トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第284号 


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もちださんの鎌倉リポート No.284(2017年12月13日)



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甲冑について



歴史文化交流館にて
 甲冑のルーツについて、埴輪の形象や古墳などの遺物から推定されるところでは、鉄板などをそのまま用いた「短甲」と、こまかな小札(こざね)に分割し、革や紐で連ねスダレ状に編んだ「挂甲」にわかれるようだ。日本風の甲冑は後者が進化したもの。

 鎌倉時代以前は合戦のマナーとしておもに騎射がこのまれ、運動性のたかい、軽量級の鎧が重視されたものとおもわれる。ただ平安前期までは東北平定や防人などで異族とむきあい、「弩」というボーガンのような強力な武器も用いられていたから、頑丈な楯や短甲の類ものこっていたかもしれない。埴輪による形象や古墳遺物などのなかには、冑の頂上に鳥の毛をかざったものや、革で奇妙なかたちをあらわしたらしいものもあり、飾り馬(馬鎧)などをふくめ、古代中国大陸ふうの装飾もすくなくなかったようである。



(参考・横浜市大林寺)
 遅くとも平安朝になると、儀式用の唐服はもはや即位式などでしか用いられなかったらしく、大陸風の鎧兜の類はいっさいのこっていない。舞楽での武人の扮装も、和紙でつくった甲や「鎧のうえに重ね着た」という想定の武官装束・乗馬用ベストなどで表わされるにすぎない。したがって仏画や仏像の意匠から空想するほかはない。

 四天王や十二神将などの鎧には革細工を主体として表面を装飾したものが多く、スマートで蛇腹状・鱗状の表現も多いことから、体躯に密着した鎖帷子式か、こまかな小札を連ねた特殊な挂甲であったことがうかがえる。牛革は軽く、運動性はすぐれていたと思われるが、内側に包む金属板の多寡によって、実戦上の強度は左右される。切腹でおなじみの「腸」は致命傷になるので、ほっそりしたウエストは見た目はともかく、機能的にはいただけない。

 しがみつく、の語源になった魔よけの獅噛は、四天王の鎧などにデザインされる。肩にあしらわれるのはギリシャ彫刻のライオンを担ぐヘラクレスがルーツだともいわれる。



(ウィキ‐コモンズより引用)
 アレキサンダー大王をえがいたポンペイ出土のモザイク画には、小札を粗く列ねた古代の鎧(挂甲)がみられ、その胸板のところにも人面のようなものがあしらわれている。おそらく魔よけのメドゥーサなのだろう。

 鎌倉の下馬で出土した鎧は、残っているのはほぼ金属部分だけだが、絵画資料や神社への奉納用につくられた古鎧とほぼ同様の、古典的な形状をしめしていた。実用の鎧全体がまとまって出土する例はまれだという。

 実戦的な鎧となると、装飾よりは金属板の数や厚みが問題となり、かさばる小札をどう合理的に配置するかが求められた。体の線にあわせるとかえって細工が複雑になり、可動部分がへったり重さが増すなどして運動性を損なう。一騎打ちでは、一瞬のずれが生死を分けてしまう。けっきょくすだれ状に編んだ部材を【箱型】に組み合わせるという、きわめて大雑把な構造が有効とされ、日本独自の大鎧として定着した。


 中世の甲冑は腹巻・胴丸・着背長(大鎧)に大別される。腹巻・腹当は実朝暗殺のさい、せめて用心のため束帯の下に腹巻をお召しくだされ、といわれたように、もっとも軽くシンプルなもので、もじどおり腹に巻いて密着させる。NHKのドラマ「アシガール」で、主人公の女の子がきる貧弱な鎧がそれだ。

 胴丸はもうすこし筒のようにかさばったもの。大鎧は完全に箱で、敵とむきあう弓手側の胸には鳩尾の板という硬めの板を付け、上面首周りにも板を置いて、右脇を別製の脇楯という板で蓋をしておく。草摺(スカート部分)は前後左右におおきく四つ、わかれてみえる。

 簡略な腹巻は歩兵向きで、下っ端のものも着ることができるが、高級なものに立派な冑や大袖などを具足して(組み合わせて)しまうと、遠目には一見どれもおなじように見えてしまう。時代行列のたぐいにみられるのはほぼ胴丸か腹巻で、なかには戦国時代の「当世具足」と混在しているものもすくなくない。戦国時代には弓矢の一騎討ちはすたれるため、腹巻はより走り易いものに改良されたり、また長槍や鉄砲が普及するため、軟弱な革や威し糸よりも鉄板の割合が多く、大将の鎧は西洋風・重量級へと変化する。



