トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第283号 


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もちださんの鎌倉リポート No.283(2017年12月7日)



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文化交流館にて


 鎌倉歴史文化交流館は、裏駅がわから栄光教会・古我邸に折れ、そこをさらに右にはいったところ。美術品マニアの旺文社社長の没(1985)後、親族らがじぶんだけのための「住む美術館」を思い立ち、けっきょく完成(2004)わずか数年でセンチュリー財団によって鎌倉市に寄付された。ノーマン・フォスター氏の基本設計による建物は、そもそも邸宅として施工されたため、かんじんの所蔵書画の展示には適さなかったとか。

 設計のコンセプトは合槌稲荷跡の展望台からみて、一目瞭然。構造壁を平行にならべたもので、交流館として改修後いくつかの部屋をつなげたものの、展示スペースはあまり広くない。紫外線の影響をあまり心配するひつようのない、ちいさな考古遺物が主にならべられている。美術は公共のものとなってはじめて価値を持つのだから、良心的な財団を残しておいた亡き社長の思いに感謝すべきだろう。


 庭の崖面にある岩盤の池は、発掘された中世の遺構で、瑞泉寺の庭と同巧のものとされる。ただし奥やぐらの右にみっつある穴は幕末明治にさかんに掘られた「横井戸」で、ここでは三井家別邸だったころにつくられたとか。坑道のような∩型で奥深いのはほぼ、横井戸。やぐらではない。筧樋(かけひ・ししおどし)に落とす水でも溜めたのだろう。

 この地は長く綱広屋敷とよばれ、ふもとの正宗屋敷とはべつに、後北条時代からここに住んだ正宗の子孫・綱広の邸とされ、展望台とよばれる上の平場に合槌稲荷がたっていた(古図はレポ193参照)。より広い地名では無量寺といっているから、庭園は無量寿寺の跡だろうという。たいして面白い話ではないが、無住がこの寺の崖崩れのことを、書き残している。

○ 先年の鎌倉の地震に、無量寿院と云う寺に山崩れ、僧堂うち埋づめたりけるに、僧四人、座をならべて遠からず。三人は即はち死す。一人の僧、わづかに息のかよひける隙有りて、二時ばかり経て掘り出だして助かりたり。・・・行業ばしの力にや、・・・信読の大般若読誦の事、これ有り。(「雑談集」1305巻九)



ドイツ製人造大理石と中国の磚(せん)
 交流館はもともと「武家の古都・鎌倉」世界遺産登録祝いのガイダンス施設としてつくられる予定だった。結局考古博物館のようなものになったのは、結果的によかったと思われる。観光地かまくらは、おしゃれタウンとしてはいいのかもしれないが、目に見える中世の遺物がことのほかすくない。歴史都市として、真正の証明となるものがみえなかった。

 秘仏とかいって隠したり、立ち入り禁止だの、倉庫にしまっているものも多い。一般人に見せたってどうせわかりはしない、といった専門家のおごりや独占欲。写真撮影も禁止だから、webでの話題も花暦ばかり。以前のように県立博物館や県立金沢文庫、はては江ノ電デパートを借りて「鎌倉展」をしているようでは、文化都市としては恥ずかしい。

 交流館のいいところは、原則、展示物の写真撮影や掲載は自由。「どしどし宣伝して」と学芸員さん。国宝館もふくめ、展示の床面積が増えれば秘仏や古文書、じみな史料の展示機会もふえ、見える化がすすむだろう。本来ならもっと充実した「中世史博物館」を望みたいところだが、ものごとはまず第一歩から。


 たまたまやってた「甦る永福寺」展では、頼朝創建の大寺院・永福寺跡の整備がひとまず完了したのを記念し、これまでのおもな出土品が展示されていた。現地ではすでに池が復元されたが、ワンポイントとなるべき橋もなく、テニスコートに近いぶぶんも芝のまま、みどころとなるはずの中島も庭石も埋め戻されたままだ。これで完了? と思うひとも多いはず。鎌倉にはうるさい住民も多いらしく、ここをイベント広場としてつかうのもむずかしそう。

