トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第267号 


▲もちださんトップへ戻る

もちださんの鎌倉リポート No.267(2017年5月18日)



No.266
No.268



江戸の俳人・1


 レポ244に抄出した三浦浄心の「巡礼物語」には、近衛殿(*近衛信尹1565-1614)の鎌倉めぐりの歌が、他にもいくつか出てくる。「近衛殿、近き年松が岡にて、/ 便りせん程は待てとよ都にて 我も便りを松の岡山」(上巻の2「鎌倉の名所和歌の事」)、「去んぬる年、近衛殿覚園寺へ御参詣のみぎり、/ 散りし世を聞くぞ悟りの園の梅/と御自筆を染められて下されたり」(下巻の2「鎌倉中寺社建立の事」)。

 慶長12年(1607)1月3日、前関白近衛信尹、京師を発して江戸に赴く。2月26日、江戸より帰り、是日参内す。「言経卿記」などには、簡略な記述があるばかりだ。江戸の梅若塚を訪れたことは知られているが、浄心のつたえる鎌倉での動向は、よくわかっていない。


 信尹は名門摂関家の出であり、寛永の三筆として知られる文化人であるが、貴族としては波瀾の生涯を送った。父・前久(1536-1612)は上杉謙信の上洛にともない、客分として越後へ下って関東平定の工作に従事した。帰洛後は時の勢力、三好・松永にすがったため一時は織田信長と対立。やがて信長の手足としてはたらき、息子信尹(初名、信基・信輔)の信の字も、信長から戴いたものという。

 だが前久は本能寺の変にかかわったなどと秀吉から疑われ、家康の斡旋で隠居、どうにか晩年をいきのびた。このため息子信輔(のちの信尹)も秀吉の威に屈し、その命運を左右されてゆく。妹(12)は「秀吉の養女として」入内。あと一歩だった関白職さえも、「秀吉を兄として」譲り渡す。子のなかった秀吉は、後陽成天皇の弟(のちの八条宮智仁(10))を自分の養子にむかえるなど、貴族社会の常識を根底から覆す独善行為を重ね、信輔の面目をつぶした。



東御門
 いたたまれなくなった信輔は、「秀吉の朝鮮出兵に参加する」などとして独断で朝廷を出奔。このあてつけがましい行動には当の秀吉も激怒し、発狂とみなして薩摩に配流、島津氏に養われることとなった1592。秀吉の死後、赦されて京都に還り、信尹と改名。島津氏と家康を結ぶはたらきにより復権し、ようやく念願の関白になる。子のなかった信尹には後陽成天皇の皇子(信尋)が養子としてあたえられ、皇室の一員(准后)にもなった1605。

 江戸に発つ前月には政仁親王(のちの後水尾天皇)を自邸にむかえており、江戸下向は家康らと円満な譲位のための密談をはかる目的があったようである。しかし、幕府による朝廷への介入にはさまざまに抵抗があったらしい。別の皇子・高松宮は「有栖川宮家」、さきの八条宮は桂離宮をいとなみ、隠遁生活をよそおいながら「桂宮家」という別の皇統をつくる。のちには後水尾天皇さえも、入内問題で寵妃を処分するなどした幕府の陰険なやり口にへそをまげ、幕府の血を引く次女(7・明正天皇)に後事を丸投げして、勝手に退位し修学院離宮に引き籠ってしまう。


 寛永の文化人には、ちょっと壊れた人物も多かったようだ。長嘯子こと木下勝俊は秀吉の正妻・高台院(ねね)の甥で、淀君母子追討工作に利用されたのち、徳川幕府から捨てられた。長嘯子の友人・藤原惺窩(1561-1619)は冷泉家末端の没落貴族で、はじめ相国寺で宗舜となのり外交使僧として活躍。秀吉の朝鮮征伐に触発され、朱子学の中華思想にかぶれた。

 当時敵方に蔓延していた朱子学は、「理」のみを重んじて現実をわすれるという儒学系の原理主義思想。本場・明への渡航に失敗した宗舜は、たまたま伏見に囚われていた朝鮮儒者にまで助力をあおいで文献解読に没頭。日本式の朱子学を提唱するにあたり、還俗して藤原粛、号を惺窩となのった。