国会図書館模写本(ndl)より
 「蒙古襲来絵詞」では図のように、大ぶりでかさばる大鎧を着てたたかっており、日本の武士らは完全に弓矢での一騎討ちを意図していたことがうかがえる。この絵巻物、いわゆる「竹崎絵巻」には後年の書き込みが多い。竹崎季長の「苦戦のシーン」として、教科書にも紹介されている図右の場面は、もともと季長の先陣を勇敢にえがいたものだった。のち、あきらかに筆致がことなる「凶暴な蒙古兵」や「てつはう(鉄砲)」などが複数描きくわえられ、季長や馬にも多数の敵矢が命中して血がほとばしるなど、意図的に改竄されているのだ。

 これはのちに絵巻を手にした複数の九州武士が、手柄はおまえひとりのもんじゃないよ、と強調、かつは協力した自分たちの実感をこの絵巻にも反映させようと、意地悪く描き加えさせたのだろう。たしかに、集団戦法で無差別に射掛ける敵に竹崎ひとりの一騎討ちは真実性に欠け、不自然。

 奈良時代までの諸国の「軍団」は、専門の武士ではなかった。かつて寛平の韓寇894では、郡司士卒をひきいた対馬の国府が秘密兵器「弩」をもちい、数百人を射殺して新羅軍の撃退に成功した。弩は東北地方でも出土しており、平安前期までの異賊退治においては、防人や郡司子弟など素人でもあつかえる飛び道具をもちいた【集団戦法】が、日本でもまだ機能していたようだ。



(小机祭り)
 だが「弩」を国内でもちいるのははなはだ危険、としてたびたび廃止され、平時は厳重に管理されていたが、しだいに忘れられてしまったらしい。その後は主に専門の武士による、尋常の一騎打ちが「戦争におけるモラル」として定着していったのだ。

 元寇はたぶん、モラル崩壊の一因となった。やがて徳政一揆や一向一揆のたぐいにも、足軽(傭兵)や群盗、さらには無関係な一般人(いわゆる「甲乙人」)までもが多数便乗。当事者集団や支配層らの思わくとはまったく別の次元で、自由気ままに略奪や殺戮にはげんだ。歩兵による鉄砲や長槍といった、敵のすきを突く卑怯な攻撃が主流となり、消耗戦・総力戦がさけばれ、大将同士の一騎打ちはすたれてしまう。戦争の従事者が多くなれば、下剋上のチャンスはふえる。乱世には、各々の自己実現のため、つまり個人の欲の数だけ、戦争はつづいたのだ。

 成り上がり者には夢の時代。もちろん暴力だけでなく、流通や産業などにおいてもルール無用の熾烈な競争がひろがった。無政府主義と呼ぶにはあまりにも奇妙な「民主化」だったのかもしれない。あらゆる権威が失墜し、【無能な人間】は容赦なくはじかれる。それは必ずしも【権力者】ばかりではなかった。



近世具足(大船・龍宝寺)
 鉄砲は中国人倭寇の巨魁・王直(?-1560)の船に同乗していたポルトガル人がつたえたとされる1542。その当時、ポルトガル人も仏朗機(フランキ)とよばれる倭寇であったため、実際には種子島人もふくめ、みな密貿易を仲介する王直の協力者であって、倭寇むけの鉄砲の密造がばれたために、適当な「伝来記」を拵えたのかもしれない。火薬の原型は「ギリシャ火」などといってかなり昔から改良がすすんでいたらしい。入明僧の記録では、安物の刀剣とともに南島産の硫黄が大量に輸出されており、古来より日本の特産物だったのだ。

 戦争ははじめるよりも止めるほうがはるかに難しい。無分別な個人が、永久革命の妄想にふけって自己中心的なテロをくりかえしても、総体としては底なしの無法社会を生み続けるだけだ。暴力を止めるには、また新たな権威が必要になる。厭戦思想をうむには、比叡山や一向一揆の焚殺、秀吉の対明戦争、島原の乱・・・ないし原爆投下などといった「ショック療法」のようなものも、ある意味必要だったのかもしれない。これをハルマゲドン(最終戦争)ととるかどうかは、人それぞれだろう。


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