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もちださんの鎌倉リポート No.263(2017年4月22日)



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普賢象


 金沢八木に数えられる遅咲きの桜・普賢象については、江戸後期の百科全書「古今要覧稿」草木部に極彩色ででてくる。雌しべの部分が退化して葉になり、カイゼル鬚のようにみえるのが特徴で、「大輪の白い花(鼻)」と「二本の葉(歯・象牙)」という判じ物で、普賢菩薩の乗る真っ白な大象と名付けられたらしい。

 しかし由来は次第に忘れられ、諸説を生じたためなのかピンクの紅普賢象があったり葉(牙)が四本あったり、全然ないものも載っている。東北地方では「奈天(南殿)桜」と混同していたらしく、宮中の「南殿桜」には一時期「鎌倉桜」なるものが植えられた記録もあって、普賢象とよばれたのはひとつではなかったようだ。



「古今要覧稿」国会図書館DLより
 関靖「かねさは物語」1938によれば、「園大暦」延文二年1357の条に、鎌倉桜という「絶美の花」が紫宸殿に移植された旨がみえるという。これは南朝による三上皇拉致で崩壊に瀕した北朝を、最晩年の足利尊氏がなんとか立て直した(でっちあげた)時期にあたる。尊氏は伝統にこだわらず、鎌倉一の桜をもってきたのかも。ただこれが普賢象なのか、前述の「混同」だけをもって証明するのはむずかしい。

 京都では最高の桜のひとつを「桐谷」「車返し」といっていて、鎌倉の桐ヶ谷からもってきたという。桐ヶ谷は材木座弁ヶ谷ちかくで、かつて佐々木氏信が住み桐谷判官と号した。これが南殿の「鎌倉桜」だとすれば、奉ったのは曾孫にあたる佐々木道誉が想定される。

 「車返し」とは後水尾院が車を返して見とれたからとも、花弁が微妙な枚数で八重にも一重にもみえ、争論となった人が車を返したしかめたからともいう。後水尾院がでてくるから、これは江戸期の伝承らしい。「きりがや(つ)」でなく「きりたに」なのは京都の呼び方とおもわれるが、この花は鎌倉極楽寺にもあり、さいしょに植えたのは北条時宗だと寺ではいっているようだ。



御車返
 「徒然草」で兼好法師は「花は一重なるよし」として、奈良以外の八重桜を全面的に否定している。兼好は鎌倉の繁栄には激しくひがむ見解を有しており、たぶん全盛期の鎌倉では八重咲きが流行っていたに違いない。たしかに宮中の左近の桜は、桓武天皇が植えた梅が枯れて以来、伝統的に吉野桜で一重なのだが、「かねさは物語」によると「九重の御階(はし)の花は昔より、吉野鎌倉互ひに候」と、中世の里内裏では右近の橘に代わって桜が二本植えられたとみられる歌もあるという。

 称名寺の八木には他に文殊桜というのもあり、こちらは早くに枯れて完全に正体不明となっているが、あるいは「桐谷」がこれにあたる可能性もある。かつては宮中を模して普賢象桜とともに堂の左右に植えられたとか。これも金沢北条氏が集めた名木のひとつなのかもしれない。


 普賢象桜の方は各地に伝播したらしく、応仁の乱後にかかれた「謝人恵桜花詩・并序」(般若煕百首・東海瓊華集)に「普賢堂、また或いは普賢象と曰う」とあるのが初見という。ちょっと長いので大意をしるしておく(原文は「古今要覧稿」「かねさは物語」等に引用あり)。

○日本で花といえば桜、その天下一は普賢堂という。鎌倉の普賢堂にあったからとも、あるいは普賢象といって、日本語では華と鼻がおなじ発音なので、白い大輪の花をこう名付けたともいう。京都の西にこの名木があり、毎年かかさず見にいった。しかし応仁の乱が勃発し、七八年のあいだ足を運ぶことも出来ずにいた。いま西軍が降参し、今日客が届けてくれたのが、まさしくこの普賢堂であった。花とともに咲(わら)わずにはいられない、平和とともに来たのだから。
 七年普賢堂を見ず、蝶も亦た東西の墻を過ぎ難かりき。
 乱後花に逢う春は夢に似たり、一枝雪晴れて衣に満つる香。



「麒麟」
 詳細な花の図譜がつくられるのは19世紀、本草学が発展してからで、幕府滅亡から500年をへて、すでに普賢象だけでも数種類をみるようになった。たとえば、おなじ桐谷の一族でも佐々木道誉と桐谷美玲とではたぶん、似ていないはず。各地に広がるうち、「カペッリーニ」が「カッペリーニ」になるように、知らず微妙な変化や改良が加わってきたのだ。

 松平定信が自邸にうえた120種以上の桜を谷文晁に描かせた「浴恩園・春秋園桜花譜」1822という巻物にも普賢象や普賢堂、紅普賢、桐ヶ谷などはみえているが、これもおそらく園芸種以降のもので、白象を思わせる白い普賢象はない。

 京都には西山の西行桜や御室の桜など、古くから愛された「名所」は多いが、品種として考えた場合には覚束ない。こんにち植木屋が主張する品種のほとんどは権利関係が確立した近代以降の園芸種にすぎず、なんらかの手が加わっているのだろう。ソメイヨシノと吉野桜は全くの別物、ということもわかってきた。


 漢詩人・万里集九の鎌倉見物1486には、称名寺に五つある花の八木のうち、西湖梅の記述しかない。季節外れの十月ということもあり、黒梅や桜梅、二本の桜についてはあったとも、なかったとも記してはいない。押し花を手に入れ愛玩していた花だけに、西湖梅にだけは、とりわけこだわりがあったようだ。

 宗牧の「東国紀行」1544にもみえず、三浦浄心「順礼物語」1614の時点では、すでに黒梅と桜梅は枯れている。花の八木には放下僧の三本杉や青葉の楓のような古い能・物語なども存在せず、初期の簡略な記述からはいつ、なぜ名木と認識されたのか、その由来から個々の具体的な特徴まで、なにもかもが不明なのだ。

 桜には神代桜と称する千年以上の古木もあるとされるが、ふつうは数十年。ただ、衰退期の称名寺が遠隔地から数多くの珍木を蒐集したとは考えにくく、多くは近在の木であったろう。いくつかは元々庭にあったものを接ぎ木したり、蘖(ひこばえ)に代替わりして残ってきた、ということは充分ありうることだ。


 残念なことに、人々の関心がたかまる江戸後期には称名寺の原木はあらかたうしなわれ、その確実な子孫は確認されていない。ここから先は、遺伝子研究の領域なのかもしれない。

 遅咲きの桜はたぶん月末まで。あとは北国でしかみられない。今回は県立三ツ池公園および菊名桜山公園周辺で撮影した。鳥がおっことした花はちょっとしわくちゃだけど、拾って適当に押し花にすれば、たぶん一年くらいは文庫本や電話帳の中で咲いている。


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