 永福寺は巨大寺院にはめずらしく石の基壇はきずかれなかったとみられ、雨落ち溝とほぼ同じレベルで縁側の束石がおかれている。木製の基壇は縁の下に隠れるぶぶん(亀腹)に築かれていた。地についた、かなり住宅風の建築様式だったようだ。頼家や頼経将軍がけまりをみたのも、堂の縁側だったのかも。ちびっ子リフティング大会とか、そんなのにつかったら風流なのだが。・・・



扇骨・金具・螺鈿漆地断片
 左下は焼け残った螺鈿細工の破片のひとつ。ただ、貝の部分は白化して、もはやオパール色の輝きはない。また填まっていた貝がはずれ、図柄部分が浮き彫り状にのこっている。なんの部材かは不明ながら、平泉金色堂にあるような豪華な調度・建具が永福寺にも存在したことを示す。

 織物製の幡などを飾った提げ金具・杏葉(スパンコール)の類は比較的保存がいいが、右上のは菩薩の腕に嵌まっていたかざりの一部だという。炎上時、はやくに地に落ちたもののほうが火炎の高熱をまぬかれ易かったのだろう。仏像の破片はもうなんだかよくわからないものばかり。

 左上の漆塗り扇骨と下写真中央の水晶の数珠は、永福寺正面向かいの山にあった12世紀末の経塚に納められた、バケツ大の大型経筒から出たもので、ともに出土した大量の櫛などから、埋納者は頼朝にちかい高貴な女、と推定され話題になったもの。研究者は断定を嫌うが、ようするに「北条政子」だ。


 中世に硝子細工は廃れ、おもに水晶がもちいられた。下写真のちいさな五輪塔型舎利瓶(円覚寺前出土)も水晶製で、おそらく「懸守り」とよばれる握り鮨大のお守り袋に入れて、高貴な人が持ち歩いたらしい。この類には金の粒が舎利のかわりに入っていて、永福寺経塚の経筒からも、金の粒が出てきたが、なぜか舎利瓶はうしなわれていたようだ。

 また櫛類で思い出すのは吾妻鏡に、「阿字、一鋪。御台所の御除髪を以つてこれを縫い奉つらる」とみえる記事(1200.1.13条)。頼朝一周忌の法要で、出家した政子がじぶんの髪で大日如来の種子を刺繍した阿字曼荼羅をつくった、というのだ。

○ 亡魂の髪をもて「*キリーク」「*サク」「*タラク」(*原文、梵字)等の字を縫ふ事、世間にこれ有り。尤も目出たき事なるべし。凡夫の色心、本来毘廬の体なれども、知らず信ぜざる時はただ苦患を受くる生死の身なり。然るにかくの如き教へをも信じ、まして凡夫の身分を改めず仏の種子と成す、いかが効能なからん。即身成仏とも云ひぬべし。(無住「雑談集」巻10)


 常設展示にあった金銅製の水差し(上写真左)は、「たちんだい」の通称で知られる北条政村常盤邸跡(レポ40)からでたもの。常盤邸での和歌会の記録は多い。

 また市内からは数多くの小仏像も発見されている。頼朝が髻に結い付けた観音や、罪人を斬首から救った建長寺の「斉田地蔵」(現存)など、中世人がお守りとして身に付けた小像のたぐいらしい。喧嘩か合戦か、はたまた髻を解いて兜を着る時か、なにかのきっかけで落としたのかも。左上は鎧具足の一部、「籠手」の出土物。奥には雁又などの矢じりもある。

 他にも「其仏本願力、聞名欲往生、皆悉到彼国、自致不退転」と、「無量寿経」の破地獄の偈が彫られた胡桃谷やぐらの板碑1288など、多くの展示品がある。初心者向けではないかもしれないが、マニアならけっこう楽しめるはず。


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