トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第282号 


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もちださんの鎌倉リポート No.282(2017年12月4日)



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死者の谷



永安寺跡
 鎌倉公方足利基氏の廟所・瑞泉寺は錦屏山と称し、附近にも紅葉谷などの地名があってふるくから紅葉の名所だったようだ。もっとも海辺にちかい鎌倉は、盆地や山間地にくらべたら色付きも悪く、また、長年園芸種をえりすぐった京都などの庭園とはくらべるべくもない。

 現在「一覧亭」にはのぼれないため、その背後にある「奥津城やぐら」「首やぐら」へは天園ハイキングコースを迂回してたどるひつようがある。惣門わきにある登り口のあたりが、公方氏満の廟所で、公方持氏が切腹した永安寺の跡(レポ280)。ただし永安寺跡の碑は個人の庭にあり、一般にはみることができない。たまたまいた近くの住民(外国人)にきいてみたが、もちろん要領をえなかった。モニュメント? エピグラフ? インスクリプション・・・もうわかんねえ。



両側が崖の岩根道
 「北条奥津城やぐら群」「北条首やぐら群」は、瑞泉寺側やその裏面(番場ヶ谷)側の尾根筋に集中する。正規のコースから10mていどはなれた北端の小群を、とくに「首やぐら」といっている。他より多くの塔片が散乱するのがいかにも「それ」らしい。「瑞泉寺山内・北条家御一門御廟所」などとする江戸後期のちいさな道標がいくつか散在していて、かつてはもっと縦横に見学コースが開けていたらしいが、多くは断片化した廃道になっている。むかしは燃料として柴を刈ったりしたのだろうが、いまは立て札もなく好事家がたまにとおるだけ。龕付き宝塔・板碑の浮き彫りなど珍しいものもあるが、天井のひくいものも多く、こまかくみるのは難しい。

 瑞泉寺はもともと、鎌倉末期に高時に招かれた夢窓国師が、二階堂氏の後援で草創したとされる。それかあらぬか、ここから秘密の山道を通り、北条の落人を逃がしたとか、さらに先の天台山峠の急坂にある貝吹地蔵の伝説では、地蔵が法螺貝で先導し高時の首をこの辺に隠し、八百余人が思い残すことなく自害したともいう。首の行方には諸説あり、「お塔の窪」という谷底の秘境にあるやぐらがそれだとも。たしかに谷底への分岐のほうが貝吹地蔵にはちかいが、いずれにせよ伝説にすぎない。



弥陀・光背付き五輪
 山中にやぐらが多いのは、天台系の山岳行者に由来するのではないだろうか。禅・天台・真言・律の四宗兼学で貞時・高時の菩提寺でもあった覚園寺(大蔵薬師堂)の頂上附近には、周知のように百八やぐらが分布。都の鬼門(東北)の天台山とか薬師堂とかといえば、京都での比叡山に相当する。王城護持の祈祷法といえば、いわずとしれた深夜の回峰。回峰行者のルートにやぐら群を指定すれば、その場所は合理的に夜警できるわけだ。

 貝を吹いたのは地蔵でも国師でもなく、覚園寺あたりの行者だとすると、なんとなく合理性がありそうだ。そういえば百八やぐらの目立つところにも、「団子付き地蔵窟」なんていう大きなやぐらがある。地蔵は地獄・六道から亡者をすくう、無縁墓地の守り神。だが「高時の首」に相当する、大切ななにものかを隠すとなると、大規模やぐら群のような比較的目立つ場所とは思われない。谷底に、人知れずひっそりとある「お塔の窪」のような場所のほうがふさわしい。



左側崖沿いの隘路を辿る
 番場ヶ谷(十二所)にくだる道はいくつかあって、道標のあるさいしょの分岐は番場ヶ谷でも宅地方面に下りてしまう。谷の最奥「お塔の窪」におりるなら、自然保護林の看板と高圧線鉄塔を目印に、貝吹地蔵よりは手前の分岐をどこまでもくだる。やがて溝川の源流があらわれて、勾配がようやくゆるやかになるころ、「お塔の窪やぐら」がぽつんとみえてくる。

