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もちださんの鎌倉リポート No.274(2017年7月6日)



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観光のはじまり・3


 鎌倉にかんするあるていどまとまった紀行文は、「海道記」「とはずがたり」をはじめ、中世から存在し続けた。都貴族は歌枕以外に、なにを参考に旅をしたのだろうか。現代の観光で必要なものといえば手軽な地図であったりガイドブックであったり情報誌なのだろうし、それもスマホなど便利な検索ツールにとってかわりつつある。

 ただ、検索キーワード以外の話題は、なかなかでてこない。人気情報はコピペ(Copy & paste)ばかりで、残念ながらありふれたもの。マニア向けの情報なんてよほど手の込んだキーワードを打ち込まなければ、まず見つかる可能性はない。独自性が求められる新聞記事や紙の本なんかはよほど面白くなければ売れないし、ありふれたものは無料だから、話題づくりには相当困っていることだろう。


 鎌倉の地誌としてもっとも早くから上梓されたのは、上方の仮名草子作家・中川喜雲(1636-1705)のロング‐セラー「鎌倉物語」(1659初板)。この前後にも「玉舟記」とか「金兼藁」などが編まれているが、それらは写本(稀覯書)に過ぎないし、徳川光圀監修の「新編鎌倉志」1685も一般向けというよりはむしろ、研究者向けの参考書だった。

 これらは旅行記というよりは取材によって「編まれた」ものなのだが、喜雲のような駆け出しの二十代の若者がたった一度や二度訪問しただけで五巻五冊の充実した内容を取材編集しえたのは驚きだ。上方の文芸サークルにはおそらく現代の図書館のような、豊富なレファレンス機能があったと考えざるを得ない。浅井了意の「江戸名所記」1662には川崎にある影向寺(当時は栄興寺)など、爾来江戸人もあまり注目しなかった隠れた名所まで発見・収録している。浅井は江戸滞在経験もある仮名草子界の大ベテランだが、「東海道名所記」には喜雲の処女作「京童」への言及も多く、喜雲の才能にはやくから注目しライバル視していたようだ。


○ 雪の下に泊まり侍るに、主が女(むすめ)琴弾きければ、かく田舎にも心やありけん、優しの事と思ひ覗き見れば、すさまじき顔なればとりあへず、
 つま琴のうち懐かしく覗き見れば 二度びつくりのさても顔かな
○ 亭主跛足(ちんば)なりしが、梅を褒め侍れば笑みてまた、かしま松の枝ぶり見事なるを出だし、これはいかにと云ひければ、
 この松も見事なれどもこれよりも そなたの枝のふりぞおかしき

 「狂歌旅枕」1665は都出身の信武という者の著(未詳)で、挿絵は「鎌倉物語」とおなじく菱川師宣がえがいている。上方文化の特色でえぐい差別用語も連呼しているが、以下「貧乏神」というのはただの毒舌ではなく、浄瑠璃で名高い色男・曽我兄弟の窮乏をかけているのが心憎い。

○ 雨いかう降り侍れば、寂しさのあまりに亭衆呼び出だし、酒など呑み四方山の物語に、「我は伊豆の伊東の者なりしが、子細ありてこの所に住み侍るなり。今の名は曽我の一九郎と申すなり。一樹の蔭の雨宿り、これも御縁ぞかし。江戸へも参る身なれば重ねては必ず訪ぬべし」など云ひければ、
 住み馴れし所にはいづいとふしや 雪の下にて一九郎する
「身代ならぬ」、などと語りければ、
 伊東にはなぜに伊豆して曽我の家を 継ぐも貧乏神の計らひ
主、腹を抱へて、さらばこれにとて、短冊出だしければ、
 昔より今の世までも曽我殿は 貧乏神の氏子とぞ思ふ


 18世紀になると「鎌倉名所記」などというペラペラの携帯用ガイドブックが普及し、だれでも名所を辿ることができるようになった。しろうとや二流の人の書いた紀行文にはその引用も多く、文芸としてはいまいちだ。和歌や俳句も月並みで、単なる地の文の繰り返しや、あるいは気取りすぎて意味の通じない「腰折れ歌」なども多く、奇想天外な句をアラベスクのようにちりばめてゆく立羽不角など名人の紀行とは、まるで較べるべくもない。

