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もちださんの鎌倉リポート No.277(2017年9月20日)



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梅花無尽蔵・1


 万里集九(漆桶梅庵1428-?)の詩文集「梅花無尽蔵」は七巻600丁を越す大部のもので、鎌倉紀行はそのうち巻二に所載するほんの9丁ほどだ。

 万里は相国寺の詩僧で、応仁の乱を避けて近江・美濃などに流浪。文明十七年1485、太田道灌(1432-1486)に招かれて江戸城に入り、梅花無尽蔵と号する庵まで作ってもらった〈梅を愛する万里はすでに美濃の庵にも同じ名をつけていた〉。翌年七月にその道灌が主君・扇谷定正(1443-1494)によって暗殺される。万里は三回忌まで江戸に足止めされ、心敬の甥・祥林院季揚宗賛などと交流を重ねたが、やがて脱出。敵方に道灌の遺児を見舞っているから、鎌倉を歴覧した当時は扇谷定正に接待がてら、ていよく軟禁されていたのではないかという見方もある。


 当時の外交文書は漢文で、格調の高い正式なものは、明僧と自在に会話し詩文を交わした五山の禅僧が、秘書として武家にかわって書くことも多かった。万里も職業柄、さすがに暗殺事件の仔細やあけすけな批判については書きのこせなかったようだが、「冤血は端無くも九霄に濺ぎ」「忠を泥土に棄て、節の濁・清を混じたり」などと詠んだ他のいくつかの詩文からも、亡き道灌を慕い、定正を厭う気持だけは、ひしひしと窺われる。

 原本は漢文。国会図書館のデジタル‐コレクション(写本・右)では読みにくいとおもわれるので、ここでは鎌倉関連の部分を訓み下しの釈文にあらため、概要の紹介とさせていただく。わかりづらい箇所は次回の末尾に少々補注をつけたが、よりくわしい解説は専門家による学術書を参照していただきたい(・・・たぶん鎌倉の中央図書館にもあったと思う)。



 上倉日乗・詩、并びに叙 (辺郡より鎌倉に入ること、みな上倉と曰う。日乗は即ち日記なり。詳しくは山谷文集(*黄庭堅の著)に見ゆ)

文明龍集丙午十有八年(*1486)、小春(*10月)廿三日乙未、蓐に食して京子(*次男・百里等京)を携え、暁の鞍に跨がりて武野・江戸城を出づ。品河に至りて東方漸く明け、薄暮に鎌倉の山内に入る。雪下・扇谷を歴り過ぎ、鞍を建徳精舎(*廃寺)に解く。主人の老禅師、紅燭を焼いて接待す。共に盃を二三傾け、頗る酩酊し或は云く、「江戸より鎌倉に至るは九十里」、或は云く、「百余里」と。精舎の開山の祖、廼(すなわ)ち覚智和尚。営祖は廼ち上杉匠作、贋釣斎と号す(*修理大夫定正)。余、途中の詩を作(な)すに云く、
 武野・城西に鶏柏残り、僉(みな)は云う九十里を行くは難しと。
 早梅は未だ遇わず紅葉有り、薄暮に門を敲いて馬鞍を卸す。


二十有四日丙申。昧早、亀谷山寿福の禅刹に入る。殿の裡に釈迦・文普の三尊を拝し、開山千光禅師(*栄西)の法雨塔を扣く(*訪ねる)。鎮守句(白)山の霊祠に詣で、帰雲洞を穿つ。羽人(*仙人)の村に遊ぶが如く一箇の僧にも逢わず、ただ老力(*人夫)の手を背にして(*拝むこともなく)阿弥と唱うるが有るのみ。
人丸石を山巓に望み、六郎の五輪を路傍に指して、遂に長谷の観音の古道場を見る。相去ること数百歩にして、両つの山の間、銅の大仏に逢う。仏の長は七八丈、腹の中の空洞、応に数百人を容るべし。背後に穴有り、鞋を脱いで腹に入る。僉(みな)云く、「この中に往々博奕の者、白昼に五白を呼ばわるの処なり」。堂宇無くして露座突兀たり。
歩を由井の浜、華表(*鳥居)の下に移す。厥(そ)の両柱の大きさ三囲み。浜畔に両つ鷗、一つ鴉あり。魚を争い煙波の間に翺翔す。余謂く、「鷗は以(おも)うに愈々閑かに、鴉は以うに愈々貪る、と。今は則ち然らず。生を天に稟くる者、争わざるは無きなり」と。この浜を号けて七里と為す。


