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もちださんの鎌倉リポート No.290(2018年1月21日)



No.289
No.291



印融法印・1



横浜市歴史博物館「特別展・印融(※)」図録より
 今年は戦国最大の真言学僧・印融(1435-1519)の500遠忌にあたるという。横浜市にうまれ、膨大な書籍を筆写、廃れかけていた密教教学の著述・教育につとめたほか、かつて鎌倉に流伝した秘法をみずから一身に伝授してひろめ、関東の真言寺院の再興に奔走した。また高野山でも活躍したとされ、70ころまで「行き来していたらしい」。

 高野山では由緒ある無量光院の住持を継いだとされるが、確実な文書では36歳の時の滞在記録しかのこっていない。「高野春秋」巻11の寂伝によれば幼若にして登山、晩年の帰郷後、「時々近隣・他山にして毎々の講論に小牛に乗り、その牛角に巻帙を架け、行く行く熟覧す」とあり、その姿をえがいた軸が、関東での拠点寺院のひとつ・小机三会寺につたわる。また生誕地にちかい榎下観護寺にもすみ、両所に墓がある。そのほか近郊各地に伝法活動をつづけ、鎌倉方面では金沢八景の光徳寺(いまの龍華寺)を再興、最晩年にも青梅などへ精力的に足をのばした記録がある。85歳。



宅間ヶ谷
 出身地は武蔵国都筑郡久保、宅間上杉憲直の榎下城(横浜市緑区)にほどちかく、一説に近年まで産湯の井戸や白亜の蔵などが残っていた岩沢氏(号・車屋、堂屋敷)という旧家だとされる。岩沢一族は鎌倉をはじめ県内に多く、寛永重修譜では平良文の末という。

 いっぽう、上杉謙信の落しだねだという説もある。謙信じたいは後世の人(しかも無量光院における孫弟子)なので取るにたりないが、あるいはおなじ上杉でも公方持氏の無二の寵臣だった榎下城主憲直の子か孫で、たとえば岩沢氏はその母方なのかもしれない。印融4歳のときに永享の乱が勃発、憲直と嫡子憲家は金沢で討ち死に、二男持成は山内徳泉寺で死んだ。憲家の子には憲宗(6)・憲房(3)・憲時がしられる。わざわざ榎下城の鎮守寺院だった観護寺に長くすんだのも、「実家に近い」というだけよりは、「もと城主の子孫」なら自然だ。

 いっぽう、印融が復興したという高野山無量光院は、「高野の御室」こと仁和寺門跡・覚法法親王の創建とされる。印融が勉強の虫であったのはまぎれもないが、由緒ある高野山のような所ではおそらく檀徒方のコネも必要だったろう。宅間上杉のような名族のゆかりであるならば、ごく短期の滞在でも歓迎の足しにはなったはず。宅間上杉はおなじ上杉一族でも本家である貴族の名門・勘修寺家から迎えられた血筋であり、高師直一味と激しく抗争した重能・能憲などを輩出。西御門に報恩寺(廃寺)をひらき、憲直の祖父重兼は鎌倉宅間ヶ谷にあった足利家時(上杉家初代重房の外孫。尊氏の祖父)の廟堂をひきつぎ、これを報国寺と改めた。いわゆる「竹の寺」だ。・・・


 昨年十月末に横浜市緑区役所の公会堂で、印融をめぐるシンポジウムが行われ、観護寺の本堂後陣にある木像が入り口に安置された。こちらの像は壇上に講読するすがたで、香炉のうしろにちょこっとみえているのは沓(くつ)。高野山声明も披露されたが、平日ということもあって都合をあわせられる人はすくなく、ホールは六分入りでお年寄りがめだつ。冒頭画像の「特別展 中世よこはまの学僧 印融 ―戦国に生きた真言密教僧の足跡―」(※H9)をかつて企画監修した遠藤広昭先生のお話もあった。

 その詳細についてはここにのべるいとまがないが、印融関係の文献が全国各地にまだ膨大にのこっていること、年表にすると23歳から85で没するまで、ほぼ毎年のように旺盛な活動の史料・記録がのこされていること。またちかくの下川井長源寺に印融奉納と記す仏像があること等が印象にのこった。レジュメ【写真5】の年表によれば、はたして記録上では印融は一生涯のほとんどを南関東ですごしたことになり、長年高野山に住んだという「高野春秋」の記述にはいささか疑問がのこる。のちに高野検校となる無量光院の覚融に伝法したのも、実は現地ではなくて、柿生の王禅寺に於いてなのだ。・・・

 声明は印融の名著「諸尊表白抄」にもとづくものとか。表白とは祝詞のようなもので、諸尊というだけに至れり尽くせり、様々なシチュエーションにおける各種祈祷文の見本(テンプレート)をのせていて、いまも重宝されているらしい。多くの僧侶がステージを行道するさまは迫力があったものの、後半のご詠歌(?)には近代的なハーモニーも目立ち、伝承か復元のどこかに誤りがあるのかも。


 この「表白抄」1491には印融の識語として「武州足立郡河口錫杖寺に於いて、求法の弟子の所望に依りこれを抄す」「福徳三年(辛亥)」云々としるしてある。注目すべきは年号。公式には存在しない、私年号と呼ばれるもので、本来の年号は「延徳」なのだ。甲斐妙法寺記(続史籍集覧ndl)によると、「また京にて王崩御とて、福徳二庚戌年と年号を改むるなり・・・」などと、いくつかの改元がデマのように広まったようすがうかがえる。もちろん京都にそのような事実はなく、発信源は南関東のどこかだ。

