トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第27号 


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もちださんの鎌倉リポート No.27(2008年3月16日)



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切り通しと城・3



大仏坂。入り口をすこし上って振り返ったところ。急坂につくられた岩壁は城門のよう。
 古代の城というと誰もが羅城を思い浮べ、羅城でなければ城ではない、と思いつめている人までいる。日本にも都城をはじめ、古代山城、東北の城柵、国府、関などさまざまなタイプの羅城があるが、マンガや娯楽映画に描かれた中国城のような、「高さ10m以上でレンガ積みの近代的な城壁」でなければだめらしい。

 そもそも、マンガで覚えた先入観そのものになにか間違いがあるのではなかろうか。そういう人には中公新書「中国の城郭都市―殷周から明清まで―」などの、ちょっと学術的な読み物をお勧めしたい。奥入れによれば著者・愛宕元さんは京大助教授(当時)でいらっしゃり、マンガなどよりはるかに信用がおけるのではないか、とおもう。



急坂を包みこむ切岸の複雑な曲線は、登ってくる敵を真後ろの壁の上から射るためにある。
 宋の開封の繁華街をえがいた中国屈指の絵巻「清明上河図」にみえる都城の羅城は、松の生えたひんじゃくな土手とせまい溝でできていた。「それは、外濠だから・・・」と言う人もいるが、そもそも羅城とは外郭をいうのである。

 唐・長安の羅城は652年ころ、4万人によってわずか三十日でつくられ、でこぼこの天然地形の上に周囲の黄土を幅3〜5m、高さ5mていどに積み上げた「砂の城」にすぎなかった。日本と中国は土質がちがい、黄土は砂糖の固まりのように、いちど崩れるとさっと粉末になってしまうのでいまは跡形もないが、モルタル工法のように両側を木の型枠ではさんで上から土をいれ、棍棒でたたくとおもしろいほど簡単に塀になった。当時の記録や地中の圧痕などの発掘調査はこの数値で一致しており、空想のはいりこむ余地はない。つまりマンガのような巨大な羅城など古代の東アジアにはどこにも存在していなかった。

 だから平城京とか多賀城とかで見つかっている4mちかくの高築地も、当時としては相当立派な城壁だった。源平のころまで修理宮城使、修理坊城使が任ぜられているので、すくなくとも京の内郭(大内裏)と朱雀大路の両脇には、相当規模の土塁や溝、高築地がのこっていたのではないかと思われる。これらは良質な粘土でできていたものもあり、「内裏土」「聚楽土」などといって壁土や焼き物の素材として崩壊後も珍重された。



若宮大路。古絵図によれば「下馬(いまの下馬交差点)」あたりまで「置石」道がのびていたことがわかる。
 鎌倉の若宮大路はこの朱雀大路の坊城をまねていて、「下馬」(京では大路・坊門)以外では横断できないよう、路の両側を溝と土手(築垣)がめぐっていた。とうぜん幕府舘や武家屋敷の門も若宮大路側にはひらかれず、並行する小路や辻子(ずし=路地)を向いていた。公暁が三浦氏の鰭板のところで討たれた、と伝えられるように、邸をめぐる塀は鎌倉ではほとんど木製の化粧板であったから、溝や土手といっても当時としてはかなり厳重なはたらきをもっていたのである。

 段葛(だんかずら)は古くは置石ともいった。都城では「龍尾道」という石敷きが大極殿の正面にのびていて、土足でむやみに横切ることを禁じていた。鎌倉ではこれを八幡宮の神霊がとおる道とみなし、当初は人間が踏んでわたる道ではなかった可能性がある。

 日本の都城および国府城などに共通してみられる碁盤目の遺構(条坊)は、ギリシャ・ローマに由来するらしいが十分にあきらかではない。中国では不等辺矩形がふつうで、整然と設計されたらしいのは砂の城・長安などほんの一部だけ。開封(北宋)は不等辺、杭州臨安(南宋)などは不定形であって直線道路は乏しく、東アジアではむしろそれがふつうだった。城外の田園地帯にまで碁盤目の造成を広げ、広範に条理阡陌(せんぱく)をしいたのは日本の律令期以外にはほとんど例がない。

