トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第286号 


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もちださんの鎌倉リポート No.286(2017年12月19日)



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人見やぐら・2



英勝院廟。家紋は太田氏の桔梗
 水戸家ゆかりの英勝寺は、黄門の祖母・英勝院(お梶1578 -1642)が太田(遠山)氏子孫ということで、道灌屋敷跡に開基した尼寺。開山には光圀の姉・玉峯清因(小良姫1628-1717)が英勝院の養女として選ばれた。実は家康と英勝院とのあいだに実子はない。光圀の父・水戸中納言頼房(威公1603-1661)を産んだのは養珠院(お万1580-1653)なのだが、はやくから養母・英勝院に与えられ、同居していた。

 頼房の同母兄・紀伊大納言頼宣は実母のもとにとどまり、西御門太平寺を再興して高松寺と称した。ただ養珠院は禁断の日蓮宗「不受不施派」に固執し、念仏びいきの夫・家康と対立。そのためか高松寺のほうは衰退し、現在はテニス‐コートになっている。太平寺はかけこみ寺の元祖とされるが、高松寺ではおこなわれなかった。



勝の橋の石材(寿福寺前)
 光圀もさまざまな家庭の事情をかかえていた。光圀らは出生時、妾腹として堕胎すら検討され、認知がおくれた。これは継母にあたる円理院(佐々木お勝)の強い圧力があったためといわれる。同母兄の頼重(1622-1695)は松平姓に格下げされ讃岐高松藩にやられてしまったため、これを恥じた光圀は、のちに互いの息子を養子として交換、頑として長幼の筋をたてようとした。

 寿福寺の近く、扇川にあった「勝(かつ)が橋」は、英勝院お梶(かぢ)にちなむものといわれるが、むしろかわいい孫を殺そうとたくらんだ憎き嫁・円理院のお勝(かち)を踏みつける、という暗喩があったのではないだろうか。ふるい文献では「勝の」ではなく「勝が橋」、と蔑称的ないいまわしをしており、英勝院じしんならともかく、黄門がみずからの祖母をそうよぶとは考えにくい。

 戦国時代にはあちこちに人質となる婿や嫁を送る必要上、多くの子供をもうける習慣があり、生れた子供は戦略的な道具とかんがえられていたため、もともと命の価値もひくかった。しかも幕府成立以降は、将軍家の威厳とか跡目問題も重なって、安っぽい妾腹の子の認知・処遇は一層難しくなっていたものと思れる。子沢山でしられる大御所家斉は、外様大名の養子にまでおしつけた。


 英勝寺には水戸徳川家のみならず、かの高松藩・奥州守山藩・常陸宍戸藩など、一族連枝の諸藩(後述)出身の姫君も、水戸養女の名目ではいっている。いわば門跡制度にならったものだが、ほとんど6〜8歳の幼女のうちに寺を嗣がされた。開基・英勝院の意図は不明。英勝院が生きた戦国時代の直後には、主家の落魄などにほんろうされ、おぞましい身分へと堕ちていった武家の女も、たしかに多かったのだろう。

 水戸学の核心にあったのは儒教の一派、朱子学だ。いわれているように、英勝院への孝行のためだけに、「子孫」が7代数百年にもわたって人生を奪われ、「いけにえ」に捧げられたのだとしたら、ひどい話だというほかない。だが大陸では、孫を愛する老母が日に日に飢え衰えるのを見て、おさな子のほうを絞めて埋めてしまう、それが孝行とたたえられる。親にたべさせるため、体温で氷をとかして魚を釣り、歯の悪い姑のため、嫁が乳をふくませる。それができない者は「悪」であり、もはや人間でははないとまで非難される。

 いまでも、「介護離職」は義務であり国の定めた保護責任であるとされ、それで一生を棒にふる人はすくなくない。24時間監視がひつような重度の痴呆であっても親は親、子や嫁がみるのがあたりまえ。・・・朱子学とは、もともとそういうものであり、それ以上のものではなかった。



梁銘(1643)は左が玉峯清因、右が頼房
 儒教の正名論によれば、ものごとには善悪ふたつしかないのだという。しかし、ものごとの「善悪」は天が決めるのではなく、あくまで恣意的に【名付けられた】ものでしかない。たとえば仏教は儒者の敵だとして、聖武天皇は大仏をつくったというだけで最悪の暗君と非難された。・・・「正義」は時として狷介な極論におちいり、他人をおとしめ、支配・処罰する欲望に利用される。「正義」の絶対視はやがて法や身分秩序を越え、誰もがほしいままに「独自の正義」をとなえ殺戮に励む、戦国時代に道をひらいた。

 光圀はむだな殉死を禁じるなど、人道主義者であった半面、逆臣と決め付けた者を能舞台に誘い出し、衆目のなか一曲舞った直後、自らの手で刺殺するなど、自己顕示欲のつよい劇場型の人物でもあった。時に(67)。その性向は少年時代にいちじるしく、かぶき者をまねて女色にふけったり、洪水の日に隅田川でおよいだり、刑場から罪人の首を持ち帰るなどの奇行もあったとされる。若き日の非行は「小野諌草」という書などにかかれているが、それからわずか数年で、急速に学問に目覚め、朱子学の魅力にはまっていったことが、冷泉為景らの記録によって窺われるという。


