トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第268号 


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もちださんの鎌倉リポート No.268(2017年5月23日)



No.267
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江戸の俳人・2



瀬戸神社
 「鎌倉紀行笠の蝿」三巻1701、「鎌倉海鏡猿田彦」九巻1741を著した江戸の俳人・立羽不角(1662−1753)については、あまり知られてこなかった。芭蕉からみれば同門の不卜の弟子にあたる人で、比較的古典的な俳諧連句で大名とも交友、千人をこえる弟子を誇り、法眼にまでよじのぼった。

 風雅をおもんじた蕉風の後継者・其角とは対立。おまけに「笠の蝿」の跋歌を詠んだ渭北こと松木淡々(1674-1761)も、やがて大坂で保守層に迎えられて金満俳人となり、他の貧乏派閥から「化け物」などとさんざん妬まれた人物だった。ひろく付け句を募って素人門人から点料を稼ぎ、経済的にも成功した不角らのやりかたは後世、とりわけ芭蕉の清貧生活を慕う向きから、つよい反感をあびたようだ。


 芭蕉中心の文学史から、敵役としてながく抹殺されてきたのも、ひとえにそんな理由からだろう。ただ、芭蕉一門には鎌倉に関するめだった著作はない。「風俗文選」に許六が書いた、俳文といわれる短いコラムがあるばかりだ。

 不角の「笠の蝿」とは、旅の記憶を「思いがけず旅先からくっついてきた蝿」になぞらえたもの。まじめな旅行記とおもいきや、物語あり小咄あり悪ふざけあり、変幻自在。不角は点者として稼ぐほか書肆もいとなみ、膨大な俳書のほか西鶴のような浮世草紙や唐土怪談集のような教養書も書いており、文体は荒削りながら饒舌で、多弁多才な人物だったようだ。

 「笠の蝿」の版本は国会図書館デジタル‐コレクションで閲覧できるほか、研究者向けに翻刻もあるらしい。できれば全文を読み易い釈文のかたちで掲載したかったが、あまりにも長くなりすぎるので、ここではごくかんたんな紹介にとどめておきたい。



杉本寺
 不角は付き合いのある備前岡山の大名池田綱政を川崎まで見送るため、折から鎌倉旅行を志す俳友、好柳と岩田好角に家来をくわえた四人で、江戸をたつ。川崎では大名行列のためにほとんどの宿屋が札止めとなり、殿様への挨拶が済んで安宿での宿泊を余儀なくされるが、さっそくそのオンボロぶりを逐一小ばかにし、笑いたおす。

 当時は漢学にもとづく、難解な俳句もはやっていた。代表的なのは鴫立庵の大淀三千風。称名寺の門前茶屋で茄子田楽をつまみながら、同行の好角がかつて「閑古鳥」と詠んだ句を三千風が勝手に「鳲鳩(としよりこい)」と改変しやがった、とくだを巻く。鳲鳩も閑古鳥の別名だからいいじゃんか、と不角は冷やかし笑うのだが、厳密にいえば訓読での「年寄り来い」には山鳩(八幡鳩)の鳴き声という説もあって、カッコウとハトとでは、だいぶちがう(・・・もっとも現在のハト時計でも、カッコウの声と鳩とを混同しているが)。

 鴫立庵はライバル派閥(談林派)にぞくしており、こんなエピソードにもたぶん、談林派の衒学趣味にたいする皮肉がこめられていたにちがいない。とはいえ、不角じしんも、ある桑畑で唐の伝説をふまえ「蛇が足を出す」句をよみ、土地の下人が不思議がるのをいいことに、「船の足、ということもある」などと、即席のデタラメまでおしえこんでしまう。


 教養のない庶民だって負けてはいない。江の島の白菊伝説について、ガイドにやとった地元の子供があまりにトンチンカンな解説をするので、不角が親切心からこんこんと訂正してやると、「そんな事は知り侍らず、唐人の寝言なり」と、かえって馬鹿にされるしまつ。また藤沢の見返り松をガイドした子に、好柳がお礼の扇をやると、「こんなきたねえ扇、いらねえ」とその場で捨てられ、子供相手に憤慨するものの、逆にさんざんからかわれてしまう。

 また、武士はタダであるはずの六郷の渡しでは、四人分の船賃を請求され、いちおう下級武士であった好角が苦々しげに船頭をねめつけるが、まったく気づいてもらえない。こういう書きぶりは、庶民感覚からみずからを客観的に照射する独特のおかしみがある。いぜん「詩碑」の項で、ほぼ同時代の儒者三人組の貧乏旅を紹介したけれど、気位ばかり高く、漢文なんぞを捏ねくって他人を見下し喜んでいた自意識過剰な少壮学者なんかよりは、よほど世なれた感じがする。不角、40歳。好柳・好角・供の家来の年齢は不詳。



