トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第265号 


▲もちださんトップへ戻る

もちださんの鎌倉リポート No.265(2017年5月3日)



No.264
No.266



武蔵国鶴見寺尾郷絵図・2


 寺尾地区は起伏がはげしい。馬場町にある給水塔は戦前につくられたもので、高さ26mもあるという。中世には高低差を利用していくつもの用水池(泉池・七曲旧池・別所池)がつくられ、田圃への「ミゾ」がめぐり、尾根筋には「野畠」もつくられた。中世このあたりの畑作は、師岡熊野神社の筒粥神事(豊凶占い)によれば、大麦・小麦・稗・粟・大豆・小豆・大角豆・緑豆(ふんどう)・麻・菜・大根・荏胡麻・胡麻・黍・薯蕷・蕎麦・霜粟・夕顔・桑・茶などであった。

 絵記号によって記される家並みは、もちろん実数を示すものではない。田には「馬喰田」など特定集落をおもわせるものもあり、別集落としては「性円堀籠」「五郎三郎堀籠」「藤内堀籠」などの注記もみられる。



解説板(水道道)
 寺尾には城もあった。といっても現在は宅地のあいだにいくつかの立て札と石碑があるだけで、素朴な竪堀や平場が確認されているにすぎないが、城にまつわる伝説や残存地名は多い。この城は小田原役帳にみえる「諏訪三河守、二百貫文(江戸衆)」が居住していた。または「詰めの城」で、平時は諏訪坂の「諏訪屋敷」にすんでいたともいう。

 「武州寺尾の住人諏訪右馬之助」「午之丞」なる者は軍記物などにみえ、はじめ上杉方、やがて後北条に属し、信玄などとも戦ったようだ。諏訪氏は信州諏訪社の神官で鎌倉時代に御内人として各地に進出、建武以降も新政権に付くなどして生き残った一族も多かった。諏訪氏にまつわる寺尾村の地名は、入間郡や秩父郡にもあるらしい。

 馬場町(村)は寺尾からわかれた。乗馬の下手な諏訪右馬之助が寺尾稲荷(現・馬場稲荷)に祈って馬術の名人になった、という信仰は江戸にひろまり、戦前までその筋に広く知られていたという。


 右馬之助の開基というちかくの建功寺の過去帳1731などによると、東寺尾の白幡明神は、寺尾城主諏訪氏が足利尊氏をまつるため「永享七年六月五日」1435に勧請したとつたえる。それ以前には頼朝をまつっていたともいい、「鶴見寺尾絵図」1334のこの位置にも、たしかに白幡宮の存在が確認できる。

 現在の祭神は品陀和気の命。いわゆる八幡宮とおなじもの。尊氏や頼朝や清和天皇の先祖といえば先祖なのだろうけれど、明治時代にはかなりいい加減な祭神管理がおこなわれたようだ。たとえば「A級戦犯東條英機」が気に入らないとすれば、ご先祖の「宝生太夫」にでもしてしまえばいい、ということになる。

 「鶴見寺尾図」には鶴見橋の北に「諏防(訪)」とみえ、赤いお宮のようなものが描かれているが、これは諏訪神社のことなのか、赤い色はなにを示すのか、定かでない。また諏訪氏代々の墓は建功寺にもなく、天正三年1575にここを落ちていったとする伝承以降のことは、杳として知れない。


 宝蔵院という寺には小型の板碑もあった。祠はまっくらなので高感度で撮影したが、年号までは確認できない。立て札には本堂裏の丘上に老松があり、伐採したところ塚になっていて、人骨と多くの板碑がでた。なかに承元四年と読めるものがあり、鎌倉時代の和尚の墓か・・・といっている。

 真言寺院であるが、開基等の縁起はつまびらかではないという。ここの和尚は話を盛る傾向があるらしく、この山門も鎌倉時代のものだとする推論をかたわらの石碑に刻んである。また白山祠には「平安時代の信仰だから、当寺の創建も鎌倉以前」などと、ちょっと噴き出したくなるような牽強付会ぶり。

 たしかなのは、中世の板碑だけ。ただ「承元四年」1210では板碑の起源から見て古すぎるので、おそらくは読みちがいだろう。過去帳にのこる最古の記録は永享七年示寂の弁栄という人らしいから、鎌倉公方持氏の時代にあたる。それでも十分に古寺というべきだ。


 本堂わきには「かながわの名木100選」にえらばれたという「源平五色の椿」が咲いていた。立て札には「樹齢は推定600年」「超老木」「誠に珍しい樹のため、希少価値で選定されている」などと、ここにも和尚節が炸裂している。五色椿は通常ピンク主体の変化だが、ここでは接ぎ木もしないのに交じりのない純白と深紅も咲く。それで「源平」とよばれるのだとか。

 神奈川新聞によると同種の椿は県内に9本しかないという。関西では叡尊ゆかりの奈良・白毫寺のものが知られている。奈良教育委員会の標示では興福寺北院から寛永年間に移植したというから、すくなくとも江戸初期には知られた品種であったようだ。

 それはそれとして、美しい木であることにはまちがいない。能書きなんかじゃなく、花のほうをきちんと見るべきなんだろう。同じく100選にえらばれていた若柳正覚寺(相模原市)の五色ツバキは、先年枯死してしまった。老木といえば龍口寺の白椿も枯れた。


 この日は遅咲きの桜を求めて三ツ池公園から寺尾をへて、菊名桜山まで歩いた。土地の起伏や見晴らしは、実際に歩いてみないとわからない。

 正統庵をはじめ、中世の所領というのは全国各地に散在していて、合理的な経営は難しかったとおもわれる。民衆の立場からみれば、よりよい領主につきたいというのが本音だったろう。

 中世の村落では、革命と淘汰が同時におこっていた。排除されるのは無能力な為政者ばかりではなかった。様々な産業をもとに勃興する新しい庶民もいれば、旧態依然とした生活に執着し没落するしかない古い民衆もいた。中世がはたして混迷の暗黒時代なのか豊かな近代の創世記なのかは、どのような階層に注目し感情移入するかでかわってくる。ゆたかな生活を手に入れるには、なんらかの努力が必要になる。ただ他人の成功に嫉妬し、暴力で物を奪い、悪党となってひたすら生き残れば済む、というものではなかったようだ。



寺尾城より
 それは現代もおなじだ。いまどきファシズムを模倣してよろこんでいる周辺諸国は、どこか過去の日本の、敗北した左翼文化人の吐瀉物のように思えてくる。革命家達はひたすら自分以外の死を願い、無差別テロに狂い、破滅していった。チベット人を右翼と名付けて殺戮、それを支持し讃えつづけた、驚愕のばか世代もあった。

 坂の多い街からは、ときおり視界が開ける。遠くにこんなかたちの煙りがみえたりもする。テレビでは北朝鮮のミサイルがどうの、Xデーがどうのと騒いでいるが、一向に実感がわかない。実際にテポドンが落ちたとしても、マンガのなかの話としてたいして関心ももたれず、あいかわらずデパ地下絶品グルメとか、いんちき野党の「揚げ足取り」のニュースに埋没して、まいどおなじみの平穏な日常がつづくのかもしれない。


No.264
No.266