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もちださんの鎌倉リポート No.285(2017年12月17日)



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人見やぐら・1


 英勝寺のとなりにある智岸寺谷の奥から源氏山に登る草まみれの道は、さいきんは通行止めになっていることが多い。その手前、左崖に近世の墓石が入ったやぐらがあり、よくみると奥壁に篆額がきざまれ、「卜幽埜氏墓」と刻銘が彫られている。からっぽの「やぐら」を後世に墓地として再利用することはめずらしくない。が、江戸期の著名人の墓で、埋葬時のまま、墓直しもされず保存されている例は、あまりない。

 智岸寺谷にはかつて、いま瑞泉寺にある古仏「どこもく地蔵」をまつる堂があったとされる。しかし徳川光圀監修「新編鎌倉志」1674の時点では、すでに地蔵は近年鶴岡十二坊に移され、当時は阿仏卵塔屋敷という場所とともに、水戸家ゆかりの英勝寺の境内になっている、と記す。



「埜(野)氏」は人見氏の本姓「小野氏」の唐風表記
 人見卜幽軒(1599-1670)は代々水戸家に仕えた儒臣で、家康の孫・光圀(西山公1628-1701)に朱子学や歴史学を吹き込んだ人物。姉の産んだ甥で養子の人見懋斎(ぼうさい1638-1696)とともに、親子で藩校・彰考館の礎を築いた旨が、ふたりの墓石にびっしりと刻まれている。

 人見氏は武蔵七党のひとつ・猪熊党小野氏の一類で、埼玉県熊谷あたりにすみ、鎌倉幕府に仕えた。「太平記」巻六に、敵ながらあっぱれの人物として老武者・人見入道恩阿(73)の最期をつたえている。かれはいち早く幕府滅亡の前兆をさとり、老いた今、その悲しみを見るに忍びずと、盟友とともに楠正成の赤坂城へ無謀な特攻を試みて、まっさきに忠義をあらわした。

 その後、人見一族は丹波にうつるが、丹波といえば上杉氏の本貫地だし、武蔵系の新補地頭もおおかったとされるから、もともとそのへんにも所領があったのかもしれない。そこで細川家に仕えるしがない土豪となったものの、三好・松永の乱、秀吉の大明征伐などに翻弄された旨が、懋斎の「井井堂稿」にみえる。一族は武門というよりは儒者や医師として評価されたらしく、やがて禁裏・幕府や大名などに召抱えられ、全国にちらばった。卜幽の兄・医師玄徳の子で、将軍家綱・綱吉につかえた儒官・人見竹洞(1599-1670)などもそのひとり。



「故懋斎先生小野君墓」1698・「故致仕鴻儒卜幽軒野先生之墓」1670・「人見氏先祖之墓」1790
 卜幽軒は幼少時、柏原氏の養子に出されるなどしたが、学問を好んだ。やがて藤原惺窩の門につらなり、林羅山・松平定綱(家康甥)らの推薦で光圀の父・水戸中納言頼房(威公1603-1661)のもとに当初、侍講として派遣されたという。

 藤原惺窩にせよ人見卜幽軒にせよ、ごくつまらない浪人が「学問」によって名声を得、権力者から迎えられ出世するということは、たしかに希有なことではあった。当時、儒教思想の中心にあった朱子学は、殉死・玉砕を賛美する過激な言動で知られる。科挙制度のあった中国大陸でうまれたもので、「自分を登用しなければかならず国が亡ぶ」という、独善的な英雄思想が根底にあった。じっさい朱熹らが活躍した時代にはモンゴルによって南宋がほろんでおり、【過激なまでの忠孝思想】【強硬な排外主義】がより正しいものとして、信じこまれていった。



親子の墓碑銘。右側面から各々三面にわたり、左行から右へ刻んである
 日本でも「元寇」や「南朝の内乱」があいついだ国難の時代、禅僧などを通じ、宋学として伝来。二条河原の落書に「下剋上」とまで称された、後醍醐天皇による忠義重視の登用や、歴世の天皇を大義名分論にもとづき批判する北畠親房の歴史観(神皇正統記)などに、ひろく影響。江戸時代には幕府の官学に採用され、垂加神道などに展開。近代には民主主義、革命思想とも混同され、戦前・戦後の暗黒時代に影を落とした。

 南北朝正閏論をはじめ、戦前戦中の思想統制もほぼ儒学にゆらいするのだが、なぜか教科書には言及がない。不見識な教員などがときおり、「特攻隊は本居宣長の国学の影響」「神道はすべて国学」などとトンチンカンな推理を説くこともあるが、国学はおもに民俗学を研究対象としたもので、もともと滅私奉公の革命思想とはなんの関係もなく、封建社会の支配理念であった事実もない。ぎゃくにいえば、朱子学の深刻な重大さについて、いまだほとんど自覚がないのだ。

 自己の暴政を棚にあげ、いまだ他国の断罪に余念のない未開社会こそが、まさしく朱子学のふるさとであった。多くの文化人がいまなお深くのめりこみ、心の底から愛してやまない儒教社会の魅力とは、いったいなんなのだろう?



