トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第273号 


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もちださんの鎌倉リポート No.273(2017年6月28日)



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観光のはじまり・2


 江戸期以前に書かれた鎌倉の紀行文はおびただしく存在し、活字になっていないものも多い。とりとめのないものも多いが、どこかに貴重な記述をふくんでいたりする。津村淙庵(1736-1806)というひとが晩年に編んだ叢書「片玉集」には、友達の奥さんが書いたような身近な女性の紀行文も数多く蒐集している。これはRキャンベルさんが新館長をつとめる国文研のHPから検索・閲覧が可能。

 たとえば「身延紀行」1789を書いた佐竹義峯のむすめ邦は、出羽久保田藩の大名の姫。亡父(1749没)には嗣子がなく藩は別の親族がついでいたため、彼女ももはや重い身分ではなかった。彼女は身延・久能山などをたずねるついでに、金沢・鎌倉にたちより、雪ノ下に泊まって八幡宮で宝物を見学、「御家の武運長久を祈り奉り、神人に誂へて」御神楽を奉納している。庶民とおなじような観光コースをたどりながら、御祈祷はやはり豪勢だ。


 「江嶋諸往来紀」を書いたのは鈴木高朗の妻某女。こちらは庶民の楽隠居とみられ、友達数人とあちこちの茶店によって昼間から茶や酒などを楽しみ、ところどころの宿ではとれたての地引網や蟹などの海鮮料理に舌鼓をうっている。「それより宿りに帰る。この主、和田の裔にて頼朝公の感状、并に和田酒盛の盃とて有り。深さ菓子入るる盆程にて、かき合わせ黒塗り金粉にて霞に月・波に兎・岩などの蒔絵したり。この宿にて出だせし魚も、いと鮮(あざら)けし。また酒など酌み交はし、今日過ぎ来し所々など語り合ひつつ、高殿より見わたせば鎌倉の山々悉く見ゆる」。高殿とは道後温泉本館などにあるような楼閣・涼み台のことであろう。

 朝比奈の切り通しでは「これは段々登りなり」と、当時もいまとおなじく階段状になっていた様子を描写する。千代能が「戴く桶の底ぬけて」、つまり頭から水をかぶって悟りを得たという底脱井では、「今もこのわたりにては全て女子の頭に、藁にて作りたる円かなる物を置きて、手のなき桶を載せ水を汲むなり」などと観察している。

 六郷の茶屋では名水・玉川の水で煎れた茶はうまい、などとしているが、玉川とは目の前の六郷川(多摩川)のこと。また行きも帰りも大森で道中薬「和中散」の店によっている。暑気あたりなんかに効くらしいが、旅はまだ卯月。むしろこのばあさん、食べすぎ、呑みすぎだったのかも。


 「江嶋鎌倉日記」1799の伊藤妙臨尼は真宗の俗信徒で、浅草にあった寺から祖師像が諸国を巡遊するのを見送りにでて、そのとちゅう従妹に強引にさそわれ、不意に鎌倉くんだりまで足をのばした。おもに「あをだ(*箯輿。かご)」に乗っての旅だったようだが、鎌倉に真宗の寺は乏しいからか、あまりたのしい記述はない。また農夫が草を刈るのをみても、花を愛でることを知らぬ「心無き業」などとのべており、無駄に年をとった世間知らずの体をあらわにする。

 筆がさえるのは後半、旅のついでに「いにしへ年久しう召し使ひぬる嫗(をうな)の、この辺りの田中といふ所に住みけるを」訪ねた部分。当時は近郊から江戸の武家や商家の女中にでるものもおおかったようだ。「葛飾の記」を書いた河辺惟一の妻つる女は、千葉の市川にすむ乳母の家に庵まで築いて、別荘として花・紅葉の季節にたずねていたという。横浜市の美しが丘ちかくの路傍に、巨大な春日灯篭(写真)がなぜか一基だけ鎮座しているが、これは薩摩藩の江戸屋敷につかえた百姓女がもらってきたものとの伝えがある。都会は田舎に、田舎は都会暮らしにあこがれるのは、いまと一緒らしい。


 「旅のみちくさ」を書いたすみ女は商家の妻だろうか。宿屋でも「具したる人々は肘を枕にて無辜に臥したれど、かかる道にし習はねば、ただ物恐ろしくていも寝ず」といったようす。江の島では「むくつけき男ら、負ひて越えん。肩にかかりね、と近う寄り来るも恐ろし」と、肩渡しの漁師を怖がっている。武相の国境いでは、糸繰りをしていたみすぼらしい茶屋の老婆のもてなしに感動して果物をわけてやったりと、純情なところもみせる。

