ、そちらかもしれない。光明寺にはその当時のものとみられる地蔵像や、夢窓の頂相画ものこる。・・・


 こちらの宝積寺が曹洞宗として再興されたのは江戸時代。もっとも、宝積というのは地蔵の縁語(宝積地蔵)だから、寺号の一致にはあまり意味がないのかもしれず、愛甲氏の氏寺をめぐる謎は、開かない扉(deadlock)に突き当たる。

 ここの供養塔はかなり新しく、日向・七沢からながれる玉川が大正震災以後たびたび氾濫。旧い墓石は流出、昭和49年に改修されたものだという。卒塔婆の表には「大無遮法会為愛仲義甲居士位随縁諱之辰追善供養塔」とある。境内をみわたしても、中世に溯りうるような古い断片はあまりない。段丘の上にある神明神社および甲稲荷とかいう祠のまえに館跡の碑がたち、明治ころまでは周囲に空堀があったとか。奥まった宅地の蔭にある、石仏を本尊とする薬師堂も宝積寺の持ちだという。寺のちかくには、「糟屋道」とよぶ大山古道がかよっていた。また、さきの円光寺にも砦があったのか、愛甲城とのつたえがある。

 横山党の鎌倉武士といえば、海老名季貞の墓といわれるものが愛川町の八菅神社界隈にもある。保元の乱に活躍し頼朝にも仕え、八菅に大日堂を建立、海老名・本間の祖となった。ただその印塔も、老武者「本人」のものではなく、後世の追善供養塔であるようだ。



伊勢原市日向
 韓国併合の理論的支柱となった高麗神社。明治時代、白髭神社は「しら」だから全て新羅で高句麗・・・と極めて雑な語呂合わせによって古代史を捏造。古代には国境がなかっただの、外地労働者のパラダイスだのと、おためごかしの「大東亜神話」が学界をにぎわした。

 高麗郷伝説の震源地となったのは埼玉県日高市の高麗川。いまなお多くの捏造遺跡が新調され、何も知らない観光客を韓流ムードで迎えている。そんな空想の古代史はさておいて、記録ののこる中世には、「八文字一揆高麗四郎左衛門季澄」「彦四郎経澄」「掃部助清義」ら公方府などに仕えた武士の着到状とか軍忠状などがしられている。これらはみな高麗郷を支配した秩父平氏ら、実在の武士の名。ようやく後世にいたり、熊野からきた新堀氏の指導により笹井観音堂(本山派)の山伏が大宮寺(現・高麗神社)を創祀。また近在の勝楽寺聖天院(当山派)の山伏も高麗王の墓を建て、勝手に高麗名字をなのりはじめたとされる。

 非人や山伏の一部が、先祖はコレタカ親王だとかインドの流され王子、高麗王の子孫だとかいった、いわゆる木地師(きじや)文書を捏ね上げるのは、いわば中世後期のありふれた現象にすぎなかった。大宮寺には高句麗王の独鈷なるものがあったらしいが、密教法具だから明らかに時代があわない。聖天院の古鐘には「平定澄」ときざまれており、墓も本来は秩父平氏のものだったうたがいがあるが、図絵や古写真などによれば何度も別物にすりかえられている。


No.259
No.261