懋斎の墓誌は学友・安積澹泊が執筆(左は助さん)
 卜幽軒は光圀にすすめて未完の大著「大日本史」の編纂をはじめる。修史局は卜幽軒の引退後、甥で養子の懋斎にひきつがれた。親子は林羅山・鵞峰らにまなぶほか、光圀が招いた明からの亡命学者・朱舜水(1600-1682)らとも交流。史局はやがて彰考館となづけられ、京都をはじめ各地から多くの秀才をあつめた。歴代の総裁には安積澹泊(覚1656-1738)(格さん)や佐々宗淳(介三郎1640-1698)(助さん)もいた。

 水戸黄門漫遊記はじっさい、明治の講談師の創作にすぎず、実在の光圀は隠居前46歳の年、江戸上府のついでに房総・鎌倉を遊覧したほか、ほとんど旅行らしいものはしていないし、とくに安積や佐々がお供をした記録もない。ただ、鎌倉紀行の副産物として「新編鎌倉志」が編まれるにおよび、光圀は別途複数の追加調査員を長期派遣して、古文書・宝物などをじっくり実見させた。また楠正成を顕彰する碑をたてるため、湊川に佐々を出張させたり、蝦夷地に調査船を送るなどした。これらを皮切りに、彰考館員による本格的な全国調査を展開するのは光圀死後のことらしい。



墓碑正面
 水戸藩は御三家でおもに江戸に在住、卜幽軒のころは小石川の藩邸上屋敷(後楽園)が罹災していたため駒込の中屋敷に史局をおいた。駒込とはいっても今の東大の北東隅、弥生式土器の語源云々でしばしば話題になる、水戸斉昭の「向岡碑」一帯にあった。晩年の卜幽軒は目を悪くし、藩邸のそば忍ヶ岡の土地を買い白賁園という小庵をきずいて住み、やがて史局を挙げて儒式(神式)葬がいとなまれた。儒教では、火葬を罪人の処遇として忌み嫌い、祭式では位牌型の厨子に「神主」とよぶカードのようなものを収めてまつるのだ。

 卜幽軒の「林塘集」におさめられた「白賁園の記」によれば、養子には墓の迷惑をかけたくないから庵の庭に埋めてくれ、と事細かに遺言していたらしい。ただ墓石の銘文によれば、実際には庵にほどちかい谷中に葬ったといい、鎌倉へはのち懋斎が改葬、そこにはすでに自分のぶんのスペースも確保していたという。英勝寺の土地はおそらく、光圀が与えたのだろう。懋斎の墓誌には死後二年目の年号がかすかに読めるが、かれもまた、遺体が白骨化するまで江戸に仮葬されていた事を示すのかもしれない。大陸では棺を開き、いったん骨を取り出して洗うなどするが、「西山公随筆」では儒者の法といえどもこれは無用の事、と否定している。



卜幽軒墓の封土
 儒式の墓地には雨水をさけるため、「馬鬣封」といって棺上に屋根状の封土を盛るという。女はかまぼこ状に盛るらしい(馬蹄封)。卜幽軒は庭に埋める際、将来公儀から土地の接収があるかもしれないので、棺には薄板を用いて早く白骨化させるように、と気遣った。過去に自分墓がやがて宮殿の地(漢都長安)になるであろうと予言した、秦の仙人の故事をまなんだのだ。

 また生前から墓を用意し墓穴に遊んだ唐の仙人・司空図の逸話にあやかって、悠々自適に余生をたのしんだ。「蔬畦に吟行し、孳々(しし)として正を得れば、斃れての後に、何をか徯(ま)たん」・・・歌でもうたって菜園を世話し、ただただ正直に暮らしてゆけば、死んだあとのことなんて、気にもならない(白賁園記)。
 
 墓誌の記すところは懋斎の「井井堂稿」や「澹泊斎文集」にも載っているので、詳しく興味をお持ちの方は国立公文書館→内閣文庫から検索すれば閲覧できる(漢文。ただし実際の碑銘とは二三の語句に小異がある)。


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