トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第28号 


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もちださんの鎌倉リポート No.28(2008年4月18日)



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流されびと・1



七里ガ浜付近。
 冬になると空気がさえて、伊豆大島がよくみえる日がある。1156年、保元の乱に敗れた源為朝(1139-1170?)が流され、十余年間すんでいた島だ。

 伊豆の頼朝も、たぶんどこかで見ただろう。あちらでもこちらを見ているような気がしたはずだ。わずか18にして天下に鳴り響いた為朝の名声はなお高く、甥・頼朝(1147-99)はその英雄伝説をにがい思いでかみしめていたにちがいない。流されてなお、為朝が偉大な源氏の伝説であり続けたのは、侍たちがいまなおかれの復活と源氏の再興をいのっていたからだ。頼朝はこの、伯父の暮らす「伝説の島」にみつめられるたび、より大きなことを成し遂げて亡父の汚名をすすごうと、ひそかに焦燥していたのだとおもう。

 摂関家の侍として受領を歴任、武家としての栄華を極めた源氏も、院政時代に遭遇して抑圧を受けるようになる。前九年の役〔1051〜62〕の英雄・源義家(1039-1106)もやがて「非法」の告発を受け、後三年の合戦〔1083〜87〕はただの私闘と切り捨てられるなど、政治的な暗雲のうちに後半生を閉じた。その子・義親(?-1108?)は鎮西の凶賊として院の近臣・平正盛によって討たれた。次の為義(1096-1156)・為朝父子も「九州を虜掠した」などとして謹慎処分1154の憂き目にあった。院政の強大な政治力がはたらいていた。

 鳥羽法皇がしぬと、それまで緊張を保ってきた院政派(後白河天皇)と摂関派(崇徳院皇子)との衝突がおきる(保元の乱)。為朝の兄・義朝(1123-60)だけが単身、院政派にねがえり、みずからの手で源氏を滅ぼすという愚行を演じた。だまされたのだ。もともと平氏を寵する院政派に義朝の居場所などありはしなかった。自身もやがて清盛にやぶれ、惨殺される。殉じる武士もごくわずかになっていた(平治の乱1159)。これが頼朝の父、だった。当時13になる頼朝は逃亡中にとらえられ、池禅尼という女性のとりなしでかろうじて伊豆遠流になっていた。伊豆は代々、伴善男(応天門の変)など多くの有力者がながされた地である。


源義家(「後三年絵巻」より模写)。「同じ源氏と申せども、八幡太郎はおそろしや」と今様にも謳われた。



京都・鳥羽離宮跡にある鳥羽法皇の安楽寿院陵(参考)。周辺は院政の本拠地だった。
 為朝は蟄居中にぐうぜん巻き込まれた保元の乱で、孤軍奮闘のすえ父・為義ら一族とともに敗れ、ひとあしさきに伊豆大島へ流罪になっていた。かれだけが死罪にならなかった理由は謎だ。武勇で知られていたため、国家有事には恩赦して働かせる約束があったためだ、ともいわれる。

 頼朝が生きたわけは、池禅尼(藤原宗子、清盛の継母)のおかげである。池、とは平家歴代の本宅であった六波羅池殿のことで、京都・六波羅蜜寺の西にあった。もともと平忠盛の嫡子は禅尼のうんだ頼盛(池殿1131-1186)であり、庶兄の清盛(母・祇園女御の妹)は白河法皇のおとしだねともいわれ、当初は「高平太」とあだ名され贖銅(罰金)の前科もある粗暴な人物だった。そんな出生の疑惑もあってか、禅尼はこころよくおもわなかったらしい。のちのちのことであるが、むすこ頼盛は平家の都落ちにも従わず、公然と源氏の味方をした。

 為朝の伝説がひろく九州に伝わっているのは、かれが摂家の侍だったからであり、現地の摂家派の武士たちは初めからかれ(源氏)を頼っていた。臼杵石仏や富貴の大堂など、中央文化の影響がつよまるのはむしろ義親・為朝の時代からだ。「九州を虜掠した乱暴者(アウトロー)だった」というのは当時の院政側にたった見方に過ぎない。かれらを討った平氏が滅べば、そんな公式見解などなんの意味もなくなったのだろう。

