トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第275号 


▲もちださんトップへ戻る

もちださんの鎌倉リポート No.275(2017年9月5日)



No.274
No.276



観光のはじまり・4


 化粧坂下、景清窟の前にある古碑「向陽庵大悲堂碑記」1765。江戸時代の文人・伊東藍田(本名・亀年1734-1809)がたてたもので、二三の字句が異なるものの、ほぼおなじ碑文が「藍田先生文集」初稿巻七にのっている。これによれば「壬午(*1762)の秋、不肖亀年、母氏に従い鎌倉に游ぶ」云々と向陽庵再建の由来がのべられている。ここに棲んだ妙立という流浪の尼を、藍田の母がひどく憐れんだ。すなわち藍田はわが母への孝行のつもりで、再建の募金集めに協力したのだ。

 向陽庵じたい、「景清の娘・人丸が父への孝養のためひらいた」という孝行伝説をもつ。史家からのさかしらな批判にそなえ、藍田は史籍に確証がないからといって土地の伝説や孝行を信じる庶民の心情を無にするなと、強く弁明している。また、碑面も河原保寿(1714-1783)という当代一流の書家にたのんだ。ざんねんながら窟の上にあった寺は海蔵寺に合併されすでにないが、碑じたいも貴重な史蹟というべきだろう。


 古碑といえば建長寺には二十八世肯山聞悟選「建長興国禅寺碑銘」という鎌倉時代の碑があったというが、江戸前期にはすでに文献にのみ、その長大な碑文を伝えるだけとなっていた。「梅花無尽蔵」には「霊樹の碑(残碑)」というのもみえている。中河教保「旅のすさび」1785には十六の井に「黄檗不庵禅師(*木庵性瑫1611-1684か)の碑銘」があったという。

 安藤東野の「遊湘紀事」1717には、能見堂で「蘚(こけ)を剥がして井上翁の碑を読む。広沢(*細井広沢1658-1736)が書する所、楷正愛すべし」という記述があるが、この「井上翁」はだれをさすのか、未詳。堂跡に現存する碑では金沢八景根元地碑1803がもっとも古いようだ。伊予吉田の藩医・本間游清が貴人の供をして書き残した「多幸日記」1829に、金沢八景の料亭東屋で「近頃、詩仏老人(*大窪詩仏1767-1837)の書ける石ぶみを建てたり。楷書いとうるはし」とあるのは、いま琵琶島にある「金沢総宜楼に題す」という佐羽淡斎の詩碑のことらしい。ただこれも幕末の大火で東屋が瀬戸から洲崎(いまの憲法碑のところ)へ移転したのちの、復元品であるという。こうしてみると、隠滅してしまった古碑は少なくないものと思われる。



「金玉を鏤め」た「祠堂」は残っていない
 大名のなかには、鎌倉に惚れ込んで墓をたてるものもいた。光明寺に墓を建てた磐城平藩主・内藤義概(1649-1685)は国宝の当麻絵巻(国宝館委託)を奉納した恩人でもあるが、晩年は小姓あがりの家老・松賀族之助と俳句道楽にふけったとされ、お家騒動にも発展しかけた。光明寺墓地にはさまざまな要人が墓参におとずれ、かの松賀を賛美するごますり随行記(宮正葩「熱海行記」1697)ものこっている。松賀もまた、ここに葬られたらしい。

 また、「玉匣両温泉路記」(原正興1839)には、連枝の同族・日向延岡藩内藤家の江戸屋敷から「墓守当番」として鎌倉光明寺に派遣されたまま、10年間も放置された老武士の悲哀がのっている。この人、寺の裏山に謎の抜け穴があるなど、めずらしい話を著者に語った。お墓といえば本間游清「多幸日記」にも、頼朝墓や隣接する島津・毛利公先祖の墓の造成にかんするいきさつが書かれている。


 近世の文化人にはなんらかのパトロンがいた。先にのべた「狂歌旅枕」の信武には桑名藩主松平定綱、立羽不角には岡山藩主池田綱政、「鎌倉三五記」を編んだ俳諧師・稲津祇空(1663-1733)には紀伊国屋文左衛門・・・。重要なのは、かれらが大名や富豪の文化生活を拝見できる立場にいたことだ。かれらの出版物を通じて、一般庶民もその情報の余沢に預かることができたのだ。

 松平定綱は家康のおいで、長嘯子らとも交友した文化大名。子孫に定信・定知などが知られている。池田綱政の俳号、「備角」名義で出された俳諧紀行「蝿帒」は、題名もあからさまに不角「笠の蝿」の姉妹編を思わせるし、不角周辺の句が多いのもさることながら、なにより版下の独特の字体は不角の筆跡そのものだ。とかく冷酷なイメージがつきまとう大名もまた、代作をつうじて庶民生活の機微や人情の綾を熟知していることを、アピールしたかったのかもしれない。

