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もちださんの鎌倉リポート No.278(2017年9月26日)



No.277



梅花無尽蔵・2


二十有七己亥。瀬戸六浦の浜を槃桓(*徘徊)す。遺廟の前に昔時、諸老が作る所の詩杉(板)を掛けたり。辺傍点劃眠らず、新たにこれを鐫(ほ)るが如きなり。漸く進みて金沢の称名律寺の間に入る。西湖梅以て未だ開かず、遺恨と為す。珠簾・猫児・支竺の群書の目録(称名寺の水晶の簾・唐の猫児の孫、一天時教、及び群書は蓋し先代の貯えなり)、介する者無くは目に触ること能わず(寺、件々の物を秘し容易に人にこれを看せしむること無きなり)。東室に律漢、案(つくえ)に対して巻を写すが有るも、遂に面を揚げず。吁(ああ)、律に縛するの伝、但だ法を守るのみ。
金沢を出づること七八里許り、最高頂に攀る。則ち山々水々、面々の佳致、昔画師金岡が絶倒し筆を擲うつの処と、名は有れども基い無し。但だその名も甚だ佳ろしからず、相伝えて濃見堂と曰うなり。


帰途、東相府(*将軍家)、及び列侯の旧栖の地を歴遍し、高声に黍離の章(*周都の荒廃を嘆く詩。「詩経」)を歌うこと再三にして去る。浄妍(妙)の古刹を尋ぬれば、唯だ一房にして数衲、庭の背に小さく泉石を置き江山の逸興を発(おこ)す。また廃寺を扣きて面(*扇面か)に須菩提を風し(鎌倉の諺に云く、風、須菩提に吹く、と)、弾琴松を看る(諺に琴弾松と云う)。脚倦みて慈恩の塔婆の旧礎には登らず。
六浦・西湖梅・画師擲筆峰の三首を作す。
 遺廟の松は六浦の橋を囲み、朗吟して繋馬石に腰を支う。
 帰鴉飛んで翠屏の面を破り、剰つさえ風声を被むり晩潮を添う。
   (六浦の廟前に古柏の屈槃する有り)。
 前朝なる金沢の古招提、遊ぶこと十年遅く臍を噬むと雖も、
 梅に西湖有れば枝を指して拝す。未だ開かざるの遺恨に翠禽啼いたり。
  金沢(西湖梅は先代の主、南舶に属し杭州西湖の梅を移して栽えたり。故にかくと名づく)。
 登々匍匐し路は高きを挙(攀)るも、景集まりて大成し労を忘却す。
 秀水奇山は雲も裹まず、画師は絶倒し秋(うれい)の毫を擲うつ。
   (画師擲筆の峰)。


二十有八庚子。開静(*起床のしらせ)の刻、巨福山建長禅寺に入る。新住時(持)の山門を指すを瞻れば、豹文甫が阿難の職に居たり。余、上堂の法席に臨んで数疏を読むを聴く。洛社江湖の疏には、略ぼ「富士千秋の雪を捧げ、狂奴七里灘に釣る」の対有り。六七枚(*一本傍書「恐らく誤字有らん」)の駆鳥(*鳥追い童の謂か)が四匝り五匝りの大念珠を提げ、痛く四来の笠簷(*修行者)を打着す。その声は両(雨)点の棒より甚だしく、猶左右金吾(*衛府・検非違使)の不祥を禁(いまし)むるが如し。天津の橋の欄に憩い、霊樹の碑文を窺う。歴観すること正統・天源・向上・実際・伝灯等の数十院、華厳の塔に攀る。
易安禅翁(*竺雲顕騰)を龍花院に扣くも、翁は上方の前(煎)点に赴きて面ずること能わず。言を雛僧に留どめて、聞く所の霊地を探る。山門の左辺を抹過し、崇山に入りて開山・西来院大覚師祖(*蘭渓道隆)の円鑑塔に面拝す。庭の柏(*ビャクシン。ここのは蘭渓の舎利樹といわれた)森然として今に恙無し。笠を崇山の下、華光庵の舜琴浦の扉に卸し、雲子の午鉢す。玉隠(*玉隠英璵)・実際の諸老、期せず来たり。聯句の詩五十韻、遂に点燭に及び、諸老皆帰る。
余、枕に就き一たび覚むる中、天津橋の詩を作すに云く、
 左は古塔をフして右には残碑、霓(にじ)の様なる天津は澗崖に横たう。
 老樹は鵑を蔵(かく)すも冬は度らず、都べて一声に驚起する詩(うた)無し。
 


二十有九辛丑。霧を払い浄智を山隈に望む。街頭に出でて玉雲の祖塔(*建長寺10世一山一寧塔所)を拝す。午漏未だ乾かず、荏柄の天満宮に詣づ。梁上に兵燼の余痕有り。砌の梅は百余株、斧斤の厄を免れたり。
瑞泉の古刹を尋ね、断崖数十丈を攀り一覧亭の所在を認むるに、只だ残礎縦横にして亭子は存ぜず。枝茂り林深く、四面の風致十が一もこれを望むこと能わず。遠くは則ち富士の半巓、近くは鶴岡の左股、僅かに蜘蛛の網の底に掛かるのみ。国師行道の宝地、四衆も輻輳(*殺到)の跡を絶ち、紫苔荒れて黄葉積もり、一木もこれを支うべき公案無し。吁(ああ)監院の懶うきか、寺産の薄きか、抑もそもまた山霊の清境を秘したるか、未だ識り易しと為さず。謹んで一覧亭の詩を作すに云く、
 東驢の素念は別に鞭ずるに非じ、一覧亭の西には富士の煙。 
 残礎は苔荒れて黄葉積り、蛛糸の底に国師の禅有り。
【*上倉日乗の項、終り】


