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もちださんの鎌倉リポート No.269(2017年5月27日)



No.268
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江戸の俳人・3



溝川や水に引かるる烏瓜
 「西鶴諸国はなし」の巻5の3「楽しみの麻古の手〜鎌倉の金沢にありし事〜」には、猫のような海獣がでてくる。原文では「麻古」の二字に魚偏がついているが、実際にはない字を含むので入力できない。

 すでに人生をあきらめ、ただ死を願う世捨て人のもとへ、この麻古がやってきて、甲斐甲斐しく食事などの世話をする。背中まで掻いてくれ、しだいに生きる喜びを取り戻す。やがて故郷の伊勢の寺の、死んだ師匠の衣を、はるばる麻古がはこんでくる。僧は自分の使命を見つけ出し、国に帰って行くというハートフルな物語。素材は無関係ないくつかの伝説で、版下も西鶴自身が書いたとされる(下)。


 「孫の手」の語源となった麻姑という仙人は、もともと爪の長い美女なのだが、ここでは金沢猫のイメージに変えられた。鎌倉には猿が日蓮の世話をした伝説があるし、能でしられる猩々も、水辺から忽然とあらわれて、酒を売る孝行息子に「酌めども尽きぬ」酒壷をあたえ去ってゆく、人情にあつい珍獣のものがたり。

 西鶴はこうした本説を自在に換骨奪胎し、野良猫や鳩にしか生きがいをみいだせない孤独な人々の、深いペーソスさえうかびあがらせた。ありえない妄想を描くことによって、かえって現実に迫るやりかたは、ある種のマジック‐リアリズムともいえそう。モーパッサンやゾラにあこがれ果たせず終った明治の非力な文人が、西鶴を再発見し、たかく評価していったのも当然といえよう。



道のべの木槿は馬に食はれけり
 井原西鶴(1642-1693)は談林派の俳人で、大矢数とよぶ大量の独吟を得意にした。談林派は伝統的な貞門派俳句に対抗、連歌師西山宗因(1605-1682)を中心により自由な作風を目指した新興派閥。貞門派からは軽口・守武流などとして批判され、西鶴にいたっては「阿蘭陀流」「ばされ句」などといわれた。もっとも貞門派から正風をうちたてた芭蕉は、談林派の新しさにははやくに支持を表明、その弟子・其角も晩年は奇抜な作風から洒落風とよばれるなど、たがいに影響はうけていた。

 建長寺には震災まえまで杉ヶ谷弁天という鎮守があり、かつてそこに宗因の句碑があったという。遠山伯竜の書いた「桜のかざし」1800によれば、延命水付近ともいっているが、江戸談林の一陽井(谷)素外が建てたもので、「梅翁」は宗因の俳号。
   昔時を懐ひて
  何代か玉まくず葉の鶴が岡
  山の内や両上杉の下納涼
           忘吾斎梅翁
(*玉真葛は丸まった葛の新芽。夏の季語。鶴は蔓の掛詞)



梢より仇に落ちけり蝉の殻
 西鶴が鎌倉に来たことはないらしいが、宗因は何度か来たらしく、他にいくつも俳句・連句をのこしている。「待月や首長うして鶴が岡」「蛍火は百かものあり滑川」「(扇ヶ谷仏師左京殿にて)谷々や此窓前に持扇」・・・残念ながら旅日記は簡素だ。谷素外は談林派七世宗家を主張し、こうした碑に自分の名を刻み添えて建てていったらしい。売名行為にはちがいないが、江戸談林を再興したい思いもあったのだろう。

 また、ちかくの円応寺にもこんな碑があったという。
  散れば咲く花相似たり人の上
            六盌仙風我
六盌仙といえば鴛田青峨(?−1730)のことで、風我は別号または伯竜の誤記かもしれない。水間沾徳(1661-1726)の弟子で、これもお師匠さんとして江戸俳壇ではそこそこ頑張った人らしいが歌は平凡、文学史からはわすれられた。子規の「俳家全集」にもでてこない。どうやら俳句は「流派」とか「家元」とかでなんとかなるものではないらしい。


  鎌倉を生きて出でけむ初鰹
 松尾芭蕉(1644-1694)が鎌倉について詠んだ句は、他にほとんど知られていない。これについて、弟子の各務支考(当時28)が随聞記「葛の松原」に記している。

○・・・詩歌に名所を用いる事、容易からじ。鎌倉の初鰹は、支考が東より帰りける時、「かかる事あり」とて見せ申されしを(*みせてくださったので)、「生きて出る、といふに鎌倉の五文字、またその外あるべくとも承わらず」と申したれぱ、「嬉しく聞き侍る」とて阿叟(をきな)も憎み申されしが(*師翁も感心なさっていたが)、みづからも徼幸にいひ明かしぬらむ(*そのことは自分もお手柄として言いふらしていたものだ)。

 単なるカツオの運命を、「鎌倉」の語によって日野俊基や大塔宮ら、生きて出ることのなかった「太平記」の英雄絵巻にかさねあわせ、余情の広がりをもたせた。ただこれは、「カツオ」や「太平記」を詠んだにせよ、鎌倉に行き鎌倉を詠んだ、というものではない。


○弥生も名残り惜しき比にやありけむ、蛙の水に落つる音、屡ばならねば、言の外の風情この筋に浮かびて、
 蛙飛び込む水の音
といへる七五は得給へりけり。晋子(*其角)が側に侍りて、「山吹といふ五文字を冠(かふ)むらしめむか」とをよづけ侍るに、唯「古池」とは定まりぬ。

 「山吹」は古来の和歌において、「蛙鳴く井手の山吹散りにけり 花の盛りに逢はましものを」(古今)、「色も香もなつかしきかな蛙鳴く 井手のわたりの山吹の花」(小町集)などと謳われてきたから、ありふれている、小賢しい、それに華やかすぎる、として不採用になった。「俎板に小判一枚初鰹」、其角の句には凡庸なものも多い。

 支考の証言が正しければ、「古池」にせよ「山吹」にせよ、写生ではなくて句をつくる上での道具立てにすぎなかったことになる。推敲の語源は「(門を)推す」か「敲く」かであって、敲けば音が聞えそうなものだが、もちろん詩歌は事実に即するものばかりではない。それが嘘であろうとも、より効果的な言葉が選ばれるのだ。「古池」は現実の光景ではなく、思案のはてにみいだされた理想郷としての「言葉」だった。


 芭蕉は木曽義仲や義経を愛した。たぶん頼朝は嫌いだったのだろう。西山宗因が江戸にくだり、ちょうどそのころ江戸に住み始めた芭蕉が、その興行に参加したのは32歳の時。その新風にふかく影響を受け、はじめて桃青の号をもちいた1675。

 たぶん宗因の鎌倉の句も知っていただろうし、自身が鎌倉を旅するチャンスも、なかったわけではあるまい。あるいは鎌倉の句を多数詠んではいたものの、日本橋や深川の庵が焼けたさいにともに煙となって、復元されなかったのかもしれない。

 芭蕉は「名聞を厭う」という立場から、みずからの句を流転にまかせ、集を編んで残したり出版することを嫌った。鰹の句は、例外的にのこったものなのだ。晩年の芭蕉にとって、詠み捨てた月並みな句など、みんな忘れられてしまったほうがよかった。「詩歌に名所を用いる事、容易からじ」と支考ものべているように、多くのひとびとの手垢のついた観光地では、もはや新鮮なことばを見つけ、究極の風雅を表現することは困難だったのかも。


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