 番場ヶ谷の奥はかなり狭く、下から川沿いに行くにしてもやっかいだ。宅地より先が長い。しかも山水が浸しているところが多く、藪はあるていど開けているものの、不用意に踏むと泥が深くたまっている場所もあり、とりわけ泥靴で高さ2mの丸木橋をわたるのは、腐った橋板を踏むよりも怖い。あろうことか材木は、好事家の足跡でさるすべりのようにズル剥けている。一組の若いカップルとすれちがったけれど、こんなデート場所、けんかにならなかっただろうか。


 「お塔の窪やぐら」群は、上からも下からも隔絶した場所に二三、ぽつねんとあるだけだ。とりわけ右の「お塔やぐら(2号穴)」が珍しいのは、籾塔形式とよばれるずんぐりとした一石造りの宝篋印塔が、かまくらでもほぼ、ここにだけ、しかも集中しておかれていること。

 日本の宝篋印塔のルーツとされるのは、10世紀分裂唐(五代十国)のころ、杭州あたりをおさめた「呉越国」の王・銭弘俶がくつらせた八万塔とされる。これはかの鑑真一行も参詣した域内の名刹・阿育王寺に、「古代インドの伝説的仏教王・アショーカ王(阿育王)が供養したという幻の八万四千塔のひとつ」、とされるものがあることにちなんだもので、天暦のころはじめてつたわり、鎌倉中期までに、日本にもかなりの数が渡ってきたらしい。

○ (後深草院のお妃が、あるとき法然の高弟に、)「亡者の追善には、何事か勝利多き」と尋ねさせ給ひければ、「光明真言・宝篋印陀羅尼」と申されたり・・・(「徒然草」)。



奈良国立博物館「ブッダ釈尊」(図録)S59より
 「たしかに我々(浄土宗)としてはまず念仏が第一、と申し上げたいところ。だが、経典類を書写供養なさりたいとすれば、このふたつなのだ」。日本でも奈良時代、八万塔にちなみ百万塔がつくられたのだが、宝篋印陀羅尼はまだつたわっておらず、べつの三種の陀羅尼が納められた。吾妻鏡(脱漏)には「嘉禄元年九月大八日丙寅。多胡江河原に於て、八万四千基の石塔を立てん為、武州(*泰時)、駿州(*重時)、三浦駿河前司(*義村)以下、これに行き向はる。弁の僧正・門弟等これを相具して沙汰せらる」(1225条)。これはどんなものだったのか、わかっていない。

 「鎌倉市史」を書いた赤星直忠さんは形態学上、銭氏塔ににた籾塔形式を初期のかたち(1248ころ)と推定しておられるが、室生寺の籾塔など室町期のものも多い。ボン、キュッ、パッと腰のくびれた日本式の優美な宝篋印塔への進化とは別個に、平行して行われていたものかもしれない。

 宝篋印経類は空海が伝えたものなので、日本真言宗の見識から密教塔へと進化し、銭氏塔がまとう小乗的なデコレーションは一切捨象され、五輪塔に影響をうけたスタイリッシュな姿へと洗練された。銭氏塔ではジャータカ(仏伝)を刻む経函のぶぶんが、日本式では塔身にいちづけられ、二重の台座に安住し、四方仏の種子につつまれた大日如来との一体化がすすんでいる。籾塔形式は古式というよりはむしろ、追善の呪術に特化した、個別の民間信仰として流行したものなのだろう。


 不空訳「一切如来心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼経」(蓮体の秘釈本)によれば、どんなに朽ちたボロッちい塔であっても、この陀羅尼(真言=法舎利)をおさめるかぎり、一切の仏の不滅の遺骨(ダイヤモンド)そのものであるがゆえに絶対に疵つかず、宝篋印塔はみずから無限の功徳をもたらす宝石の塔でありつづける、という。さらにすごいのは悪人成仏を先取りし、明記していることだ。

○ もし悪人あって死して地獄に堕ち、苦を受けること間なく、免れ脱する期も無からんに、その子孫あって亡者の名をとなえ、この陀羅尼を誦すること、わずかに七遍に至らば、・・・地獄の門やぶれ、・・・極楽世界の上品上生に往生し、・・・補処の菩薩の位に至るべし。

 また病人も、貧乏人も、鳥獣・虫けらのようなものでさえも、この塔を造り、また一目見さえすれば、過去の悪報が消えて願いがかなう、と。この経の評価をめぐっては、在家(初心者)向けの低次の経とか、擬経による加筆がまじっているともいう。なんにせよ、この塔にすがった中世人の願いは、このようなものだった。


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