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もちださんの鎌倉リポート No.264(2017年4月27日)



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武蔵国鶴見寺尾郷絵図・1



駒形天満宮より
 金沢文庫が所蔵する「建長寺正統庵領・武蔵国鶴見寺尾郷絵図」は、もともと横浜市鶴見区にある松蔭寺につたわった建武元年1334付けの荘園地図。そのころの絵図は浄光明寺敷地絵図などが知られているが、荘園図としては関東でほぼ唯一のものとされる。

 鶴見駅のすぐ西にあたる寺尾郷は起伏のはげしい丘陵地にあたり、いまでは坂のうえまで、びっしり住宅街。下に示す概念図【図2】にみえる川は鶴見川で、鶴見側が師岡保、対岸は河崎荘になる。中央にある「寺」は、明治末に能登から移転してきた鶴見総持寺ふきんにあたるが、この時代には松蔭寺の前身となる寺が建っていたらしい。

 もともとの正統庵領分は赤いラインの内側で、原図には「本堺堀」と記してある。真ん中の太い線は下地中分といわれるもので、尾根筋をとおる道などを境に西ブロック、および北ブロックは寺尾地頭・師岡給主・末吉領主を名乗る他の武士にとられてしまったことをしめす「新堺押領」の注記がある。



【図2】
 もともと荘園には地頭が寄生していたが、地頭にせよ領主にせよ、得分を増やすには新田をひらいたり最新の生産技術を導入し、各種産業を興すといった工夫をした。村を豊かにするための投資分は、余計に回収する権利を主張。二重支配によるトラブルが絶えなかったため、名実とも土地そのものを分割する政策がとられた。裁判によって所領が半分になるのは無念だが、すくなくともゼロ・サム状態よりはましとされたのだ。

 絵図は「建武政権による訴訟結果を示すもの」とも、あるいは「旧政権によるかつての訴訟結果をくつがえしてもらう準備のために作成されたもの」ともいわれる。絵図をつたえた松蔭寺は現在、「寺」と記された位置よりはだいぶ西側、「寺尾地頭阿波国守護小笠原蔵人太郎入道」とあるあたりにある(【図7】参照)。もとの寺はおそらく中先代の乱(鶴見合戦)などで門前町もろとも被災し、まもなく移転したとみられる。図の、「鶴見橋」をわたる川沿いの道が「下の道(古東海道)」に比定されるから、激戦地にちかかったのだろう。


 松蔭寺は、建長寺第三十世・枢翁妙環(仏寿禅師1273-1354)の開山とつたえる。禅師は「雲外庵で示寂し、松蔭寺に分骨された」とされ、門外墓地の歴代の墓に卵塔がたっている。建長寺雲外庵は、半僧房参道付近に明治維新のころまであった枢翁の塔所。現在は荒廃しており、そちらに墓などは残っていないらしい。枢翁妙環といえば、「ハマのアメ横」こと洪福寺商店街の洪福寺などを開いたともいわれ、法嗣はあちこちにいたようだ。

 寺尾郷を領有した正統庵とは、枢翁の師である仏国禅師・高峯顕日の塔所であり、はじめ浄智寺にあったのを夢窓が建武二年、建長寺にうつした。これは後醍醐天皇の勅命とされ、もともとあった無学祖元の「正続庵」を円覚寺舎利殿に立ち退かせ、皇族出身の高峯の塔所「正統庵(院)」を「正続庵」の地へドミノ移植した。つまり北条氏が崇拝した無学の塔所のほうが、立派な建物だったからだろう。

 松蔭寺が現在、「本堺」からはずれた地に流転している事情は不明だが、境界争いは続いたらしく、鶴見郷は応安四年1371の文書にも「正統庵領」とみえている。


 現在の松蔭寺は、江戸時代の即身成仏「里見義高」の寺として知られている。義高(?-1650)の祖先は御存知・安房の里見一族で後北条氏に抵抗、独自の公方を擁して鎌倉にもせめこんだ。やがて豊臣・徳川に降り、零細大名として存続、義高も将軍秀忠の偏諱をいただき忠重と名乗ったこともあった。

