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もちださんの鎌倉リポート No.287(2017年12月29日)



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狩りについて


 冬が近づくと八幡宮の池もユリカモメばかりになる。いつものドバトも鴨も、かなり居心地が悪そう。餌がもらえる「お休み処」を占拠され、宮で飼っている「神使(つかわしめ)」の白鳩にいたっては、弁天島の蔭にたむろしてこの迷惑な渡り鳥の大群が一段落するときをじっとまっている。

 八幡宮はかつて仏教寺院であり、おもなまつりは旧暦八月の放生会だった。放生会ではあらかじめ獲っておいた鳥や魚を「慈悲」の心で放つ。いまではやや退化した形ながら、初夏にホタルの放流などをおこなっているようだ。さすがに昔も、カモメを獲って食べる者はいなかったようだが、ここは殺生禁断、さまざまな生物の楽園、ということになってきた。


 古代には貴族も天皇も狩をおこない、神社にも鳥獣や魚を供御の贄(にえ)として納めた。だが平安後期、仏教王白河法皇が殺生禁止のお触れを出し、すくなくとも公的な場では漁猟は下火になっていった。「百練抄」1126年条には、諸国の漁網を焼き捨て、鷹犬から宇治・桂の鵜飼の鵜まで放ち捨てさせた旨がみえている。鎌倉でも忍性らが殺生禁断の布教をつづけ、おそらく前浜は漁村から物流拠点へと改造がはかられたものとみられる。

 もちろん頼朝も信長も、狩は大好物。いっぽうの都貴族は「穢れ」「不浄」という概念で批判。「百練抄」1236年条にはまた、武士たちが都に完市(ししいち)を設け、鹿肉をあつめてひとびとに食わせるので、ちかくの摂政邸が「穢れ」て大迷惑しているとの記述もみえる。これはおそらく匂いについていっているらしい。日蓮の手紙にも、びんぼう人が燈す鯨油の臭いを非難したくだりがある。

 仏教においては「殺生」は罪であり、親鸞らがとなえた「悪人成仏」も、その悪とはおもに漁民・猟師などが、生活上やむをえず行う殺生を念頭においていた。そもそも「善」ということばには、寛容さとは反対に、他人に対するつよい処罰感情をふくんでおり、「穢れ」にたいする関心がつよまるのは、どうにかして他人を貶めたいという潜在意識のあらわれ、ということができよう。


 不思議に和歌の世界では、「照射(ともし)」とか「鵜飼」といった狩の歌がよくよまれている。もちろん、射られてしまう鹿や、食われてしまう魚龞類などにあわれを託したものだ。「照射」とは夜行性の鹿を、松明をめくらましにして狩る方法。

 頼朝が富士の裾野でおこなった巻狩りは、大勢の「勢子」が山を取り巻いて動物を追い込め、一方の口をひらいて出てくる獣をまちぶせにする方式。徳川将軍が好んだ鷹狩りでは、あらかじめ仕込んでおいた囮の鴨で群れをおびきよせておくなどして、失敗しないよう周到に用意したという。また、「紀家集」にのっている平安時代の競狩会では、監視役(間諜)があったものの、別に獲った小鳥を自分の鷹の獲物だとする不正もあったという。

 いっぱんに鷹狩にもちいた鷹は鷂(はしたか)という小型のものがおおく、獲物はおもに鶉かキジバト、小鳥などだった。宮中でも古くは蔵人所が管理する鷹小屋が内裏の廻廊におかれ、獲った小鳥が供御の棚に納められたりもしていたようだ。



クチバシと足が赤いのが特徴
 鳩がえがかれた紀行文といえば、これは近代のものであるが、大正末に九州都城の無名俳人・森土秋という若者の書いた「小鳥の音」(国会図書館デジタル‐コレクション)。震災直後に鎌倉に滞在した思い出として、おもに鳩や雀のことばかり書いている。「本覚寺・・・の軒下に、・・・鳩箱がとりつけてある。穴も六つ七つほどしか開いてゐないのをみると、鳩の数も多くゐないらしい」。

 長谷寺、江の島の岩屋でも鳩。大町の米屋前の雀、小袋坂にはホオジロ。「鶴ヶ岡八幡宮に詣でると・・・楼門の前の敷石の上には、一杯一銭としるした粟を椀に盛って、箱の中に置かれてある・・・餌をやる人が、以前のようにないので、町にいでて人の家の店さきを荒らしてゐるといふことを聞く」。