十二所神社。当時は光触寺のかたわらにあった
 鎌倉の地理にかんしてはいくつかの間違いもあり、「光沢寺」で頬焼け阿弥陀をみたあと野中で行き暮れて、さびしい農家に泊まった。百物語をして寝ずに夜を明かすが、翌日に山中でたちよったみすぼらしい茶屋の、男やもめの店主の泣き言を哀れんで、朝っぱらから食いたくもない「ところてん」を食い、「塩嘗め地蔵」「田代の観音」をへて、ようやく「朝比奈が切通し」にいたっている。「芥子」云々とあるから、当時は酢醤油味だったらしいが、はたして貧乏茶屋はどこにあったのだろう。「ところてん」は現在、円覚寺弁天茶屋の名物で、関西風の黒蜜味もある。

 光明寺の「慈尊院」に矢拾ひ地蔵があったというのも、浄光明寺のまちがい。またお猿畑にむかう途中に「安応院に詣で」て師匠筋の石田未琢という俳人の墓を詣でているが、これは安養院のことだろうか。ただ、極楽寺の茶臼や長谷寺・大仏は一度見たからおまえだけ見ておいで、と家来をのこして馬で素通りしており、不角は前後にも何度か鎌倉には来ていたらしい。

 後年著した「猿田彦」というのは道案内をする神さまのことで、鎌倉の詳しい案内記としては、そちらの書をみるべきなのだろう。国会図書館にあるらしいが、あそこは複写がくそ高いので、デジタル‐コレクションに載るまで気長に待ちたい。


 当時閻魔堂橋にあった流失直前の荒井の閻魔堂では、いわゆる正塚の婆さんについての見解を家来に披瀝している。ババアはけして「地獄の追剥ぎ」などではなく、大日如来が人間に貸した衣胞(えな)を回収しているだけなんだ、うんぬん。ちなみにこのとき、仏像は江戸への出開帳1698で火事に遭い、すべて焼失していたという(十王も葬頭川の姥まで、同事に炎の中にして失せぬ)。ただし婆あはいまも戦国時代のものがつたわっているので、じっさいには部分的に焼け残って戻されたもののようだ。

 化粧坂の記述では、鎌倉時代の大名が豪遊した遊女屋の「揚げ銭(代金)」の話から脱線し、曽我五郎の徹底した貧乏ぶりを笑い倒しながら「曽我物語」の本筋へと筆がながれ、物語作家の癖がでたのか、梶原源太との女争いの講釈が延々とつづく。恋をいのる押手の聖天では、われら三人は女房持ちだから、なんら「御無心申すべき事なし」。油を掛けはしないけれど、炎天下に来たというほんの気持だけ、と「手向けになれやあぶら汗」と詠む。

 江の島の岩屋には大潮の満潮時におとずれたらしく、折悪しく通路に波が押し寄せ、とりわけ三つ鱗の家紋をもつ好柳は「もし龍神の一門かと思はれ、共に龍宮へ引き入られんも知れず」などと、顔を藍にしてビビリつくしていた、そんなエピソードも楽しそうに綴る。


 あえて俳句そのものの引用は控えたけれども、当時の庶民・保守層に大受けした「面白俳句」の世界は、あるていど説明できたのではないかと思う。鎌倉の句としては、正岡子規の「俳家全集」巻2にも、こんなのが引かれている。「松が岡にて、なまめける尼たちの人なつかしさうなるに力を付て、
 後へは里の詠めに山さくら
 山桜高く笑はば散りぬべし」

 晩年の不角を評して「化鳥風」という批判があったらしい。化鳥(けちやう)とは頭が猿で足は虎、という鵺(ヌエ)のこと。しかし「なんでもござれ」というのはあとからみた批判でしかなく、当初の俳諧はけして「わび・さび」ばかりでなかった。後世、まじめ一辺倒の「奥の細道」なんかが主流になってからは、お笑いの要素は川柳とか滑稽本とか、ほかの世界に活動の場をひろげたのだ。各流派は弟子の奪い合いで争っていたに過ぎず、当時の悪評を過大に斟酌するひつようはない。

 また、けちやうとは「慶長金」のことで、古臭いという含意もあった。だが不角じしんはまんざらでなく、これこそ「正風」の証拠であり、温故知新を標榜していたという。「笠の蝿」で江戸に帰った不角は、まだ股引・脚絆もぬがない内に、まちうけた弟子たちに仕掛けられ、さっそく俳諧連句をはじめている。


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