トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第280号 


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もちださんの鎌倉リポート No.280(2017年11月14日)



No.279
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多摩川紀行・2



永安寺
 国会図書館デジタルコレクション(ndl)におさめられた絵巻物「玉川紀行」1813。書いたのは江戸幕府の書物奉行・石井盛時(1778-1859)というひとで、当時の大学者・屋代弘賢(1758-1841)にたのまれて、地元・大蔵村(世田谷区)にちかい「うなね川」に蛍見物の案内をしたさいの記録だ。

 世田谷の大蔵というと砧緑地や静嘉堂文庫の奥、多摩川の河岸段丘に開けたとりわけ閑静な地区。大蔵・成城界隈は戦前にはまだ郡部で、農村時代の旧家のおもかげも、まだ微妙に残っている。石井氏のルーツには謎が多く、源氏とか平家とか、その他様々な説があり、盛時は平氏説をとったらしい。先祖は吉良・後北条に仕えたとも。南畝らの記録によれば、このへんには江戸時代、長崎平氏とか関氏の末とかをなのる者がすくなくなかったようだ。絵巻にもえがかれた永安寺という寺に一族の墓が残っていて、寺の下手にはいまも石井姓が多い。



閑静な宅地・旧仙川水車用水路
 その永安寺とはずばり、鎌倉二階堂瑞泉寺のほとりにあった永安寺を、鎌倉公方足利持氏(1398-1439)の遺臣・清仙上人がうつしたものだという1490。永安寺はもともと持氏の祖父、「永安寺殿」こと公方氏満の廟堂1398が発展したもの。持氏は永享の乱にやぶれ、府中高安寺から海老名道場などをへて、かつて鎌倉にあったこの寺にのがれて謹慎、ゆるされず自決した。近年、開山堂長春殿なるものがつくられたが、ようするに「長春院殿」とは持氏のことなのだ。

 とはいえ、公方関連の物が残されているわけでもない。曹洞宗になった府中高安寺と同様、ここもまた近世にいったん衰微して天台宗の寺にかわった。長春殿のなかみはがらんとしている。鎌倉永安寺から移植したという「龍華樹」という桜は、いわゆる普賢象のことだ。屋代弘賢は古本のガレージ‐セールで偶々、石井盛時の祖父が書いた詩歌集をみつけ、「宇治にも勝る」「うなね川の蛍」との記述につよく惹かれた。それゆえ、蛍以外については、ふれていない。

 周囲にはいまも仙川・野川・かつての六郷用水(跡)ほか、名も知れぬ多くの溝川がながれているが、「風土記稿」によれば宇奈根川とは多摩川の旧流路の跡であったらしい。河川敷ちかい宇奈根地区の農業用水として長年もちいられてきた結果、いまはコンクリで固めた溝川で、半ば埋められ緑道になっているのがそれという。近年まで静嘉堂文庫脇の岡本公園でホタルの再生に腐心していたようだが、一度失われた環境をとりもどすのはむずかしい・・・。


 大蔵にはもうひとつ、平安末期に鎌倉の悪源太(頼朝の兄・義平)に討たれた、源義賢(?-1155)の館があったとの伝えがある。いわゆる木曽義仲の父だ。永安寺の東に秩父平氏出身の江戸氏が勧請したという鎮守氷川神社があり、一説に義賢・義仲親子を併座し、子孫をなのる大石氏が奉祀していたとか。石段の左を永安寺裏側に登ってゆく峯筋の先を殿山といって、そこに義賢の屋敷があったという。

 また、神社から数軒目の民家の庭に、「源義賢朝臣墳」1837という根府川石の碑がみえる。これが義賢の墓といわれるもので、発掘・整備した旧家の末裔が祀ってきたらしい。江戸時代には畑作による塚の破壊がすすんだ反面、考古趣味もひろがりつつあった。

 石碑は木曽の末裔を自認し、先祖の顕彰に心血をそそいだ幕府の医師・葦原検校という者がたてた。刀などが出土し、古墳時代の小規模な古墳を思わせる伝承もあるが、検校は古瀬戸の壷を譲ってもらったというから、それが義賢の骨壷かどうかはともかく、中世に塚として利用された証左ともかんがえられよう。また江戸時代にはかの石井家も、べつの古墳からでた甕を保管していたらしい(武蔵名勝図会)。



「玉川紀行」(国会図書館蔵)より作成
 いっぱんに「秩父(埼玉県)」重隆の婿となった源義賢は帯刀先生、また「多胡(群馬県)」の先生ともいわれ、北関東にゆかりが深い。大蔵館は埼玉の武蔵嵐山にあったという説が有力であるのだが、こちらの大蔵でも秩父平氏の末裔・江戸氏が伝承の形成に関係しているのが注意される。

 義賢は義朝(兄)の子、悪源太に敗れてしまうのだが、ともに殺された秩父重隆は、悪源太側についた秩父太郎重弘(畠山重忠の祖父)の弟にあたる。嵐山の大蔵館のちかくには、重弘方の菅谷館もあった。この合戦には、秩父一族の家督相続が深くからんでおり、やがて重隆の子孫(河越氏)の没落によって、いったんの決着をむかえる。畠山重忠滅亡後も、名門・秩父平氏はしだいに勢力を盛り返し、鎌倉公方府時代には河越・江戸・豊島・高麗など、主要な残存勢力が「平一揆」とよばれる連合軍を組んだ。