 やがて改易1613、一家は姻戚であった庄内酒井氏をたより客分「里見外記」として小禄をうけたらしく、本人は隠居してなぜか鶴見にすみ、病没したという。そのさい、「病に苦しむ民衆に代わり」入定し、その地に慈眼堂を建て「お入道さま」「義堯入道尊」などとして祭られた、と伝わっている。その慈眼堂には、なぜか損壊した仁王像がむき出しでならべてあり、なんとも気になるのはその腹と「へそ」のかたちだ(下)。

 境内には人けなく、グミの木という、モクセイのような小さな花が降り散っていて蜂がさかんに飛んでいた。番猫がすり寄ってくるが、なにもあげるものがない。義高にちなんでサトミちゃんと名付け、しばらくあやしていたが、やはり参拝客はなかった。


 「風土記稿」によれば、慈眼堂はもともと西寺尾村の東、駒方(駒形)にたっていて十一面観音を安置し、駒形慈眼堂または観音堂とよばれていた。そばに駒形堂もあり、義高の下僕の馬方が何かのきっかけで姿を消して祟り神となり、霊石として祀られたという(元文五年1740)。また「義高(於入道)の墓」という五輪塔もそこにあって、「疱瘡の神」としてまつられていた、とつたえる。

 これらは神仏分離により慈眼堂が松蔭寺に移され、神道部分は義高の家臣(?)平田兵庫なるものが氏神として「享保十四年1729」創建したという天神社に合祀、西寺尾の駒形天満宮になった。「風土記稿」では義高をその祖父で里見氏最盛期をきずいた戦国大名・里見義堯(1507?-1574)と混同し、「別人なるも知るべからず」と疑っている。駒形堂や天神社の由来にしても、義高の没年からはだいぶ離れている。

 とりあえず駒形天満宮にいってみた。立て札の西暦表記はすべて錯誤しているが、地元研究会のひとがたてたらしい。ここのお猫はお供えをお食事中。


 義高入道はべつに英雄でもなく、領主というわけでもなかった。長らく後北条氏の支配下にあった武蔵国橘樹郡鶴見寺尾郷においては、むしろ敵方ですらあった。時が経ち、喉もとの危険が去ってしまうと、里見氏はやがて「反権力」のヒーローとして讃えられるようになる。

 為政者は大概において嫌われてしまう。年貢のなかには村を豊かにするための指導・投資もあったはずだ。奈良時代には「公地公民」の理念のもと、先進的な口分田がつくられたが、税を拒んで逃散する者があいついだ。土地私有をみとめるや荘園が成立、国司や地頭と対捍した。統制と自由と、どちらが正しいかなんていうものではないが、全体主義の【平等】と無政府主義の【自由】との角逐は、とおい古代からあったというべきなのだろう。

 農民としても、荘官と地頭と、両方の要求に応えるのはむずかしく、どちらか楽なほうにつきたい。また過重な年貢をおさめるには高度な集団労働がかかせず、一揆によるボイコット(耕作拒否)がでたりもした。ただでさえ能力の劣るものは「平等な負担」に耐えられず、主百姓に年貢の代済を頼むなど相互扶助の限度を超え、村八分になったり小作に転落するなど、農民間にも深刻なヒエラルキーが生じていった。



【図7】現在地との比定
 吾妻鏡巻33に、鶴見川中流の小机鳥山の開発の記事1239がある。巻34にはさらに多摩川の用水開発をすすめるにあたり、将軍頼経の「方塞がり(方角占いが凶)」のため、鶴見にある安達義景別邸(秋田城介義景武藏國鶴見別庄)へ一時的に御所を移した記事がある1241。

 このさい、鶴見神社に参拝して神木を植えた等の伝承がある。鶴見神社のことはレポ93「田祭り」、および73の写真1で紹介したが、ご神木はすでに伐採されてしまった。テレビっ子は、いつぞや中村俊輔選手が走る車の窓へ「フリーキック」を叩き込んだチャレンジ番組をごらんになったかもしれないが、神木のたっていた参道は、ようするにビルの谷間の広場になっている。

 鎌倉中期には、鶴見郷は安達氏の「所領」であり、その中心には安達邸があった。絵図の「寺」との関係は定かでない。門前あたりは絵図の折り目であったらしく、残念ながら欠損していて読み取ることはできない。


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