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もちださんの鎌倉リポート No.281(2017年11月18日)



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多摩川紀行・3


 東急多摩川線(旧目蒲線)に矢口渡という駅があるが、「太平記」の英雄・新田義興(1331-1358)が謀殺された矢口の渡しにまつわる伝承地は、すこし上流側の下丸子・武蔵新田駅周辺にかけて分布する。鵜の木光明寺の池は蛇行していたかつての多摩川の旧河道といわれ、暗殺にかかわり、やがて神霊のはなった二筋の矢に射抜かれて死んだ船頭・頓兵衛伝説の地蔵が線路のむこうにあるなど、地理はだいぶかわっているらしい。

 光明寺池はざんねんながら、ヤクザの家にあるような高い鉄板に囲まれ、航空写真いがいにみることはできない。ただしこの寺には、鎌倉公方基氏の執事・畠山国清に内通したまま、うまうまと義興を誘い出し、謀殺を主導したあげく、最期は雷に打たれ落馬し狂死した、江戸遠江守尭寛の荒墓とつたえるものがある。本堂の右、上墓(うわんぱか)と呼ぶ高台に区画された、鐘楼のわき。塚はもともといくつかあって、本来の荒墓はすでに崩されたほうの塚であったともいう。また下写真、奥にみえる木立のところにも柵で囲んだ、塚らしきものがある。


 附近はもともと古墳群だったらしい。中世には塚として利用し、おびただしい板碑がたてられた。また近世には両墓制といって、埋葬は下の墓でおこない、やがて選ばれた旧家だけが墓碑や遺骨を上の墓に「改葬する」風習があった。そうすれば追葬が増えても下の墓を拡げれば済み、先祖代々の霊地である上の墓を過度な攪乱から守ることができる。

 この塚の板碑群を発見したのは江戸のマルチ学者・太田南畝。「山の上に鐘楼あり。傍らに古墳多し。青き石の碑にて、四五百年来の年号あるもの累々と重ねあげたり」(調布日記1809.1.13付)「鐘楼の脇の山に上りて、積み重ねたる青き碑を閲するに、年号見ゆるは稀にして、半ば破裂して全からず。この寺むかし真言宗にてありし時の石碑なりといふ」(1.15付)。

 「さきに鵜の木村光明寺にて、青石の古碑多く山のごとく積み上げたるを見し。内に法号・年号の文字の見ゆるは留どめ置きて、或は細かに砕け、または梵字・蓮華花瓶の形の見えて文字も定かに見えざるをば、この地に埋めてひとつの塚と成し置かばやと思ひ、・・・今日人夫を雇ひ、多くの古碑を撰み分かち・・・五十三片を得たり。その余の断碑数百片を深さ五尺ばかりの穴を掘りてこれを埋め、上に玉垣を周らして芝を伏せ、かの五十三片を重ねて中に一つの石を建つ。《断碑与残碣、片々砕為塵、聊反虆埋土、長埋寂寞浜》。背に、《文化六年己巳暮春南畝》、と彫り置きたり」(3.19付)。



灰塚
 南畝がみずからの詩を刻んだこの新しい塚は、はやくに失われてしまった。板碑の一部は掘り返され、どこかにまだ保管されているという。環8の拡幅などで儲けた寺は、石畳を彫刻したモダン庭園で墓地を一面現代風に改装。保存された古墳の頂部にちらばった、わずかな古塔の断片だけが、かつての「荒墓」の記憶をとどめている(上写真)。

 板碑出土の塚はまだいくつかあって、山門ちかくの千鳥町交差点をわたった原田アパートのうらに、灰塚がある。塀が巡っているので近づけないが、盆栽置き場のむこうに切り株から育った椎の大木(神木)があり、高さ1m程度の塚の上にお稲荷さんがみえる。神体の石牌のわきには、いくつか板碑の破片が転がしてある。ここは義興の遺体を「荼毘にした灰塚」、あるいは雷神になった義興が焼き払った場所の灰をあつめて築いたともいう。

 久が原方面へ少し行って稲荷神社のある路地をのぼり、「いまいずみ保育園」のちかくに「おしゃもじ様」がまつってある。この裏にも義興「入定」の塚(大桜塚)があり、出土の板碑が祠に活けてあるそうだ。住宅に囲まれ、どこの庭かもわからず、航空写真いがいに確かめるすべがない。「入定」のいわれもよくわからず、かつてはここにも神木の大桜があったらしい。ただ、区の史跡調査などによるとこれらの板碑は義興の殺害以前の年号をふくむので、直接義興に関連するものではなさそう。



おしゃもじ様
 義興の墓は新田神社としてまつられたものが有力だが、家臣がひそかに首を隠した塚とか、別の場所へ逃げてから心静かに自害したとか、そんな伝説は無数にあったようだ。そもそも「矢口の渡し」自体、府中ちかい稲城市矢野口が本当で、大田区矢口は死体が流れ着いた場所にすぎないとの説、あるいは上野国矢口などとする説まであり、かなりあいまい。ただ、確実に舟を沈めるつもりなら、下流域でないときびしいだろう。

