関靖「かねさは物語」1938によれば、「園大暦」延文二年1357の条に、鎌倉桜という「絶美の花」が紫宸殿に移植された旨がみえるという。これは南朝による三上皇拉致で崩壊に瀕した北朝を、最晩年の足利尊氏がなんとか立て直した(でっちあげた)時期にあたる。尊氏は伝統にこだわらず、鎌倉一の桜をもってきたのかも。ただこれが普賢象なのか、前述の「混同」だけをもって証明するのはむずかしい。
京都では最高の桜のひとつを「桐谷」「車返し」といっていて、鎌倉の桐ヶ谷からもってきたという。桐ヶ谷は材木座弁ヶ谷ちかくで、かつて佐々木氏信が住み桐谷判官と号した。これが南殿の「鎌倉桜」だとすれば、奉ったのは曾孫にあたる佐々木道誉が想定される。
「車返し」とは後水尾院が車を返して見とれたからとも、花弁が微妙な枚数で八重にも一重にもみえ、争論となった人が車を返したしかめたからともいう。後水尾院がでてくるから、これは江戸期の伝承らしい。「きりがや(つ)」でなく「きりたに」なのは京都の呼び方とおもわれるが、この花は鎌倉極楽寺にもあり、さいしょに植えたのは北条時宗だと寺ではいっているようだ。
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