 英勝寺にあるいくつかの蹲(つくばい)・手水鉢は、鎌倉期の巨大宝篋印塔の無残な断片だ。書院にあるのは逆さにされた器台部分で、下側に蓮華座が逆さになって覗いている。いつ、だれがやったのかはわかっていない。

 廃仏毀釈は古代中国の狂信的な儒者が発案したものだった。光圀もこれに習い、水戸領内の小寺社の約半数に逐一因縁をつけて破壊。また八幡宮などを標的に祭神整理を強行、垂加神道をつうじて祭事・神名などを思いのままに改竄し、別当寺の分離破却を押し進めた。このような極端な中華崇拝は、もちろんかれひとりのものではなかった。廃仏は明治時代にも、迷信打破の一端として全国的に流行したが、文明開化の英雄行為だと信じ込まれ、教職員ばかりでなく博打打ちややくざまでが参加。朱子学とは宗教ではなく万国共通の真理・道徳であり、最新の科学であるとさえ、思い込まれていた。

 「大日本史」が研究史にあたえた功績は、確かにおおきい。けれど、どれだけ膨大緻密な考察を尽くしていても、動機が動機だけに朱子学による汚染、偏向をふくむことは否めず、都合のいい創作・改竄も疑われるため、現在ではほとんど読まれていないようだ。



山門は光圀の兄・松平頼重建立
 光圀らは「大日本史」で南朝の正統性をのべ、対立する「国賊」をつぎつぎ断罪していった。南朝を亡ぼした現天皇家はにせもの、そう決め付けることで徳川への怨嗟を晴らそうとしたのだろうか。安積澹泊は比較的穏健で、現在の皇胤に繋がる北朝をにせものとまで断ずることには慎重だったという。

 山門の額を書いた後水尾院は幕府を呪い、徳川の血をひく幼い娘に位をなげうって、修学院にこもった。大義名分、滅私奉公の論議をどこまでも強硬に突き詰めてゆけば、必ずどこかで自縄自縛におちいり、天皇家への圧迫をつづける幕府をはじめ、それを補佐した儒学者自身もまた、やがては朝敵に仕分けされ、処罰・誅戮の対象となってしまう。「絶対的に正しい人間」なんて、いないのだ。

 その懸念は幕末維新により成就する。水戸が歴史を重視するあまり勤皇藩になっていったのは、ある種の必然だったのかもしれない。だがけっきょく、水戸出身の将軍・慶喜らが新政府に重んじられることはなかった。いかんせん朱子学が示す「絶対の正義」とは、自分を売り込むためのその場しのぎ、ご都合主義の茶番劇でしかなく、「天が味方する」などというのは未開社会に巣食うばかげた幻覚、自慰や阿片のようなものにすぎなかったのだ。けっきょくかれらの「学問」とは、なんだったのだろう?


 線路のむこうにみえる薬王寺は、もともと日蓮朗門の九鳳のひとり、肥後房日像(四条門流の祖1269-1342)によって草創された由緒ある寺だというが、定かでない。いつしか「不受不施派の寺」として檀家をうしない、徳川家光によって「殺害」された同母弟・駿河大納言忠長(1606-1633)の菩提寺として、妻の松孝院(織田信良の娘)により、ひそかに再興されたという。禁断の寺のまま、長い間いっぱんに開かれることはなかった。

 忠長は聡明さから父母に深く愛されたが、春日局が家康(1616没)に直訴して家督は家光にきまった。やがて大納言・駿府藩主に至るが、母・お江が没する(1626)と家光派による迫害がはじまる。病床の父・秀忠は忠長「ご乱行」のうわさを信じ、謹慎を命ずる。やがて秀忠が没する(1632)と、さっそく家光は謀叛の疑いをでっちあげ所得を没収、忠長は幽閉のすえ、ついにみずから喉を突いて死ぬ。28歳。

 ご乱行伝説はその後も創作され、「少女を唐犬に食わせた」など、ほとんどジル‐ド‐レ(青髭)を思わせるものすらある。もちろんそれは、歪んだ「正義感」に取り憑かれたひとびとが捏ね上げた、根も葉もない「詐話」にすぎない。・・・それにつけても、わざわざ兄の子に家督を継がせた光圀の家族愛、それこそが卜幽軒ゆずりの人徳だったのかもしれない。光圀はかの円理院お勝が生んだ異母弟、松平頼元・頼雄にも、支藩として額田藩(のちの奥州守山藩)・宍戸藩を分与。ただし光圀自身の血筋は、高松へ養子にだした頼常の代で、事実上絶えている。


【訂正】 前号で卜幽の親戚・人見竹洞(友元1638-1696)の生没年が誤っていました。お詫びして訂正いたします。


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