 このあたりで臨場感をたかめているのは、さきにも述べたように、多摩川の旧河道跡にそった頓兵衛地蔵や妙蓮塚三体地蔵、新田神社の義興塚、家臣の塚とされる十寄(騎)宮などだ。三体地蔵は、義興らの自刃に時を稼ぐため、沈む舟からとびおり、水底を対岸へ泳ぎ渡って敵陣に斬り込んだ結果、塚に葬られなかった残る三人の勇者の霊を、妙蓮という尼がゆめまくらにみて供養したもの、という。頓兵衛地蔵は一説に、暗殺に利用された事を悔いた船頭じしんが、義興のために供養したものだとも、いう。

 重要なのは旧河道のなごり「古川堤」や「矢口沼」がまだ明瞭だった時期に伝説ができたことくらいで、地蔵以前にはちいさな古塚のようなものがあったのかもしれない。いずれにせよ、吉岡里帆さんのCMの、可愛いどん兵衛きつねのようなものがいるはずもなく、どこにもあるような、期待はずれの石地蔵が数体、あるだけだ(下写真)。



地蔵の半身は風化で溶けている
 義興の塚は商店街のはずれにある新田神社本殿のすぐうしろ(下の写真・下段)。塚の正面は河川敷だったため、義興をまつる同神社は背面につくったという。この塚は古墳の可能性もあるやや大きなもので、多摩川に沈んだ義興の舟と鎧とを埋めたともいう。祟りがあるとされ、いまも立ち入りが禁じられているが、舟というのは舟形杉という枯株がかつて墳頂に突き刺さっていたからという。また塚の竹は源氏の「旗竹」とされ、雷の音とともに爆竹のように割れたとか。

 境内の表の方はむしろ明るい。義興と少将の局というお姫様の、顔出しパネルまである。暗殺にからんだもうひとりのワル、竹沢右京亮がまず貴族の美少女を養女として世話し、義興を籠絡しようとたくらんだが、心優しい少将の局はむしろ義興に身の危険を告げ、哀れみずからは殺されてしまう。・・・というわけで、新田神社は現在「縁結び」「恋愛成就」を前面に押し出しているのだ。

 新田神社のHPには、そのほか周辺遺跡の紹介や、破魔矢の由来にちなんだ「神霊矢口渡」(原作・平賀源内1728-1780)のショート‐アニメなども掲載されている。アニメのなかで性悪の頓兵衛は、その矢に首を貫かれて死ぬ。


 義興塚のまえにたつ「矢口新田神君之碑」1746は、水戸徳川の分家で奥州守山二万石の小藩主、松平大学頭頼寛(1703-1763)がつくらせ、みずから篆額を書している。本文は一部かけてしまっているが、服部南郭(レポ248参照)の撰で松下烏石(1699-1779)の書。光圀の血をひく頼寛はなかなかの趣味人だったとみえ、家康の伝記「大三川志※」などのほか、本格的な園芸解説書「菊経国字解」を刊行したことでしられる。そういえば、平賀源内も、讃岐の出だから水戸家とのゆかりがないでもない。
(※ ちなみに「大三川志」では、徳川の先祖満義・政義らは同族の新田義貞に属し、のち親季・有親・親氏(徳阿弥)らは公方持氏に味方して室町将軍と対立、ついに落魄・沈淪したとの説をとっている)。

 碑文の内容は太平記の物語と賛辞を漢文表記したものにすぎないが、とくに義興を「神君」とたたえているのが興味深い。ゲリラ戦で一時は鎌倉急襲に成功したものの、実際には観応の擾乱で尊氏・基氏ラインと激しく対立し、当時はまだ足利直義派だった上杉(越後山内)憲顕らによる、強力な支援を受けてのものだった。義興の快進撃はそれにとどまり、齢半ばにも満たずして死んだ。神君家康のような者とは違い、その生涯にはただ、底知れぬ悲劇があっただけだ。

 「太平記」は数多くの殉死や玉砕を蒐集し、その滅私奉公をたたえているが、評価基準として、そこにいちいち古代中国の儒教的故事が引用されており、これが朱子学思想の教科書であったことを気づかされる。「平家物語」と「太平記」のちがいは、英雄の死が個人のためのものであったか、組織のためのものだったかだ。


 中世の神話物語を解体することは、日本文化にしみついた外来思想を透視することにもなる。朱子学のもつ強烈な国粋主義、尽忠報国の思想は、武家の支配理念として藩校などで徹底的に摺りこまれたばかりでなく、近世には歌舞伎芝居などを通じて百姓・町人・ヤクザにまで、任侠の気風をねづかせた。

 里人にとって、義興はいわゆるたたり神、素朴な御霊であり、その悲劇ゆえに自分たちと親しく等価な者とうつっていただけだ。よくある義民、義賊のようなものにすぎなかったのかもしれない。これが国粋教育による国家の英雄、特攻・玉砕のお手本にまでまつりあげられたのは、明治・大正の文化人の教養に、依然として【儒学・朱子学】が染み付いていたからにほかならない。松陰にせよ竜馬にせよ、英雄になるには「若くして死ななければならなかった」。

 全アジア、とりわけ中国大陸にも「通用する」絶対正義を実現するには、朱子学が必要だと信じ込まれた。戦前のばかの多くが漢詩などを書き散らし、聖人気取りでのぼせあがっていたのも、【国際思想】という思い込み、自己催眠にとらわれていたからだ。「亜細亜のために、死なう」。天皇、それも吉野の山中に、とうの昔に朽ち果てていった南朝の亡霊を言葉たくみに利用しながら、文化人たちは他人を「英雄」に仕立て「自己犠牲」を強いる自分自身に、狂おしいまでに酔いしれていた。


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