 中世におこなわれた私年号は、現政権を否定する古河公方成氏がもちいたりもしており、「後南朝」勢力などが流した形跡もあるが、真言宗のみならず日蓮宗など、宗派をこえたインテリ学僧の資料にもひろがった。個人の板碑に刻まれたものも多く、観護寺ちかくでも西八朔に報告例がある。つまり甲乙人レベルでも受け入れられていた可能性がたかく、特定の政治勢力というよりは、むしろ関東一帯において、庶民感覚で無政府的世界観におちいっていたように思われる。

 私年号は鎌倉いぜんにもあり、「法興」など上代仏教関係の擬史・擬伝承にも多いのだが、紙の上ばかりでなく、現実に板碑などで確かめられる「福徳」「弥勒」などの大流行は、ほぼ応仁の乱以降、戦国時代たけなわのことなのだ。



熱弁する遠藤先生。灰色部分以外はすべての年に、なんらかの記録がのこっている
 戦国時代、貴族や大名といったパトロンを失った寺院は、布教の軸を庶民にうつした。それは庶民文化の向上にもつながった反面、庶民への収奪を増すことでもあった。迷信をひろめ、地獄で脅し、往生で釣る。宗教としてのモラルは著しく低下し、高野聖とか売僧とかよばれるものが、回国勧進に名を借りた商売や唱導芸能、占いなどに広範な経済活動をくりひろげた。奥の院への納骨ビジネスをはじめ、舶来の織物をつかった奇麗なお守り袋をつくるためには呉服業にも手を出したし、山師のようなことまでした。「宿借ろう」などといって、強引に無料宿泊・接待をせまったりもした。

 それが通用したのは、まがりなりにも庶民階層の生活水準が向上し、社会全体に売僧をやしなう余裕ができたからにほかならない。念仏聖は易行成仏を唱えて次第に時衆化し、高野山は極楽往生のパラダイスとして観光地化していった。対立する日蓮宗でさえも、渡世のためイタコのような口寄をおこなわざるをえなかったのだから、それも時代というものなのだろう。

 印融が「空海の再来」とまでいわれたのは、空海と同等に崇められたということではない。むしろ時代に逆らい、頽廃した仏教を空海の昔に帰そうとただひとり奮闘しつづける「奇特な姿」を、そう評価したのだと思う。


 そういえば、夥しく残る中世の板碑も、そのほとんどが梵字の阿弥陀。念仏化した真言宗のものなのだ。小山田与清の「築井紀行」には、上矢部の画像板碑(レポ96)にまつわる伝承として、「土俗、これを板仏とも、又は高野仏とも呼ぶ。いにしへ、高野聖が負ひ歩きて鬻(ひさ)ぎたりとなん」などとある。

 南関東の板碑の多くは、秩父青石(緑泥片岩)という結晶片岩の剥片をもちいている。一部には銀色に光る雲母片岩系のものもある。多くは蓮台上の月輪に弥陀の種子(梵字)を刻んだもので、種子は仏像のイニシャル(記号)、というよりは仏そのものの真実の姿(三摩耶形)とされた。梵字や銘文には金泥がほどこされ、夜にも光るくふうがなされた。やがて念仏講や月待ちという信仰も生まれた。庶民のあいだでは、現実の月も阿弥陀仏と同一視され、下弦の月(二十三夜)は来迎の船の形とみなされた。たあいのない迷信化にはちがいないが、それはそれで面白い。

 レポ33で触れた平安後期の僧・覚鑁(興教大師1095-1145)は、鳥羽法皇の帰依をえて高野山を復興。阿弥陀・大日同一説をとなえ、念仏聖を奨励し五輪塔を広めるなど、真言宗の大衆化を図ったが、かえって高野を追われるにいたった。しかし、莫大な富をもたらす庶民信仰はついに高野山を席巻、中世には全国からあつまる信者のため、安達泰盛らが五輪塔型の町石をたて、奥の院には納骨した庶民による大量の五輪塔石があふれた。いつしか密教学もすたれ、念仏聖の庵がたちならび、印融の時代には極楽往生一色にかわっていた。・・・


 印融の墓がある観護寺は、JR横浜線の車窓からもみえる。このへんは古代の牧のあとともいわれ、けして仏教都市のような場所ではなかった。印融の活動範囲が著しく地元・南関東にかたよっていたことは、考えてみると不思議なことだ。この時期、すでに関西には密教研究にひつような文献などが乏しくなっていたのだろうか。

 印融が伝領した高野山無量光院の開祖とされる覚法法親王は、かの覚鑁の弟子だった。いまも新義真言宗の祖と仰がれるように、覚鑁そのひとは大伝法院をひらき、ひろく天台・真言の密教教学や伝法灌頂をおさめた人だったから、必ずしも仏教の衒学化・大衆化だけが本意であったわけではない。印融は、行き過ぎた大衆化でうしなわれた密教法脈の方にも、関心があったのだ。

 高野聖の歴史については、教科書にもでていないため、知られるところがすくない。中世まで、さまざまな宗派はクロスオーバーしており、「浄土信仰は恵心僧都源信がひろめたもので、もともと天台系だったのでは・・・」などという教科書的詮索は、あまり重要ではないらしい。たとえば奈良の長谷観音は新義真言宗の本山のひとつになったし、中将姫の往生で名高い当麻寺は真言・浄土兼修。現在は地味な時宗も、高野聖系の勢力がのち強制的に真言宗・浄土宗に繰りこまれるなどしたため、ほんらいの規模を失なってしまっているだけだという。


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