 日記ぶぶんはここでぷっつりと途切れ、建長寺僧におくった水仙や菊をうたった日付不明の詩文などであいまいに終っている。文中、いくつかの語釈について触れておくと、23日の「建徳精舎・贋釣斎」は扇谷定正の私寺で、贋釣とは聖人が針をつけずに釣をしても魚(賢者)がおのずから寄ってくるという故事。鎌倉での場所はわかっていないが、下糟屋の大慈寺がその後身とする説がある。その大慈寺開山とも伝える覚智和尚(?-1366)は一本傍書に「月山希一」とあり、建長寺回春院・玉山徳璇の弟子らしい。

24日の「人丸石」は人丸塚(いま安養院に移設)と六郎望夫石(いま逸欠)の混同かもしれない。「五白」は唐ではやった白黒五枚のサイコロ賭博のことらしく、ここは李白「梁園吟」などの詩句を引いて、ふつうの盤双六を婉曲に言ったのだろう。「雲狐」は京都の高台寺ふきんにあった「雲居寺」の大仏1124で、「百練抄」などによれば銅八丈と、鎌倉と同程度のものだったらしいが、いつまであったかなど、詳細は不明。東福寺のものは木造五丈(実高約7m)で明治初年に手首を残し、焼失した。

 25日、円覚寺の項にでてくる帰源庵主・叔悦禅懌(149世。?-1535)は、のちに自身の塔所・松嶺院(不閑軒)ができ、今も残っている。叔悦は太田一族で、前述した下糟屋の大慈寺などを再興して道灌を追善したという。周巌と称し、道灌の叔父ないし実弟とする説もあるが、生没年は道灌より若くみえるため、叔父説にはやや無理がある。


 27日「六浦の廟」は一本の傍書に「金沢修理大夫崇顕の廟」とある。崇顕は貞顕のことなのだが、位置関係からしてこれは瀬戸神社で、古柏も八木のひとつ、いまも切り株が伝わる蛇ビャクシンだろう。現在瀬戸神社に貞顕は祭られていないが、東勝寺で玉砕後、御霊として併祀された一時期があったのかもしれない。「琴弾松」は小町の琴弾橋上方にあったとされ、道筋からすると「廃寺」は東勝寺跡でもおかしくない。「慈恩の塔婆」は1418年の詩板がつたわる大町花ヶ谷の慈恩寺跡であろう(レポ119参照)。

 28日の建長寺のくだりにはツッコミ所がおおい。「華厳塔」はかつて境内の奥へのぼる旧道、河村瑞賢墓付近にあり、「天津橋」は庭園の池のうしろに懸かっていたもの。庭園付近は江戸期に大きく改修されたため、もはや渓谷の面影はないが、名前だけはのこっている。義堂のころに再興された橋1368には多くの見物人があつまり、左右に偈などが飾られたことが、「日工集(空華日用工夫略集)」巻一にみえている。「霊樹之碑文」は未詳。池のほとりの影向の松にまつわる断碑があったようだ。ホトトギスの季節外れの歌は、亡国を予兆するとされた。

 竺雲顕騰と明月院の玉隠英璵(1432-1524)とは、生前の道灌が江戸城静勝軒に掲げた詩板でも合作したなじみの高僧(建長寺162・164世)なのだが、龍花院についてはよくわからない。現在塔頭として残るのは西来・玉雲・正統(*14世高峰顕日塔所)・天源庵(*13世南浦紹明)のみで、「向上(*17世太古世源)・実際(*73世久庵僧可)・伝灯(*11世西澗子曇)」「華光庵(*53世鈍夫全快)」など、公方期以前にたてられた廃院については、「鎌倉五山記」にみえる。


 実際庵の久庵僧可(1340-1417/9)は(越後上杉)山内憲顕の孫。観応以後、一族の浮沈をうけて長く入明し、かつては東国無双の智識とされていた。「日工集」によると、久庵の証言として「近年大明、日本僧の行脚を禁じ、みな天界寺に集在せしめ、妄りに出入りすること、及び俗書等を看ることを許さず」などといっている1377。日本僧の中には明に拉致・生涯抑留されたものもいたが、大胆にも言葉巧みに洪武帝に取り入り、帰朝後の室町政権でも重きをなした、絶海中津のような猛者もいた。

 五山の漢文は実用が証明されたものだったため、しきたりの多い貴族社会からの批判をうけずに済んだ。多民族国家だった唐代とはことなり、明代には言語体系も排他的要素を増して内向きとなり、破格や俗語も多くなる。外交には難解な文書をあやつる詩僧の育成がかかせなくなっていた。万里をめぐる高僧や権力者、あるいは雪舟ら留学文化人との交遊は、当時の日本には数少ない、高度な言語能力のうえになりたっていたようだ。

 まだまだ、考えることは無数にあるが、いまはこのへんが限度。興味をもった方はいろいろと調べてみてほしい。


No.277