○ 朝餉の程、雨少し降る。家主がつれ/\の慰めにとて、見せたる短冊(たにさく)どもの内に、袖子と記せるがあり。その歌
 隔たりし御篠(みすず)高萱(たかがや)折れ伏して 隣間近き雪の朝かな
手も雅びやかに臈たけていとよし。こはここ(*熱海)より五里ばかり奥なる熊坂といふ所の賤の女なりとぞ。早う名には聞きしかど、かうばかりとは思はざりけり。さる片田舎にもかかる女はありけりな。

 これは幕末にかかれた「あたみ日記」の一節だが、たしかに「袖子(*菊池袖子1786-1838)」の和歌は、無名の筆者らの歌より隔絶してうまい。ただし袖子はたんなる「賤の女」ではなく公家や大奥とも交流のあった旧家の女性で、修善寺にあったりっぱな家屋も現存し、調布の白百合女子大に移築され、時折は見学できるという。


 旅日記の行間からは、当時のひとびとの人間関係もうかがえる。太宰春台(38)と安藤東野(35)、山井崑崙(28)の三人旅のばあい、師匠・荻生徂徠の牛門塾において最年長の太宰がいいだしたのが始まり。雨天や病気などを理由に仲間がつぎつぎ脱落する中、このままでは師匠の面前で示しがつかないと考えた太宰は、おれ一人でも行く、といきまいて最年少の崑崙を脅し、こまった崑崙が東野に相談した、というのが真相らしい。

 東野もけっこうなサディストで、これは学術探求のための旅だ、などと演説を打ち、塾の行事には必ず戻る・どんなに疲れても調査を中止しない・楽して馬などに乗るべからず、などと勝手なルールを定めてしまう。甘党で大食漢、うっかり八兵衛を思わせる崑崙が、初日から歩き疲れてひどく遅れ出してしまうのは、「これ飢えなり、病むには非ず」と弁明しているが、最年少者として重い荷物を托されていたから、と推測される。「山生憊(つか)れ、行李を棄てんと欲すること数次」。七里ヶ浜では、ふたりがなおも「璣貝・鉄沙(*砂鉄)」など「行李を半ばす」るほど拾ったため、崑崙はついに中身をすててしまう。

 けっきょく崑崙は貸し馬にのって帰り、罰盃を要求されるが、「先輩方だって、けっきょく塾の行事には間に合わなかったじゃないですか」とやりかえし、三人大いに笑って幕。崑崙の気苦労はもちろん自作の紀行にはみえず、東野の文章により詳しい。


 観光地の俗化が叫ばれて久しい。けれどそれは、江戸時代から言われてきたことだった。薄気味の悪い非公開寺院なんかも、ただ境内を和尚の私宅として利用しているにすぎず、禅の境地をきわめた閑寂な佇まいだの何だのと手前味噌を述べたところで、あるいみ自らの価値を勘違いしたなまくら坊主の、とくべつな自分を強調したい俗物根性にしかみえない。

 観光とはもともと、易経にある「観国之光、利用賓于王」に由来するという。春秋300国のうちに、光(ほまれ)あるところを観察してみよ。その王には徳があるのだから、とどまって客として仕えるがよい、といった意味らしい。「光」とは、ただ風光の美しさとかいうことではないようだ。「風光」の風にも、「お国柄」といったいみがある。

 私たちにとって、観光とは何だろう。観光地それ自体は添えものににすぎず、本質的にはその日その時の自分自身を旅しているのかもしれない。文才のない私たちのようなものにとってはなおのこと、表現することはむずかしい。その人の心になにがひそみ、なにが残るかなんて、ほかの誰にもわからないのだ。


 昔つかっていた机の引き出しを十何年(?)かぶりに片付けてみけたら、見知らぬ箱の中に子供のころにもらった手紙が大量にはいっていた。懐かしいと思う時期もすぎてしまって、ほとんど何も覚えていないけれど、スヌーピーの便箋に明月谷の笛というのは、たしかに読んだ覚えがある。

 これはたぶん16歳くらい。なぜか覚えているのは、江ノ電で寝てしまったまったく別の遊び仲間の、肩にあたった頭の温みだけ。彼女の面影は、欅だか乃木坂だか、テレビにでてくる似たような女の子たちの映像に溶けてしまって、もはや定かではない。

 私たちの生きてた証なんて、結局こんなものしかないのかもしれない。写真とか、ノートとか、きれいさっぱり棄ててしまったもののほうがもっとずっと多いのだ。・・・さて、いまの若者たちはどんな思い出を刻んでいるのだろうか。


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