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もちださんの鎌倉リポート No.276(2017年9月12日)



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観光のはじまり・5


 江の島では江戸後期、すでに富士見亭のような展望茶屋もできていたが、当時は磯辺でたべるグルメもいたようだ。「岩屋に行く道は海辺の岩、畳を敷きたるごとく、・・・東都の侠客処々に立ち休らひ、蜑を海底に探らせ鮑・海老の類ひを取り得ては、そのまま岩を俎板とし、貝売るを庖丁として、新鮮に拵えを催す。絶景と云い納涼と云い、この上もなき楽しみなり」(中津の某「東遊日記」1856)。

 金沢八景では、江戸から石橋某という「黄金持ちたる人来たり。見給ふ如く東屋を広く作り、瀬戸の橋に続きたる石垣さへ作り替へた」という(「玉匣両温泉路記」)。さらには、対岸の瀬ヶ崎に一覧亭(四望亭)という絶景の展望所までつくり、舟遊びの客が渡ってにぎわったらしい。これはなかなか好評だったらしく、幕末の秀才・斎藤竹堂も「推しはかるに金沢第一の観と為すも可なり」と絶賛、本間游清の「多幸日記」には「金沢の八つの眺めみな目の前なり。先々能見堂を面白き処と定めたれども、今見ればここには及ぶべくもあらず」とある。舟遊びでは鯛などの投網漁を見学、特別な干潟に案内し、希少な貝を拾うなどのプランだったようだ。


 一方で山本正臣「熱海紀行」1807には「音に聞きつる所なるに、来てみれば入り江に石垣を築き、所々橋を渡し、えもいはぬ工みを尽くして、おのづからならぬ景色、いとうるさし」「おこの仕業、見るもこちたし」などと、観光化を酷評するものもいた。

 現存する弁天島と同様、横浜にのこる汽車道のような石垣の土手が瀬戸橋にも築かれ、なかば堤防のように入り海をへだてていた。宋の景勝地・杭州西湖にある蘇堤をイメージしたもので、長大な土堤は奈良の水上池(平城京松林苑)など古代庭園にもよくある意匠だ。ただ近世以前には土堤はなく、蜘蛛の巣橋といって、トラスのような特殊な技法で木材をくみあわせ、長い橋を渡していたとの説もある。

 近世の土堤は新田開発にもまつわるらしく、「成る程この入り海の分、田地に成りなば一万石もあらんかと思はる」(東行記)。埋め立て事業は姫島堤防によってさらに加速。その代償に奪われたのは風光だけではなかった。東屋は戦後しばらくして廃業、かの一覧亭も、戦前の「かねさは物語」1938の段階では既に忘れられており、やがて湾の埋め立てとともに当該の丘も削平されてしまった。いくつかの釣り宿も、もうこの辺りではなく東京湾の沖釣りが中心であるらしい。附近では野島の潮干狩り、八景島あたりをめぐる屋形船クルーズがのこるくらいだ。



大山道にのこる旧旅館「綿屋」(横浜市・明治)
 現在の鎌倉には江戸時代からの老舗旅館などはのこっていないが、八景の千代本、江の島の恵比寿屋をはじめ、箱根八湯などにはいまも名をのこす名店がいくつか紀行文や案内書、浮世絵等に確認できる。鎌倉の旧市内でふるい旅籠屋の面影をのこすのは大正震災後に再建された長谷の対僊閣くらいだろうか。近郊から来る者にとってはもはや無用なのだが、宿泊の需要がなくなったわけではなく、検索してみるとおしゃれなゲストハウスのようなものも少なくない。大きなホテルなどではなく、現地で実際に住んでるひとのように滞在したい人も増えているのだろう。

 かつて東屋などの大旅館や一部の寺などからは、独自のガイド‐マップや縁起などの摺り物・小冊子が出されたようだ。文川堂野逸という俳人の「東海道紀行」(東大洒竹文庫)には、「鎌倉十二窟の内、天人の窟」云々という記事があるが、地元でだされたいくつかの冊子には、こんなレアな独自情報がかかれたものもあったのかもしれない。

 この項の(2)でふれた大森の「和中散」の店では、その後観光客をあてこんで「梅屋敷」をつくった。生麦では珍しい白い熊を見せる「熊茶屋」なるものもでき、江戸参府中のシーボルトも足を止めた1826。なにより鶴見では幕府の保護により「真鶴・鍋鶴など集まり、田の面に餌ばみするを茶店に休らひ見る」光景が幕末までのこっていた(著者未詳「上方行道中日記」1843)。



なぞの絵文字も(国会図書館デジタル‐コレクション)
 「胡散なる宿に泊りぬ。座敷の体を見るに、引き切り枕の垢染みたるは、幾人の頭にや契りけん。障子は有りながら紙は漸やう二三間ならではなし。壁に何者の書きけん、ヘマムシヨ入道、××、目も鼻もなき清玄、口からよだれを垂らす体。生煮へ飯の歯に付いてにちや/\、洗濯箸の生乾き、椀に鰯の匂ひが残りて、むつとする。唐辛子は雷が鳴つても菜に付けず、この宿のしげが頬(つら)に不審紙*は附けたし。まだ死なぬに聖霊御座を出だしたる。蚊屋に穴が明きて、内より外が格別ましなり。雪隠には蜘の巣が張り塞いでうるさし。水鉢にはぼうふり虫が湧いて手水も遣はれぬは、旅人は金魚かと思ふか。寝ると消すとが一時の行燈、姨(かか)が寝言に干肴二枚据えた小言。護摩の灰を相宿させて旅人を裸にするは亭主のよもや知らぬ事に有るまじと、ありとあらゆるむだ書きに腹筋を撚ぢりぬ」(不角「笠の蝿」1701)。

