トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第266号 


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もちださんの鎌倉リポート No.266(2017年5月10日)



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川和菊屋敷



店蔵
 県内でもっとも有名な旧家のひとつ、川和菊屋敷こと旧中山恒三郎邸がとりこわされるにあたり、土蔵からでた古文書等の見学会が先月のすえにあった。

 川和菊屋敷については、ポトマック河の桜で名高い紀行作家エリザ・シドモアの著作「日本、人力車の旅」1891や、徳富蘇峰の「川和の観菊(「人間界と自然界」所収)」1926などでしられる。すでに母屋などはとりこわされ、現地には数棟の店蔵とちいさな書院だけ。敷地は保育園のグラウンドになる予定だが、周囲の地形はのこして、将来的には公園とする含みも持たせているようだ。



名著「菊の香」・「自作」の菊番付
 中山恒三郎家は地域の主百姓・中山氏の分家。酒類中卸問屋をはじめとして太物商(麻や綿の呉服)や醤油醸造・雑貨荒物店などを手広くいとなみ、製糸工場などの経営にもかかわって、戦前には中堅商業主として繁栄した。そのかたわら、幕末の江戸小石川で旗本を通じてさずかった数十株の菊を元手に、自邸に菊園「松林圃」を開いて三代にわたり各種菊を栽培、おもに中型株(江戸菊)の品種改良をすすめ日本有数の「菊花王」と讃えられるまでになった。

 明治時代、菊は皇室の花として、また日本の園芸技術の粋として高く顕彰された。ピエール・ロティが「秋の日本」で宮中の観菊会を書き残していたり、パリ万博に出品されるなどしたように、世界に誇る国華としての重責を担ってさえいた。

 恒三郎は自慢の新作を宮中にも献上、松林圃には北白川宮をはじめ数多くの名士がおとづれ、自作の名品「男山」をはじめとする豪華カタログ「菊の香」を出版1910するなど、文化事業にもちからをいれた。町のキリスト教会も、くだんの保育園も、かつての恒三郎兄弟の後援でたてられたようだ。保育園の設立者はその牧師の奥さんで、キクさんといったらしい。



天保七年絵図・恒三郎日記
 書院には幕末の「村絵図」をはじめ、家業や菊園にかんするいくつかの文書類が展示されていた。三代目恒三郎の日記もあったが、ひらかれたページからだけでは、何かを読み取るのはむずかしい。右ページには「宮殿下(北白川宮成久王)」の来臨、左には恒三郎が菊の絵はがきとタケノコをもって宮の高輪御殿にうかがった旨がみえる(*1910。この宮はのち、外遊中に自動車事故でなくなった)。

 恒三郎は「菊経」など和漢の文献を参考にしながら菊の改良にとりくんだという。江戸菊とは、上方の大輪に代わって江戸っ子に好まれた、狂い菊とか変化咲きとかいわれるたぐいのもの。いちど平らに咲いた花弁が渦をまくように巻きついてくるという。「菊経」を出版した松平頼寛は江戸中期の大名で、また「格さん」のモデルとしてしられる安積澹泊なども、無類の菊好きでしられていた。

 全盛期、松林圃には自慢の中菊をはじめ派手な大菊、小菊の懸崖作りなど三千種におよぶ無数の花壇がひろがり、あたりには野菊さえ咲き零れていたという。鎮守の先は立ち入り禁止になっていたが、かつては展望亭をもうけ、見学者があがれたらしい。花壇はその崖上ににまであふれかえっていた。・・・



酒蔵・書院・庭ではタケノコ、うどんなども販売
 恒三郎商店は戦後も酒問屋、塩たばこ専売卸として手広く営業したものの、その繁栄を終えて破産手続きを経、邸宅の向かいにあったかつての店舗などの多くは人手にわたった。これは個人の不始末というようなものでなく一時代の終り、ある種の歴史の必然というものなのだろう。私の親類にも似たような旧家や商売人がすくなくないから、なんとなく事情は察せられる。