 大名たちは参勤交代で江戸屋敷に集まったから、とうぜん江戸近郊の観光地である鎌倉や熱海温泉などは、藩士達の共通の話題になったにちがいない。そうした世間話の隅々に、その藩士の品性や教養、藩全体の文化レベルが透けてみえるとすれば、たかが鎌倉紀行にも、藩の名誉がかかってくるのだ。志摩鳥羽藩の地元医師・山田栄祥は若いときに東野・春台の紀行を読んでおり、参勤交代の御供として、はじめて見る江戸を一覧。お役が済むといそいそと藩邸に別れを告げ、久しく夢にまで見た鎌倉へと向かった(東游戯筆1810)。



横大路(幕府政所跡)
 鎌倉地誌の記念碑的な作品、「新編鎌倉志」1685は水戸光圀(1628-1701)の実際の紀行「鎌倉日記」1673をベースに、藩をあげて入念な追加調査や学術考証を加味してまとめあげたもので、「鎌倉捜索記」1677など、調査報告のノートのようなものも残っている。民間から出版された浮世草子のベストセラー「鎌倉物語」と同じレベルでは満足できず、伝説の真偽、寺の宝物ひとつひとつまで捜索・吟味しようとしたのが光圀らしい。

 藩士のなかには鎌倉に骨をうずめた者もあり、智岸寺やぐらに墓が残る人見卜幽軒(1599-1670)は、黄門に歴史や朱子学を吹き込んだ張本人であるらしい。武蔵七党の人見(小野)氏といえば楠正成の赤坂城に挑んでまっさきに死んだ名誉の老武者・人見光行(1261-1333)がいるが、子孫かどうかは不明。ちなみに嗣子・懋(ぼう)斎(1638-1696)の墓石に彫られた詳細な伝記には、あの「格さん」こと安積覚(1656-1738)の署名が読める。

 水戸家の連枝である讃岐高松藩松平家でも、藩医福原如貫名義の上府紀行「東行記」1766のなかの一巻に、鎌倉紀行が挿入されている。ときおり登場する架空の人物・報謝坊に仮託して朱子学的なばかげた忠孝講釈を展開、室鳩巣の弟子・植木金の識語までのせているので、たんなる田舎医者の私的な著述ではないだろう。同藩からは同時期、天才児・平賀源内なども輩出しているが、福原との接点はあきらかではない。 


 熱海市図書館のHPにのっている藤井彰民「熱海記行」は、徳島藩主蜂須賀斉昌の正室・井伊穠姫〈1792-1820〉の没後、藩の儒官がその七回忌に生前の記録(1814)を再編集したもの。どのような病があったのか、穠姫(23)はみずから湯治を願い出て、江戸藩邸から伊豆箱根への行き帰りに江の島・鎌倉・金沢を見学。「多幸日記」など類書にもみられるように、お忍びといっても侍医などをふくめ、五十人あまりの供がついた。ただほとんどが警固や幹事役の男で、侍女は「三崎・滝尾・花野」の三名にすぎない。

 姫は時折輿を出て砂浜をあるき、貝を拾ったりトンボ返りをして遊ぶ村の子供たちに目をとめては、「これを愛し、鵞目を賜ふ」。なんてことない記述ながら、早世した姫に子は無かった。夫・斉昌(33)はこの回想記が書かれた翌年、将軍が押し付けてきた養子を受け入れ、藩を継がせる。側室はいたものの、その後もなぜか65で死ぬまで、実子はなかった。じつは祖父も曽祖父もそれぞれ養子で、蜂須賀の血統はつとに絶えていた。

 「熱海日録」1767を記した人見黍は尾張藩に仕えた。「初島は天然の野花、瀟洒にして翫ずべし。江の島は富家園中の花、培養にして過度、淫らなる媚の態有り」「況やまた都人壮遊の地にして、才子の輩、言腐記爛たり」などと湿りがちな感想を書いているが、ここでも江戸藩邸に見送った二人の若様が死んで、やがて血筋がとだえてしまった。本文そのものは言うにたらなくても、よくよく調べてみるといろんな悲哀がみえてくる。


 江の島の村の子供達が、観光客に銭を投げてもらい、磯に潜ってひろうという芸当は、諸書にみえている。おそらく隠していた別の銭を出して素早さを演出したのだろう。貝原益軒の「壬申紀行」1692には、鎌倉でおおくの漁船が当時の名物「生なる鰹、夥しく持ち運ぶ」さまを目撃している。逆に八景の料亭の野菜などは「皆、江戸より運送」していたという(多幸日記)。

 また、佐倉藩の藩医・鏑木胤禄は、腰越あたりの磯で漁師をまねてタコをとったと記す(「あつうみの日記」1836)。タコといえば低カロリーでタウリンも多く、成人病の予防にいいらしいが、当時は女の大好物とされていたようだ。水戸藩士・高橋克庵の「南遊紀行」1852には、西十里(未詳)の某寺の厨房にタコを発見、精進生活を装う和尚に妻帯を白状させるはなしがみえている。

 「東行記」の作者はかつて鎌倉に60〜70日滞在して、300種あまりの貝を拾ったという。「昔より月日貝(*西日本に多い)の一種のみ、この浜になしと云う。その外は無量の貝あり。長谷観音の前に貝座あり。・・・能き土産物なり」。そういえばほんの幼いころ、鵠沼の親類から手作りの標本をもらって分解・おもちゃにしてしまった記憶があるのだが、まだ拾えるのかは、不明。


No.274
No.276