 *「不審紙」とは書物につける付箋のことで、たぶん女中がいくら読んでも(呼んでも)出てこないということらしい。近世には、宿屋の主人も、客の酒の相手をしたり、かなり忙しかったらしい。へんな匂いの瓜を出した挙句、「かあちゃんがイタズラしたんだろう」などと客にからかわれ、夫婦喧嘩になったなんて話もある。現代のもてなしは、こうしたクレームの歴史を積み重ねた上にあるのだ。


 武芸としては、毎年江戸城から八幡宮を往復する遠乗り競争もあり、小姓らが城中の御馬の足を試した。妙臨尼の「はこね路日記」1801には、沿道の者が見物がてら、防火桶などをだして馬のための給水を手伝ったりしていたさまがみえる。小袋坂の茶店には駒繋ぎが設置され、タイムをしるした冊子もあったという(多幸日記)。鎌倉遠乗については駒井乗邨「鶯宿雑記」巻80所収のほか、いくつかの記録がある。

 幕末の紀行には吉田松陰をはじめ、開国にともなう諸藩士の、江戸湾防衛の視察・偵察がらみの旅が目立つ。台場・丁打ち場などの、きなくさい記述が交じってゆくのだ。菅野白華らと旅した斎藤竹堂は「山の上に砲台など置いても、かえって海までの分、射程が損なわれる」と指摘(観梅紀行1843)。河井継之助はそうして放棄された腰越の台場から、ただ「好風景」を楽しんだ(塵壷1859)。また、熱海での湯治を許された異人の黒船に同乗、監視のため滞在し、非番の日に十国峠あたりまでちゃっかり観光したなんて人の記録もある(藤原葛満「あたみ日記」1865)。

 ペリー来航の前年、浦賀などを視察した水戸藩士・高橋克庵の「南遊紀行」1852には、鎌倉坂ノ下・星の井にあった仙鳥尼(?-1802)の家がでてくる。「安西氏の祖母なり。この地に遊ぶ者、必ず訪う」。仙鳥は近世における鎌倉屈指の女流俳人で、はじめ大町の祇園神主に俳句をまなび、やがて大磯の鴫立庵などの門下として寄稿した。いっぽうで夫と息子にさきだたれ、廻送や醤油醸造などを家業とした旧家を嫁と切り盛りしたという。追悼集「卯の花くもり」は市のHPにもでている。



むかしイノダ珈琲にいたインコ(京都)
 古記録はほとんど注釈もなく、読みにくい古文・漢文であったり、草書・悪筆・辞書にない異体字・・・と、素人にはなかなかとっつきにくいものではある。しかしそれだけに、調べることは無数にあり、かえっていろんな新発見がひそんでいる。著者は江戸の人ばかりではなく、さまざまな地方と鎌倉とのかかわりもうかがえる。ここで紹介したのはほんのさわりにすぎないが、ほぼWEB上で公開されている資料ばかりだ。研究は意外と進んでないから、興味のある方はチャレンジしてみる価値はあると思う。

 もちろん古典だけが歴史なのではない。わたしたちがなにげに撮った写真、たまたま家庭用レコーダーに残された番組アーカイブなどでさえ、一時代の貴重な資料となる。【学術・論評】以上の内容については著作権法に触れてしまうため、ネットなどで委しく紹介することは出来ないが、市販のDVDでもないかぎり、局の倉庫に死蔵されたまま、なかなか一般の目に触れることは少ない。あるいみ、古文書より希少価値があるのかもしれない。



(録画画面より)
 正直さんぽ、モヤさま、ブラタモリ、ロケみつ、あっぱれ・・・と人気町歩き番組をあげればきりがないが、その元祖といえば「DAISUKI !」(日本テレビ系・1991〜2000)だろう。旧来の旅番組とことなり、ゆるい編集で多くの「余白」をうつしだす手法は当時、画期的なものだった。シュガー‐べイブのテーマ曲とともに、CMまえのDm7/Dm7onG・・・CM7・・・大好き♡・・・というフレーズをおぼえているひとも多いかも。

 たとえば江の島の回では、名物「しらす丼」なんてまだなくて、スタンドのうどんを大騒ぎしてたべていた。出演者の衣装や髪型、たまたま映っていた観光客の姿にも、その時代が感じられる。取り毀される直前の昔の灯台や売店のようす、地元の店があまった刺身でトンビに餌付けしていたようすなども映っていた。戦前まではトンビではなく、大量の鳩が岩屋にすんでいた。江戸時代には、その鳩に「団子をやれと茶店より勧む」(上方行道中日記1843)。街の歴史なんてあっというまに忘れられ、私たちの記憶も知らず知らずのうちに変形してしまう。ちょっとまえの映像にすら、気づかされることは少なくないのだ。


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