 ざんねんながら恒三郎の菊は先の大戦で枯らしてしまい、すでにないらしい。毎年秋には市営地下鉄センター南駅で横浜北部の園芸愛好家による菊花展がひらかれるが、いつのひかこの場所で開かれる日がくれば、とおもう。

 当日の手伝いには学芸員などのほか、近所の川和商店街、中山一族のひとびとなどもあつまった。そこここで、思い出話なんかがこぼれてくる。



「専売」の文字が目を引く
 くずれかかった土蔵には、まだいろんながらくたがつまったままのようだ。開放された酒蔵には、こもにくるんだままの羽釜とか店名が書かれた大量のお銚子類、戦前の売れ残りの「キリンレモン」、ほこりをかぶった日本人形、農具や糸巻きなどの破片、真空管ラジオ、茶箱や茶壷などの無数のがらくたが、展示するともなく拡げられている。

 数十年まえには、旧家の土蔵や納屋なんかには、こうしたものが大量につまっていたものだ。やがて代替りのさいなどに一切合財処分され、たぶん貴重なものもふくんだまますべて記憶から消し去られた。おおくの人々にとって、過去の記憶なんてものはむしろ余計な重荷のようにかんじられるらしい。教えてくれたら、なんかひとつくらいもらってやったのに・・・知らないうちに消え去ってしまう。

 開港記念館や横浜ふるさと歴史財団などによれば、市内にはもはやこれだけの蔵はもう、のこっていないという。なかにひとつ、鎌倉坂ノ下の川口さんから恒三郎あてに送られてきた、未開封の小包がなんとも気になる。



もろみ蔵・酒蔵・店蔵
 川和は一時期「都筑郡役所」がおかれたこともあったが、JR横浜線中山駅から歩いて30分あまりかかる。かつての繁栄の記憶から、もともとは川和に駅が出来るはずだったという「鉄道忌避伝説」もあるが、地形からみて不自然な話である。鎌倉古道にあたる「中原街道」に面した鎌倉寺院・佐江戸無量寺からは、「貝の坂」という険しい切り通し(旧)が中山家の門前(日野往還)にかよっており、その峯筋にはそれぞれ佐江戸城と川和城がきずかれるなど、鶴見川中流域を扼する要害の地にあたっている。

 中世の秩父平氏には小机六郎こと河崎基家があり、その孫とされる中山為重がこのあたりを本拠に鎌倉幕府に仕えた、という。小机鳥山を開拓した佐々木泰綱の縁者にあたる。風土記稿には裏手の加賀原に昔「中山加賀」という者がすんでいたともつたえる。ただし近現代の川和中山一族との関係はあきらかではない。

 「花を作つてると人間が薄馬鹿になる。薄馬鹿になると人の世は住み易い」。「田園」の作家・広田花崖はそんなふうに書いているが、賢人は愚父のごとし、という思想がかつては広く知られていた。お血筋とか、そんなものはどうでもいいのだ。


 川和城の跡はだいぶ切り崩されたらしいが、お猿畠の朗慶がひらいた妙蓮寺の裏山墓地がその一部にあたるという(写真3・天保村絵図の左端にえがかれた鳥居のところが妙蓮寺七面堂。中央左に「城古場」などの小字がみえ、松林圃は右方にあたる)。徳富蘇峰は、恒三郎家から登っていったが、ざんねんながら富士や阿夫利山はみえなかったという。この日は、晩春には珍しく晴れて、蘇峰が見られなかった雄大な眺め(?)がひろがった。

 かたわらには恒三郎さんの墓があった。蘇峰はかれに会っている。庭にあふれる菊も見た。てまえの工場は恒三郎商店で、そのさきは鶴見川、青砥・八朔の林、とおくに横浜線の汽車のけむりがのぞまれたはず。川和城は義経の臣・熊井太郎の城だというが、ようするに城主などはすっかり忘れられてしまっている。三方を尾根にかこまれた中山邸は、根小屋の位置といって過言ではない。


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