 さて、鎌倉をめぐる山稜部の調査によって、いたるところに要害、砦、石切り場、堀切などが発掘されたのはここ十数年来のことだ。鎌倉考古学の第一人者・大三輪龍彦さんらの監修による復元イラストや復元模型では、これらをつなぐりっぱな羅城が街の境界を大きく囲撓していたものとしている。

 もちろんこれらは概念図であって、現実には羅城のようなものが連続的、計画的に作られたわけではない。要害があまりに多いので、全体として街を囲んでいたという概念はなりたつけれども、その配置にはむらがあって一連のものとは言いがたく、稜線の部分部分が中世を通じて個別に要塞化したと考えた方がよい。外部からではなく、市内からの攻撃にそなえ、ふもとの谷をまもるための遺構とおもわれるものも多くを占めている。たとえば杉本城、などとよばれているものもそのひとつだ。


荷車がすれちがえるように掘りなおされた明治の新道跡。手前は埋没、奥は現在のトンネル工事で切り落とされている。



古道部分の現在の広さはせいぜい荷車一台分あるかないか。バリケードで容易に封鎖できる。
 個別の要害で行なわれた合戦もある。宝治合戦では三浦光村が頼朝法華堂(頼朝墓)にこもり、佐竹合戦では佐竹常元が竹御所法華堂(妙本寺)にこもった。寺の造成地は崖の法面が多く、山城のようになっていたからだ。杉本城は杉本観音後背地の稜線や切り通し道を利用した細長い砦のようなもので、足利方の守兵・斯波家長が、侵入してきた北畠顕家軍との激戦のすえ玉砕したとのつたえがある(1337。「常楽記」「太平記」巻十九ほか)。とうぜん若宮大路が舞台となった合戦も多い。

 「鎌倉大草紙」には、公方府陥落(1455)後、放棄された理由について「鎌倉は要害悪敷(あしく)」とあり、防衛線が長すぎる、周りが高く真ん中が低い、など城の立地としての致命的な欠陥を暗示している。新田義興による鎌倉攻めで敗北経験のある初代公方・足利基氏は、「居ながらに敵を受くべき地勢ではない」と断じ、「まず勢を関戸・分倍河原(東京都府中市)に出して敵にあたれ」と遺言したらしい。氏満も持氏もこれを忠実に守り、有事にはおもに府中・高安寺城に出陣している。

 急峻な山に囲まれているのは一見都合が良いようにみえる。が、豊臣秀吉の遠征で朝鮮城がドミノのように落城していったのも同じ理由で、敵が羅城の一角を奪取してしまえば、中の人々は見下ろされ、たちまち袋のねずみになって降伏せざるを得ない。対照的に日本式にきずかれた蔚山日本城がごく少数の留守兵で明の大軍を退けたのは、独立型の戦国城郭が実戦では羅城よりもはるかに優位にあったことを立証している。

 もともと羅城は部族間のみなごしを前提として発展した大陸の発想であり、日本にはむかなかった。たとえば清代の西安城では支配民族である満州族と従属した漢族とのあいだに高い仕切りがあり、城中に住むことを許された従順な選民と、そうでない賎民とのあいだに城壁があった。そもそも人種間やヒエラルキー(階級)の対立が鮮明でなければ、王同士の身勝手な戦争に市民がまきこまれる必要などありはしない。


蔚山日本城全図(「朝鮮西伯利紀行」1894より)。左右にくねった韓城ふうの小壁がえがかれているが、これは現地人の協力で作られたことを示すという。

 冒頭(レポ25)にのべたように、滋賀・京都にまたがる比叡山は戦国山城のルーツのようなものである。僧兵たちは「山僧強訴」のたびに堀切や逆茂木をかまえ、清盛ら源平の名だたる武将の攻撃を退けた。武士たちは、ここから城とはなんであるかを学んだように思う。城はこうして実戦的な、最小限の仕掛けで最大の効果をもとめるものに変質しはじめた。南北朝以降、城砦は武将の数だけ、莫大に増えていったが、もちろんそれは壮大なものではなく、かれら自身をまもるためだけの、私的で、あるいは貧弱な、孤独な城にすぎなくなっていた。


次回は「流されびと」1・2・3の予定です。


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