千度小路(*若宮大路)を透り、鶴岡の八幡宮に謁す。高門飛橋・回廊曲檻、玉を雕(きざ)み金を鏤め、巍然としてその昔に減ぜず。階除に踏まずの石有り。石紋の亀鶴、凡眼にはこれを視ることを得ず。
晩の間、宗猷玉隠和尚(*玉隠英璵)を明月庵の下に問う。一室飄然として床に長物無し。福山(*巨福山、建長寺のこと)の舜琴浦・性心渓、二丈速(まね)かざるに来たり。二丈は則ち福山の社中(*詩社)、秉筆の徒なり。聯句の詩、五十韻。燭を吹いて枕に就き、朝日の三竿を知らず。八幡・大仏の二詩を作すに云く、
 千度壇(*段葛)は七里浜に連なり、崢エたる華表は龍の鱗を奪う。
 回廊六十間の霊地、風も條(えだ)を鳴らさぬ宗廟の神。
   八幡宮。
 兄(そのかみ)は南都に在り弟は東福、憐れむべし仏も亦た去ぬる年の貧。
 宝趺は塵に蝕し堂宇無く、腹痩せて纔かに数百人を容る。
   銅大仏(洛の諺に云く、南都の半仏雲狐、雲狐の半仏東福と)。


二十有五日丁酉。瑞鹿山円覚禅寺に遊ぶ。先づ新殿に入り香を焼き仏に礼す。開山の祖・仏光禅師(宋慶元府の人。姓は許氏・母は陳氏。在宋の号は祖元禅師)、宿龍の丈室を見る(宿龍は開山塔の額にこれを掲ぐ)。長廊を透り過ごして山腹に小院有り。破れたる屋数間、二童子が午誦すること琅々たり。その一つは観音品、その一つは周弼(*唐の詩人)の「三体絶句」。余、墻壁を隔てこれを聴き、頎然として俄に去ること忍びず。昔、坡老(*蘇東坡)が白鶴峰の下に在りて遷居の夕べ、隣児の読書の声を聴き、愛して(*詩を)作ること有り。忽ち懐(こころ)に往来す。
午後、鐘楼に攀り、鯨杵数声を試む。叔悦座元(*叔悦禅懌)の帰源軒(*傑翁是英の塔所)を扣きて、茶を一中に点ず。また明月庵に帰り、困じて睡る。一たび覚むるの後、漫(そぞ)ろに鴻鐘の詩を作す。
 由来鐘には捨身の文有り、那箇(*いずれ)の伽梨(*天竺の背仏王)も意を着けて聞け。
 数杵の声の中に幻法を非し、楼々殿々湧きて雲を穿たん。


二十有六戊戌。斎(とき*食事)罷りて京子は則ち鞍馬、余は則ち徒歩。水浜に臨んで舟を借り絵島(或は江島に作る)の大弁功徳天に謁す。風浪渺茫の外、遥かに士峰を望む。意気揚々、自ら羽化登仙の者かと疑う。燭を持ちて金胎の両つの洞に入るに、乾満の二抹(珠)、及び白蛇の形の二寸許りなるを岩腹に印せるを見る。実に蜿々として飛動するが如し。洞の中は半里程、暗然としてその奥を究むること能わず。
帰棹を鼓(はげま)して前岸に登るに、建徳の東衲、馬に乗り樽を携えて余を浜畔の廬に迎う。余をして鞍馬に跨らしめ、京子と共に轡を並べ、昏黒に建徳へ帰る。湯浴みして労を忘れ、漫(そぞ)ろに絵島の詩を作すに云く、
 護法青衣の功徳天、金胎両洞に白蛇は眠る。
 浪花は未だ暮れず渺茫の色、棹郎を賺(すか)し得て閑かに船を鼓しむ。
【*以下、次号】


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