トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第272号 


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もちださんの鎌倉リポート No.272(2017年6月20日)



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観光のはじまり・1


○ 都(すべ)て鎌倉の地は目に見しよりは古事来暦多し。聞きしよりは見る処少なし。見る処みな田園にして、古えは北条の殿営、今は一盤の梵宇。昔は足利の藩裏繁営、今時は但、農夫耕耨の地となることを見る。桑田滄海、須臾に改まることを知るべし。

 これは国会図書館蔵「相模州紀行」1807に書かれた総括。後年本草学の大家となる岩崎灌園(1786-1842)が若いころ採薬のために旅した記録で、同行した松本慎思というひとの筆記を本人が書写したもの。本草学者(博物学)たちにとって、歴史は専門ではなかったようだが、百聞と一見とのギャップは大きく、「見る処少なし」というのが実感だったようだ。「桑田滄海」とは仙人の眼で悠久の歴史をみれば、大海も何度か桑畑に変った、といういみ。



神奈川新聞の抜き刷り
○ 相の諸勝(*相模国の名所)は雞肋(*つまらぬもの)たるのみ。輦轂(*首都)に接近し都を距つること僅かに百里にして近し。名山大川、世に標する者有ること無く、また関門の譏察も無し。故を以て婦女孺子もみな游ぶを得る。而して壮夫の屑(いさぎよし)とせざるなり。然れどもその地、古昔の覇王、数々都する所にして故墟旧蹤、国史に累載するを以(おも)えば、シ(なまじい)に意に介せざること能わず。(東野遺稿「遊湘紀事」。以下、漢文は読み下し)

 儒学者・安藤東野(1683-1719)はさらに辛口で、ありふれた観光地、大の大人が行くところではない、と一旦は吐き捨てる。ただ歴史研究だけは無視できない。したがって贋物の遺跡や、江の島などの俗化したさまは赦せなかったらしく、お目当ての史跡(江の島建寺の碑)を誰もしらず、そればかりか言葉巧みに割烹茶屋に誘い込まれ、馬鹿馬鹿しい貝細工までうりつけられたことを、さも悔しげに書いてこう結んでいる。「天下孜々としてみな利の為に来たる。何ぞ独り蒼蝿の羶(なまぐさ)きを慕うを悪まんや。鎌倉の古墓、贋はその半ばに居ると雖も、我、将に左袒せんとすなり」。



NHKの人気番組でも紹介(画面は十返舎一九「金草鞋」23編)
○浜尽くれば稲叢村に抵る。茶坊を過ぐるに老嫗有り、客至れば輙わち源義貞が北条氏を伐つ時、大館次郎という者ここに戦死せし事を説く。因つて以て鎌城の地図を售(う)らんと欲す。極めて厭うべし。(川村華陽「湘中紀行」松風舘集所載)

 ただ、この店の鎌倉ガイドを活用した人もいた。遠山伯竜の自筆本「鎌倉紀行桜の嘉佐志」1800(早大図書館蔵)では、「稲村が崎の海辺へ出る所に二軒茶屋と唱ふ茶店あり。この所に憩ひしに茶店のあるじ碇屋喜六といふ者、元弘三年五月廿三日の古戦物語いたし聞かする。ここより鎌倉へ入る者の案内をも業とす」「今日の案内に頼む」。

 極楽寺では「この所の北の方、小山の上に大造り成る五輪の石塔あり、誰人の墓なるや知る者なし。ただ一代の墓と唱ふ由。疑うらくは頼朝卿の墓はこれなるべし、と案内の者語りたり」。これはたぶん忍性の墓なのだろうが、当時の住民には全く知られていなかったことがわかる。遠山は前日も八幡神主「大伴氏の家士」「安兵衛といへる」をやとっているが、頼朝墓のほうは境内より遠見しただけで行かなかった。


 公方府時代の逸名の紀行文「麓のちり」(実践女子大山岸文庫蔵)には、「休らふ宿りは山ノ内のほとりなりしに、前陸奥守憲直・同淡路守憲家、相ともに憐れみ給ふ事、苔の袂には包むべくも侍らず」とみえる。宅間上杉憲直父子は鎌倉公方・足利持氏の寵臣なので、筆者はなんらかの公務をもって厚遇されたらしい。

 太田道灌の謀殺直後、漢詩人・万里集九は、おそらく扇谷上杉定正の客人として、かなりこまかな鎌倉見物をしている1486。また戦国時代の連歌師・宗牧は、旅の途中で天皇奉書を大名に届けるなど、やはり公務のような立場もあって、鎌倉見学では後北条氏の庇護をうけている1544。「旅宿は太守(*北条氏康)より後藤方へ仰せ付けられ、・・・幻庵より多田など案内者とて加へられ・・・何方も覚束なからず」(「東国紀行」)。後藤氏は鎌倉在で仏師も管掌、いまも八幡宮の鳥居前で鎌倉彫を商っていらっしゃるお家柄。