 鵠沼ふきんの松原(砥上が原)では藁座を借りてきて、松の枝で酒をあたため、「所に合ひたる貝つ物」などを焼き、供の者といまでいうBBQのようなうたげをたのしんだ。道々には高級きのこ松露(しょうろ)が獲れ、「せめて家づとにと便り求め、文書きて遣る」。すみ女の筆は「亀の小島」とか「とをとみ山」など、誰もしらないような場所に割かれ、案内人までやとって見学した鎌倉や金沢についてはほんの一行二行と、あまりにそっけない。絵葉書のような場所よりも、むしろなんでもないような記憶のほうがいとおしい、そんなタイプのひとだったのだろう。


 前回、安藤東野の文章にも「関門の譏察」という下りがあったが、入り鉄砲に出女、といって女性の旅には制約もおおかった。つる女の「葛飾の記」にも別荘の手前に市川の関というのがあって、「傍らなる関守る人の家に、いつも行き来には立ち寄りて、をうなの越えん事をねぎてここを越ゆる」など、その面倒を記してある。熱海へゆくにも根府川の関があった。女性にとっては、場所よりも旅そのものが珍しく、楽しかったのかもしれない。

 文章を書き、それが現在までつたわるような女は、おそらくは代々の武家か裕福な商家といった、いわば「家の女」が多かっただろう。なかには雨が降ったので留守宅に火の心配が無い、と老婆心を綴ったものもある。おおくは時間に余裕のある楽隠居で、友達のほか複数の供・使用人をひきつれて行く例も多い。

 文章に共通するのは文語・擬古文であり歌語であった。もともとが都貴族のことばの真似事だから、「賎が家」とか「賎が女」などという差別用語が多いのも何様といった感じだが、おそらくは有名な歌の先生かなんかに、添削してもらうつもりで書かれたのだろう。手習いの域を脱し、近世女流文士として高く名をなした加賀のちよ女とか荒木田麗子といった者の鎌倉紀行がないのは、ちょっとさびしい気もする。著名なところでは諸九尼の「秋風の記」などに、多少の記述があるばかりだ。



安国論寺
 中河教保という人が書いた「旅のすさび」1785は、和歌の友であった盛幸との二人旅。二人ともかんじんの和歌はうまくないが、十六の井では木庵性瑫の碑文に注目したり、覚園寺の仏像を評論し「殊に十二神の像こめきて、えりなせる威霊の相、あやしきまでに目とまりぬ。あがりての世はいかなる妙手にてかくもあるらん。すべて鎌倉は古仏あまた有り。いづれも刻みなせる工みいふばかりなく、今の世に及ぶべき業とも見えず」などと、ところどころに独自の視点がみられる。称名寺でみいだした仁王は、たしかに鎌倉時代の作だ。

○ 雪の下のよべの仮臥いといぶせく、蚊帳もまばらにや夜一夜蚊のすだき入りて、あなかゆ/\といも寝ず。さらば今宵は巨福呂坂の上なる山陰の宿りに、と問いよる。ここは風いと涼しく、蚊遣り火たつる思ひもなく、殊に見渡しいとよく向ひは鶴が岡の夏木立に山々続き、砌は谷深く見下ろされ山里びたる住居、先づ興あり。・・・(和歌・略)
端居して外の方を見出だしたれば、蛍の二つ三つ谷より昇り来るが、さと風の音づるるに吹き遣られたる光など、目慣れず云はんかたなし。軒端の山は東に当れば、・・・女の童の「鹿はただ籬のもとに」、など聞こゆるも、今来ん秋の気配床しき心地して、・・・。


 「杉田記」1792を書いている大井定恒は無名の町人らしいが、吉野西行庵に西行像を寄進するなど、奇特な文芸マニアだったようだ。杉田の梅林については佐藤一斎「杉田村観梅記」や清水浜臣「杉田日記」(ともに1807)が名文としてしられるが、無名とはいえ大井のものの方が記事としてははやい。

 「杉田村観梅記」では、現地に詩歌を解する善悪居士(清水の記事では「よしあしのおきな」)という名物じいさんがいて、「梅花飯」などの人気料理をふるまっていた。たぶん大井の記事にでてくる「屋ふしかくれの家」のあるじも同一人のようにおもわれる。「まだ馴れぬ人の、かくまで懇ろにもてなし、ものせらるも思ひがけず、前の年々行きける人の歌、短冊に書きし俳諧の句も様々なるを、とうで(*取り出し)つつ見せける」。

 景色ばかりでなく現地人の人柄、それをつたえる詩歌やグルメ情報などの話題性もかかせなかったようだ。残念ながら文人たちの短冊はもとより、満目梅の光景も梅花飯の製法も、いまは伝わっていない。 


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