 動物愛護はもともと、白河法皇や忍性、犬公方綱吉など、権力者がはじめた。やがて庶民も、いらなくなった廃鶏などを神社の庭に放ち、参拝者が撒くための豆などが売られるようになる。「(府中大国魂神社にて)門より外には鶏甚だ多く、我々を見て集まり来たる事夥し。御供所にて米を求め蒔き与ふるに、拾ひ尽くすこと瞬く間なり。
 春雨や人に餌を乞ふ宮の鶏   二角」(加藤雀庵「雨の花」1844)



「(新板絵入)朝鮮人来朝物語」(京大本)より
 左は江戸時代、大坂・北御堂(本願寺津村別院)の鳩部屋を描いたもの。稀にくる朝鮮使節が豚や猿、羊などを屠殺するための厨房で、ふだんは鳥飼に鳩を飼わせていたらしい。「羊の浜焼きをする。精を出してあをげ/\。晩方はこの浜に立君といふ安き女郎がある。扨も大坂は下直(げじき)な所じや」「この鶏はお召しにせう」「豚は濃漿(こくしやう)に致し、猿はお吸い物にいたせう」。濃漿は味噌煮込み。

 鳩部屋の壁にはまるい穴があけられ、鳩が出入りできるようにしてあり、内部に棚を組んで伝書鳩のごときを育てていた。鳩のもう一つの役割は鷹狩りにつかう鷹のえさであり、餌袋にいれ当座に締めて生肉にするほか、鷹の訓練用に「振り鳩」といって翼を切り紐をつけて振り回したり、目を縫った鳩を獲らせたりもした。現代でもまれにおこなわれる鷹狩りの生き餌は販売用に養殖されたレース鳩や鶉などであるらしい。ちょっと残酷なようだが、金持ちがアロワナに生きた金魚を鋏で切って与えるようなものなのだろう。

 もともと天皇家が所有した交野の鷹場(大阪府枚方市附近)は、帰化人をひきいた百済王というものが管理しており(拾芥抄)、鳩や犬の生肉は鷹のえさだった。鳩小屋は伝書鳩などにつかわれるだけでなく、もともと将軍や大名の娯楽にそなえる屠殺小屋でもあったのだ。



鳩? のマーク
○ 【キヨメをヱタといふは如何なる詞ぞ】 穢多、根本は餌取と云ふべきか。餌と云ふは宍(*しし。肉)・鷹の餌を云ふなるべし。それを取る者・・・ヱトリを略せるなり。・・・乞食等の、沙門の形なれども、その行儀、僧にもあらぬを濫僧(ラウソウ)と名づけ・・・カタヒ・ヱタなど、人交じろひもせぬ同じさまの者なれば、まぎらかして非人の名をヱタにつけたるなり。・・・天竺に旃陀羅と云ふは屠者也。生物を殺して売る、ヱタ体の悪人なり。(「塵袋」*鎌倉期の事典)

 非人ということばは、仏典でいうところの「人非人」、すなわちインドのカーストを意味しており、いわゆる悪人のことではない。また清目(キヨメ)という呼び名からもわかるように、むしろ「穢れ」を払う者ですらあった。

 餌取は革細工などの工芸もおこなったほか、掃除、野良犬などの退治、犯人の捜索、罪人の死刑執行にもかかわり、年貢の督促や、家財の打ち壊しにも従事。さらには非人手下(てか)といって、もともと身持ちの悪い町の嫌われ者や囚人などを仲間に加えて権力に附属。お巡りと地回りが同一だった時代、かれらは市民を弾圧する立法者や、現場で横暴にふるまう下級役人(下司=ゲス)の「手足」として働いたため、暴行を好み殺生をなりわいとする者、という嫌悪感がひろがり、しだいに権力への反感のはけぐちとなっていったものと思われる。江戸期の天下泰平はたしかに動物愛護の心をひろめはしたが、いっぽうでは深刻な影もうみだしていた。



鳩? の壁画
 中世の西洋では、ユダヤ人がやはり執達使や被差別業を通じてゲットーに隔離されるなどした時期があった。だが革細工のイメージはすでに現在の最高級人気ブランド、たとえばGucchiとかLuisVittonなどによって刷新されている。いまも同和差別があるとすれば、それは単なる時代錯誤でしかないのだろう。

 兵隊など、人のいやがる仕事もだれかがしなければならない。古代の王様が、なんのとりえもない帰化人や捕虜・浮浪者・前科者のたぐいを見殺しにせず、何らかの職と手当てを用意したのは、ある種の善意であったのかもしれない。かれらは役所(本所)につとめたわけではないので、「散所」とよばれた。歴史家はこうした官奴(奴隷)たちを「渡来系技術者集団」「古代東アジアの最先端技術」だなどと持ち上げて、ていよく見ためを取り繕っているが、だぶんそれだけではないのだ。


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