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もちださんの鎌倉リポート No.279(2017年11月10日)



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多摩川紀行・1


 代々の鎌倉公方は、鎌倉が籠城に向かないことをさとって、度々府中・高安寺城に出陣した。高安寺は鎌倉街道が町田(小山田庄)から多摩ニュータウン(貝取・関戸)をへて多摩川(分倍河原)をわたり、府中にあった武蔵国府にいたるその直前に位置する。

 旧甲州街道からみると寺は平坦だが、鎌倉街道は河岸段丘の下をとおっていて、写真の崖が旧土塁や空堀をほうふつとさせる。今は家が建て込んでいるものの、寺の傍らの緑道からは南方の山々がみわたせるし、むかしは多摩川の河原が見下ろせたはず。敵が分倍河原の渡し場にかかったところで邀撃(ようげき)しようという体なのだろう。


 寺は藤原秀郷の草創、足利尊氏(高氏)の中興とされ、もと見性寺という草堂だったのを、武蔵の国の安国寺に定めたのだという。鎮守の秀郷稲荷や本堂正面の「等持院(尊氏尊号)」「高安護国禅寺(高氏の字を採ったという)」の扁額に、そのいわれをみることができる。弁慶が義経の赦免をいのり写経をした硯の井戸などもあるが、詳しい由来は不明。開山塔あたりにふるい印塔などの破片があるほか、中世に遡る明快な遺物はないようだ。尊氏の五輪塔は新品で、つやつやしている。

 山門は近代以降のもので正面の仁王もいまいちだが、背面の地蔵・脱衣婆の像は、鬼や水子をあしらった賽の河原のジオラマが念入りに刻まれた珍品。墓地には江戸時代、旅籠をいとなんだ地元の風流人、野村瓜州の墓があり、裏面に太田南畝の書いた墓碑銘がうっすらきざまれている。のちにも触れるように、南畝には「調布日記」など、多摩川流域の水路などを公務で長期間視察したさいつづった、詳細な旅の記録がのこっている。墓地のしきりにならべられた水子地蔵の風車が、音もなく一斉に回りつづけているのは、川がちかいからかもしれない。


 高安寺の東、JR府中本町駅ちかくの善明寺には、鎌倉時代最大の鉄仏がつたわる。撮影禁止なので、和尚立会いのもと、例の如く堂外からの雰囲気写真でご了承いただきたい。実は中央右にみえる慶派風の、鉄製としてはかなり精緻な小ぶりの阿弥陀立像が本体で、でかい座像のほうはいわゆる「鞘仏」、容器であったらしい。そういわれてみると、名物「大船観音もなか」の皮のような、凹凸のない大味な造りとなっている。基本、鉄仏は前後はぎあわせの鋳型をもちいるため、あわせ目のズレがいっそう、「モナカ感」を高めている。

 江戸期までこの像は、競馬場・刑務所につぐ府中のランドマーク、大国魂神社の堂に置かれていた。加藤雀庵の「雨の花」1844に、近世のようすが記述されている。雀庵らは当時、「杉田の梅」とならび称された「小金井の桜」(玉川上水)をみるため、雨をおして武蔵野へとおもむいた。土地の話では、この仏はもともと「恋が窪」というところにあり、畠山重忠(1164-1205)が愛する遊女(夙妻太夫)の為につくった、といわれていたそうだ。

○ 義経公平家追討の時、重忠も西国出陣せると聞き、この遊女大いに悲しみ、「従がはん」と云へるを重忠やう/\止どめ置きしに、仇なる者有りて「重忠討ち死にせし」と、かの遊女に告ぐ。女、誠と思ひ悲しみ、終に自殺す。重忠、帰国してこの事を聞き、遊女菩提の為とて、この阿弥陀を鋳させ一宇の堂を建立す。



奥の本堂にも金色の丈六仏が
 その恋が窪阿弥陀坂道成寺は、やがて廃絶。野中にうちすてられていたこの巨像を、府中の力じまんの若者たちが、酒の興に乗じてはこんできたのだとか。「恋が窪」とは、いまの西国分寺の、日立研究所があるあたり。遊女が身を投げたところを「姿見の池」といい、供養塚を傾城の松(一葉の松)などと伝えていた(現存の同名史跡は復元したもの)。