 家康に推薦した林羅山など、弟子からはガチガチの御用学者を多数輩出したが、みずからはなぜか幕府や諸大名の禄を断わり、権力を厭う隠者生活に執着。陽明学など諸家の学説にも関心をよせ、長嘯子らと和歌をよむなど悠々自適の晩年をおくった。俳人松永貞徳は姉の子にあたるという。


 信尹の書は三藐院流とよばれ、茶道具の掛け軸などとして珍重されたため、短冊などの多くが散逸している。歌・連歌などきわめて多作ながら、書き散らしが多かったようで、まとまった主著というのものも特にない。

 日本に於ける「八景」シリーズは、原本は未確認ながら、「信尹自筆の近江八景」があった、という記録が最古のものとして有力視されている。藤原惺窩も晩年うつり住んだ京都郊外の市原で、市原八景とよぶ和歌をよんでいて1615、有名無名、さまざまな八景ブームがあったらしい。だとすると金沢八景のはじめも、信尹の来訪かその影響による可能性が無視できなくなる。

 「金沢の地景の事」には信尹の江戸下向から七年目、「慶長十九当年(*1614)」には「金沢八景の詩歌、世に隠れなし」とみえている。三浦浄心のいうこの「八景の詩歌」とは、誰の作でどんなものだったのか。惺窩の弟子・林羅山の「丙辰紀行」1616には八景について、なんの言及もない。詩題が確立し、詩歌が定着したのは明僧・東皐心越禅師(1639-1696)の来訪からで、詩は心越の作、和歌は丹後の大名の子・京極高門(1658−1721)なるものが添えたとされる。ただ、能見堂にあった古い石碑も、いまはほとんど失われてしまった。


 寛永の三筆ののこる二人は、もはや庶民といってよかった。本阿弥光悦は研ぎ師の出で、松花堂昭乗は近衛家の家来だった。特権階級が独占してきた貴族文化は、もはや上流の庶民にも共有されるようになってきたのだ。

 俳句の起源をどこに置くかは定かでないが、宗祇のころには既に「発句集」や「独吟千句」のようなものはできており、和歌や連歌のための参考とか腹案に利用された。なかでも俳諧とよぶ「面白い句」は単独で読んでもたのしめるから、俳諧をあつめた書を世にひろめた宗鑑や守武を俳句の祖、と考える見方もある。

 俳句が五七五として定着するのは江戸時代にはいってから、とみなす考え方もある。ただ松永貞徳の流れをくむ江戸の俳諧師においても「七七」をふくむ連句はつづけられ、和歌や連歌を理想とし重んじる習慣が完全に分離消滅したというわけではなかった。芭蕉一門などごく一部の例外をのぞいて、まるで「笑点」の大喜利のような「前句付け※」などが、依然としておこなわれていたのだ(※嬉しくも有り嬉しくも無し、さて、このお題に面白い上の句をつけてみて、とかいう、あれ)。現在ではこれを雑俳とみなして不当に低くみる傾向があるが、連句の歴史を知らないのだろう。


 初期の俳諧の「面白さ」のなかには、まだ貴族的な和歌や連歌の習慣が濃厚にのこっていた。古今の名歌をもじったような句は、元ネタの和歌を知らなければけして理解できないし、掛詞のような作法はもちろん、わざと難解な歌語をもちいたり、古今の膨大な古典・漢詩文の知識がなければとうてい理解不能な句もあった。大淀三千風(1639-1707)の俳文なんか、田舎すし屋の湯飲みのように難読漢字や当て字を並べ、まるで暗号のよう。

 現代人にとっては、古典の教養などまったく余計なお世話なのかもしれないが、近世庶民にとっては、そういう面倒な蘊蓄(うんちく)を学ぶことも「あこがれの貴族」に近づくための喜びとして理解されていたわけで、宗匠は百学に通じた物識りでなくてはならなかった。

 ある種の身分・学歴コンプレックスがあるうちは、たんなる目新しさ、庶民感覚だけの俳句では満足できなかったものと思れる。ともかくも貴族の模倣を糸口として、庶民でも貴族にまけないような小説や物語を書いたり、歴史や哲学・本草(自然科学)等の考証にむかう向学心が芽生えるにいたった。その糸口として、文芸のはたした絶大な功績については、疑う余地がない。貴族文化はもう、手の届くところにまで来ていたのだ。


No.266
No.268