 よくしられているのは、関東執事・畠山(源)国清に属し、「太平記」の英雄・新田義興を謀殺した悪役として名高い、江戸遠江守。ただ国清の没落後、上杉憲顕(1306-1368)が観応の擾乱の咎をゆるされて公方府に復帰するや、上杉家が関東管領の職を独占。平一揆は河越館に蜂起して大敗を喫してしまう1368。江戸氏はまた大田道灌に江戸を追われ、大蔵に隣接した喜多見郷にのがれ、菩提寺(慶元寺)をうつし喜多見氏をなのるなど、この地に定着し密接に関わったことが知られている。喜多見陣屋は江戸中期1689の改易まで存続した。・・・



府中高安寺の額
 さて、話は持氏のことにもどるが、「鎌倉大草紙」ではなぜか中巻が欠巻になっていて、永享の乱1438についての記事は失われている。1423年、持氏は結城城に出陣、小栗城を攻める。府中高安寺に帰陣。翌年、高安寺炎上により鎌倉に還御。奥州より叔父・稲村御所こと満直が上府して永安寺(鎌倉)に滞在、対面する・・・。

 「永享記」によれば、一色直兼・宅間上杉憲直ら、これらの合戦で活躍した寵臣が増長、管領山内憲実を持氏に讒言した。山内も公方の悪口を京都の義教将軍に逐次注進、対立が沸点に達し、ついに京方が持氏追討の綸旨を獲得したらしい。憲実は勢力地・越後にちかい上州に逃げ、持氏は高安寺に着陣。留守の三浦氏、京へ寝返り鎌倉を襲う。京方の軍勢が相州にせまり、公方は海老名道場(有鹿神社裏)へ移座。かわって憲実が府中分倍河原にせまる。

 持氏は降伏を決意して鎌倉永安寺に迎えられ、いったん金沢称名寺で落飾、恭順の意をしめす。このあいだに一色・宅間らは激戦のすえ自害、海老名ら多くの与党も六浦や山内、扇谷などで続々と切腹した。「結城戦場物語」によれば、鎌倉中が無差別に放火され女子供も殺されたという。ついに永安寺を囲まれた持氏は、叔父・満貞(篠川御所)ら「宗徒の大名三十余人」とともに自殺。女たちが籠る三重塔にも放火された。息子・義久(賢王丸)は報国寺で死に、春王・安王、永寿王(成氏)らはいずこへか逃れた。



持氏と永安寺
 千葉県佐原市の国立歴史民俗博物館が所管する国重要文化財「結城合戦絵詞」の、最後の方にでてくる「切腹する」この人物は、公方持氏であるとされる。注目はうっすら残る桐の衣紋で、これは「鎌倉年中行事」にも書かれているように、公方のしるしなのだ。「絵詞」は不完全な断簡を誤って組み合わせたもので、本来は絵巻の冒頭ちかくにあったらしい。

 現在の配列ではあたかも結城城が落城し、結城氏が切腹している場面にしかみえない。ただこの絵巻は各種軍記物語の内、「鎌倉殿物語」1488と題する稀覯本にもとづいており、本来はもっと詞書も長く、冒頭には結城合戦のプロローグ(発端)として、若君の父・持氏が亡んだ永享の乱から説き起こしている。ほんらいの詞書きに該当するぶぶんを引用してみよう(読み下し)。

○ 去る程に、終に御所中を責められければ、永享十一年(己未)二月十日(の卯尅)、持氏御腹召されけり。御供の人々、見王丸(*義久)殿を始めとして卅余人、同じく自害をせられけり。爰に哀れを留どめしは、御台を始め奉り、夥くの女房達、陽安寺(*永安寺)の塔の三重の内に籠り給ひしを、下より火を付けて焼き殺し奉るこそ、先代未聞の有り様なれ。



天保6年鈴木虎吉写本・明和5年伊勢貞丈本(ndl)
 「絵詞」に残存する詞書は「鎌倉殿物語」にかなり一致している。たとえば女に化けて逃げようとした春王安王が捕縛される場面。「若君にてはましまさず」と乳母が必死に抗弁するも、「とかちんはうにあり」といって捕らえられてしまうのだが、「チンポウ」をおちんちんのことだと解釈する胡乱(うろん)な学者もいた。漢文表記の「鎌倉殿物語」によれば「咎、陳方に有り」で、これは当時の裁判用語で「(下手な言い訳で)かえってボロをだした」といういみ。こうした細部にわたる語句の一致からも、ほんらい「絵詞」は「鎌倉殿物語」にもとづいていたと推定できる。

 「鎌倉殿物語」の後半は、死刑にのぞむ幼い兄弟を時衆の僧が教化、続いて拷問のはてに舌を噛み切った乳母の、極楽往生が強調されている。ほんらいこの絵巻も、おそらくは敗北者供養に定評のある時宗の、布教目的の絵解き物として作成されたのではないだろうか。鎌倉公方が京の将軍を賤しみ、代々謀叛の志があったとはふるくからいわれていた。義満や義教は独裁者として忌み嫌われていたし、義教は還俗した和尚で、しかも籤引きでえらばれた。ただ、東北・関東の平定にいそしんだ公方たちが、京都攻撃を具現化するような段階にあったとは到底おもえない。公方府の滅亡は、むしろ公方と管領との未熟な人間関係、私怨の要素がおおきかった。

 衣紋の五三桐は、江戸時代の転写本には明瞭で、かつてはもっと鮮やかに残っていたものと思われる。国会図書館(web)や国立博物館(web)などの各種模本を見比べてみると、持氏の顔を猛悪な武者絵のように描いたり、フット岩尾のように描いたりしており、そのへんの比較もおもしろい。


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