 雀庵は仏像にのこる建長五年1253の銘文から、重忠との関連を否定。国分寺廃堂の旧仏説などをあげている。銘文は鞘仏の胸や膝に陽鋳され、錆びによる傷みが激しいが、およそ次のように解読されてきた。「大勧進念阿弥陀仏明蓮。大工藤原助近。/右志者為過去二親、並行厳新発意、乃至法/界衆生平等利益、奉鋳一丈二尺仏身也。/建長五年癸丑二月十八日丙寅彼岸初日」「・・・藤原氏・・・」。

 仏像は髪の生え際が顕著にM字型になっていたりと、宋風の影響がねづよい鎌倉中期の、おそらく銘文の年代にふさわしい特徴をそなえている。陽鋳だから銘文の追刻はありえないし、そもそも鉄を刻むのは難しい。・・・そうではあっても、重忠伝説は古来ねづよかった。


 畠山重忠ら秩父平氏は、代々武蔵国留守所惣検校職をもっていたという。平安後期には、受領はおもに在京していたため、在地の代官として国務を統括する留守所の権限が増した。ようするに秩父平氏は、律令制度による国衙機能に寄生して勢力を扶植。「頼朝将軍」とは別個の権威を、すでに院政期から獲得していたわけだ。

 留守所惣検校の詳しい職務はわかっていない。先祖は武蔵国の国守・押領使・権守などを歴任し、その信頼と実績が代々の世襲を意味する「職」にむすびついたのはたしかだろう。その武蔵国府の中枢官衙は、現在の大国魂神社境内にあった。ちょっとした復元遺構もあり、境内の「ふるさと館」が出土品を展示するミュージアムになっている。

 各国府には平安京を小さくしたような官衙・府城がおかれ、また関屋や駅屋を兼ねていたため主要な官道が貫いたり隣接するのがふつう。官衙の東には多磨寺という附属寺院もあったようだ。そうした律令時代の造作がどこまでのこっていたかは不明ながら、中世の鎌倉街道もまた、ここを経由した。


 大国魂神社はもともと六所宮とよばれ、本来は国衙にまつられた総社(領内の国幣神社をまとめたもの)であったらしい。やがて家康が社の傍らに狩御殿をいとなんださい、壮大なけやき並木の馬場参道をつくって手厚くまつった。ただ、いつのころか並木には八幡太郎奉納伝説がうまれ、斎藤鶴磯「続武蔵野話」などもその説をとっているし、義家の銅像もたっている。江戸時代、かの「大阪城」大改築には数多くの大名が動員されたはずなのに、すぐに忘れられ、秀吉築城そのまま説が当の大坂城内でも信じ込まれていたのと、ちょっと似ている。

 記憶は作られる。それゆえ私たちはより信頼できる古文献や古記録を捜すひつようがあるのだし、発掘調査などによる実証を待たねばならない。場合によっては名もなき五輪塔の破片でさえも、まったく何もないよりはまし、たしかに中世がそこにあったと、知ることくらいはできる。捨ててしまう寺があるのは残念。立派なコンクリのお堂なんかより、実物ははるかに美しい。



義家の像
 重忠の死後、かれの妻(北条時政娘)とその遺領は足利義兼の長男・義純(1176-1210)にあたえられた。もともと義純には新田氏の妻がおり、そちらの子孫は岩松氏をなのり、畠山の苗字は時政娘・北条氏の子とされる三男泰国がついだ。戦国時代まで栄えた名門「畠山氏」は、その子孫なのだ。ちなみに、足利義兼の正室も北条氏であったから、足利の本家は長男ではなく正室の生んだ三男・義氏が継いでいる。

 また、徳川家康の父祖も、仮冒として新田家の一族、三河守世良田頼氏(?-1272)の子孫を唱えてきた。やがてその系譜に得川義季があることから、家康は徳川に改姓。さらに系譜をつめてゆくと、徳阿弥こと得川親氏なる人物に行き当たる。親氏は若いころ鎌倉公方に敗れ、落魄したさいに遊行寺で得度した。やがて三河に流れつき、還俗して松平氏の婿養子となり、はじめて同姓を名乗った、そんな一代記が作られた。親氏の没年には1361年から1467年と、伝承ごとにブレが大きい。

 京王府中駅ちかくの時宗・称名寺には、かつて多くの板碑があったらしいが、現在は一基のみ、珍宝としてつたえている(非公開)。これは実物の板碑の上に、「応永一四月廿日 / 徳阿弥親氏 / 世良田氏」と不細工に刻んだもので、江戸後期に境内の藪から「発見」され、語り草になってきた。「嘉陵紀行」という本に、そのいきさつが載っている。


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