 鎌倉公方の流転により無主の都となった鎌倉は、こうした客人へのもてなしを通じて観光地化していったようだ。とくに後藤氏は職掌上、寺社の来歴から縁起・廃寺にいたるまで知悉していたことだろう。江戸前期に名所記として集大成される鎌倉案内は、戦国時代にはすでに現地ガイドによって、その原型ができていたのかもしれない。


 近江の俳諧師・木明舎白螭というひとは、鎌倉に伝手があった。「鎌くら関氏の何某は、予が母方の少ししるべなるを尋ね、母の文など出しぬれば、絶て久しき音信とて主いたく喜びをなし、朝な夕なの親しみはらからにまさりぬれば、予も渡りに舟のおもひをなし、しばしの宿に仮居して」数日見学に費やしたという(「鎌倉紀行幣袋」)。
 
 木明舎という人はよく知らないが、大磯の鴫立庵主九世・遠藤雉啄(1763−1844)を訪ね、連句などもしているし、旅のとちゅうに出合った公家の一行とも親しくしている。鎌倉関氏は本覚寺に墓がある戦国時代からの旧家だが、先祖は伊勢氏(後北条氏)の一門ともいい、鎌倉時代の御家人関氏、あるいは御内人として絶大な権力をにぎった長崎平氏ともかかわりがあるともいわれる。

 もちろん、伝手がある人ばかりではなかった。江戸時代には「はやり神」というのがあり、たとえば川崎辺りの松の古木が「霊異」をしめしたというと、あっというまに桟敷がたちならび、玉川八景の絵図が刷られ、みやげものまで売られた、などとつたえている(原得斎「松の栞」)。飽きっぽい江戸っ子の心をつなぎとめるには、工夫が必要だったようだ。


 鎌倉市史にのっている扇雀亭陶枝という、おそらく商人が書いた「鎌倉日記」1809には、いくつかユニークな記述がある。「赤橋といへる橋のわきの方に出茶屋」があって、「孔雀を置きて人に見する」。巨福呂坂には「猿茶屋」があり、庭の真ん中に「大きやかなる猿を繋ぎ置きたり」。そこでは「鯵ぬた」というものが名物だったという。陶枝はいまも現存する長谷坂ノ下の「力餅」屋にも立ち寄って、「力餅・力団子といへる有り、これに休みこれを求む」。

 八幡宮では護摩堂に宝物をならべ、拝観料をとって解説していたらしく、裃をきたひとが「細く長やかなる竹を持ち、事知り顔に」説明するのが可笑しい、と書く。いっぽう補陀落寺では、すでに数年前「江戸深川にて補陀落寺開帳有りて、そのころ宝物ども見たればとて、参らずなりぬ」。拝観料を惜しんだのか、説明の長さを気にしたのだろうか。「桜の嘉佐志」によれば、補陀落寺の見学は「鳥目百穴」とあり、大仏胎内六文にくらべても、ここの宝物拝観はだいぶ高かったようだ。


 外国人の観光としては、鎖国前のイギリスの商船長であるセーリス1613とコックス1616の記録が嚆矢とされる。主に大仏の記録であり、抄訳は高徳院のHPにも引用されているが、邦訳は国会図書館のデジタル‐コレクションでも読める(ただしコックスの日記は「大日本史料」12編25巻所引・元和二年八月項)。

 アダムス(三浦按針)の説では、大仏は「テンチェダイ」なる神の巡礼路にあり、毎月美しい娘が供えられ、神と交歓して託宣をのべる、「テンチェダイ」は娘と交わった証拠に鱗のようなものをのこしてゆく、のだそうだ(ジョン・セーリス「日本航海記」)。モンタヌスの日本誌1669には藤沢ふきんに朝鮮を支配したトランガという神の大神殿がみえるが、これは八幡宮のことらしい。ただしモンタヌスは来日しておらず、なんらかの伝聞のようだ。

 やがて日本は鎖国となる。鎖国論を書いたケンペルは出島にあったオランダ商館の江戸参府にまぎれこみ、藤沢のてまえで江の島をのぞんで、こんなふうに書いている1691。「岸より・・・南に向かい、鎌倉と云う流人島あり。・・・皇帝の寵を失いたる高官を配竄するに用いられ、一度この枕に身を寄せたる人は、一生涯をここに託すべし」。これらは西洋人の間にだけひろまった臆説であるらしく、かれは実際の鎌倉をみることなく通りすぎる。ただ路次にある遊行寺で、生き神として崇拝される上人をふしぎそうに眺めただけだった。


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