 伝説ではまた、為朝は大島から八丈島、さらに沖縄にわたり、その息子が初代の王(舜天王1187即位)になったという。義経にも似たような伝説があり、こちらは北海道から蝦夷千島、モンゴルに渡ったことになっている。琉球伝説をつくったのはおそらく九州からの流民などに違いないが、不思議なのは現地の人々もこれを信じたということだ。江戸時代には八丈小島から為朝を刻んだ御神体が発見されたり、「中山世譜(1650)」など琉球の史書に始祖としてのっているのをみて、むしろ本土の人が衝撃を受ける番になった。


臼杵石仏群(大分県)。院政期から造りつづけられた。創建の「真野長者」は瀬戸内海に分布する伝説上の人物。



足利・鑁阿寺。今川了俊によれば、開基・足利義兼(頼朝の寵臣)はじつは為朝の子であるという(レポ17)。
 流罪となった高貴な人間がとくべつな能力をもって蘇生するという神話は、日本人には身近なものだ。流され王、貴種流離譚、英雄仮死説話などという。菅原道真や光源氏はいうまでもないし、黄泉下りをしたイザナギ、スサノヲ、オオクニヌシ、・・・熊襲に下ったニニギ、わだつみの鱗の宮に下ったヤマサチ、一時敗北して熊野に下った神武天皇、ヤマトタケルなど、軸になる神話のほぼすべてがこの「型」にぞくする。

 神話のパターンには世界共通のものがあるようだ。古代エジプトにはオシリス神の冥界下りが信じられており、これを模して神輿が各地を回遊したともいう。南フランスではマグダラのマリアがながれてきたと伝わる。イランではいまもホメイニ師のような英雄が死ぬと、棺をはげしく担ぎまわして魂を再生させるという風習がある。ある文化においては、王殺し、という風習に発展するばあいもあるという。弱った酋長を殺せば、若くあたらしい王がかならずや村につよいちからを呼び寄せるのだという。バンジージャンプ(本来は成人儀礼)なども、若者がいったん人工的な仮死状態を通過することで大人の能力を得るとされる。

 太陽が一晩死んでは甦り、あるいは一冬衰弱して春を迎えるように、英雄は悲劇の死を経てうまれかわると考えられてきた。非業の死はお約束のできごとなのである。中世の民衆向け唱導説話集『神道集』にのっている「熊野の本地」では、インドのお妃が嫉妬によってむごたらしい死を遂げる。首のない王妃はそれでも王子に乳をやりつづけた。だから王子はめでたく熊野の神になった、という。

 もともと支離滅裂な作り話が多いことで知られる『神道集』であるが、これは描写がとりわけグロテスクなうえに結末も唐突で、王子のなにがおめでたいのか、ちょっと理解しにくい。私たちの常識では、母をころした他の陰険な后妃たちにみっちり復讐し、王妃の無念を晴らしてこそ、すっきり「物語」が閉じると思うのだけれど、どうもそういうことではないらしい。悲劇は予想だにしない果報につながっており、未解決の悲しみが深ければ深いほど、大きな喜びの種になっていると、固く信じられていたのだ。


鎌倉高校前から。江ノ島のむこう、伊豆の山におちる日。



六角の井。すぐちかくからは和賀江島のながめがすばらしい。
 和賀江島のちかくにある六角の井は、別名矢の根の井といわれ、為朝がここまで伊豆大島から射たとする巨大な鏃(やじり)なるものをまつっている。水が涸れないように、という民間信仰が為朝伝説にむすびついたものらしい。

 わずか13のときに九州に下り、三年のうちに平定したという為朝の矢は「船いくさの遠矢」(義朝)と評された強弓で、保元の乱では一発の矢で二人を倒したり、敵の太ももをつらぬいて前後の鞍の輪に串刺しにしたという。また義朝の兜の星をけずって後ろの寺の門に突き刺さった、その証拠の矢傷が宝荘厳院(京都・白河六勝寺の子院、廃寺)の方立にのこっているとされた。さらに八丈島で追討にあったときには、官軍の船を一発で貫通し沈没させた、などと神話化がエスカレートしている。それにしても大島から鎌倉までは、約60kmある。


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