トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第291号 


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もちださんの鎌倉リポート No.291(2018年1月27日)



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印融法印・2



浅間砦附近から
 宅間上杉憲直のことは、「足利治乱記」「今川記」をはじめ多くの書に「武州榎下ノ城主上杉陸奥守憲直」とみえているが、城そのものについては何も語らない。印融の晩年には、扇谷家を籠絡し関東に進出した北条早雲(1432/56?-1519)が、ついにその正体をあらわにし、武蔵にも激しい戦乱がおよんできた。

 憲直の死後、榎下城がある都筑郡は扇谷上杉の家宰・太田道真の領地になったとの説(永享記)もあるが、定かでない。小机郷は早く「太田資益」にあたえられた記録1361もあるらしい。ただこの「資益」は太田系図の一本にしか記述がなく、あるいは鎌倉・室町両幕府につかえた太田時連(1269-1345本姓・三善氏)ら、まったく別の一族かもしれない。「資益」は道灌が死んだ糟屋とも姻戚関係にあったが、じっさい道真・道灌らの太田氏(源)とどう繋がるのか定かでなく、郡内の茅ヶ崎城(横浜市都筑区)には太田氏とおなじ摂津源氏多田行綱築城だという伝承もあるが、それ以上のものではない。

 土地の伝承では、城主を山田右京進、家老を蘆垣浄泉(城主とも)とつたえている。山田右京の名は後北条氏の「小田原役帳」から推定したと思われ、ちかくの畑に「塚」と伝えるものが近年まで残っていた【写真4】。半端な石塔が散在していたが、「風土記稿」によれば寛永四(1627)の年号があったとされ、じっさいに中世とむすびつくものかどうかは微妙なところ。



GoogleMap 南より(上)北より(下)
 また、現在の旧城寺の栞によれば、慶長ころ城跡にすんだ佐藤小左衛門なるものが寺にし、三河から流れてきた落武者・苅谷氏を婿にして託したともつたえるが、その開基塔は「婿」とされる旧家が先祖書をもとに後世にたてたもので、ほとんど取るに足りない。「落武者を婿にする」という物語にしても家康の先祖・徳阿弥伝説とおなじなのだ。芦垣氏も西ノ前砦の辺に旧家としてのこり(下地図参照)、浄泉の名は「城前谷」などの小字あたりから出たものと思われるが、たんなる按摩の名前だという説もあった。山田氏や佐藤氏に至っては、もはや影も形もない。

 城跡は丘陵の端の、10mもないような舌状台地を利用した方形館に近いものとかんがえられ、基本プランには古様な特徴をのこす。ただし異常に高い南側土塁(大手)など、ところどころに後北条時代の改修の痕跡もあきらか。南の峰筋をとおる「鎌倉古道」のほうが高いので、やがては鉄砲を通さない高土塁などが必要となるのだ。

 江戸城をはじめ、道灌の築城時そのままの城はひとつも残ってない。ただ両上杉の合戦を「関東の戦国時代」の幕開けとみる説もあるように、15世紀末にはずっと広大で高度な城郭が造られるようになる。ちいさな城館を付け焼刃でなおしたような脆弱な城をいちからつくるはずもないので、やはり榎下城はそれ以前からあったことになる。


 図は近代以前の地形をしめしたもので、現在との標識としてJR横浜線の位置(白線)をくわえてある。鶴見川(恩田川)はかなり蛇行していたものを近世の新田開発でつけかえたとみられ、ほんらい城の直下で淵をつくり梅田川に合流していたようだ。現在の観護寺がある小山町(村)は、榎下側ではなく対岸の青砥側に属していたことになり、いまの町域が念仏橋(現・小山橋)をはさんで不自然に分断されているのも、こうした理由によるものと思われる。

 別にのべたように、榎下観護寺は現在の河川敷ではなく、かつては城跡附近にあったという可能性もあるのだ(レポ257参照)。

 現在は都市化してうしなわれた中央の古道は、かつて鶴ヶ峰方面から通っていたらしく、いくつか段差のあるクランクがもうけられていた。周囲には複数の砦や小堂が城をとりかこみ、急傾斜地や大池などの湿地帯が自然、防御の役割をはたしていた。板碑は小堂や旧家の屋敷墓などに確認され、古代の古墳群は「地蔵堂」の北尾根筋に分布した。図のすぐ東側には、この附近を通る「中の道」の有力候補のひとつ「中原街道」が通っている。またJR横浜線にそった道は八王子往還で、町田附近(小山田郷)で「上の道」、小机附近で「下の道」にまじわる。



主郭部分と塚。苅谷定吉編「旧城寺」S54.12より
 印融の生誕地とされる旧家跡のちかくには、修行の滝もつたわる。車屋こと岩沢家では「堂屋敷」とつたわる場所柄、代々和尚をだしていたとの伝えこそあったようだが、江戸期の段階ではすでに旧記もうしなわれていたらしく、父とされる岩沢八左衛門なる者の正体も不明。ただ「高野春秋」には久保の人、とあるから、この附近の者であることはたしかだろう。久保村(現・横浜市緑区三保町付近)は谷戸がちながら、近世の郷帳では長津田村に匹敵する430石余りと記されている。このあたりの溝川は細いので、中世以前の技術でも谷戸田を開くには適当だったはず。・・・

 さて、「高野山に永住、49歳で師匠の遷化をうけ、無量光院の住持になった」というのは、前号にのべたように疑わしい。とはいえ、印融が生涯の拠点とした榎下観護寺ないし地域本山たる小机三会寺が、当初から真言密教学の中心地であったとはいいがたい。三会寺の寺伝では頼朝創ともいうが定かでなく、小机の地が北条幻庵ら有力部将を迎え、神奈川湊界隈を支配下におく主要な城下町として栄えるのは、まだまだ後のことなのだ。とすれば当時、三会寺(現・高野山真言宗)を末寺としていた金沢称名寺(真言律宗)の存在を注視せざるをえない。

 金沢文庫を擁する称名寺は、幕府や公方府の衰退後も、儒教系の書物が移された足利学校とならぶ全国有数の学問寺として、のこされた文物の保管・吸収につとめていたと思われる。すなわち、全盛期の鎌倉時代につたわった教学を集積し、各地へ発信していたハブ寺院であったのだ。印融は本末関係や伝法のつてをたよって、散逸しつつある鎌倉時代の法脈を復元しようと志したのかもしれない。


 神奈川アーカイヴに印融による「西院流血脈」がのっている。西院とは京都の仁和寺御室のことで、大日如来から龍猛・不空・空海などをへて宇多法皇(御室)につたわった由緒ある法脈。印融にいたるまでの法脈は、すでに京都から関東にうつっており、付法の場所は鎌倉大門寺・無量寿寺・亀谷堂・佐々目谷遺身院御影堂・雪下相承院・大仏谷小郷入道堂・二階堂故是祐堂・花谷・西方寺・金沢称名寺・武州(柿生)王禅寺・武州石川宝生寺などと、注記がある。

 また「醍醐寺三宝院伝法血脈」(続類従所収)や、「両部血脉私鈔」(史料編纂所本)などにも、鎌倉佐々目谷・極楽寺真言院・称名寺・六浦大道・鳥山楊柳院(三会寺)・王禅寺・恩田延命院(徳恩寺)など、武相地域の寺々の名がみえる。

 鎌倉関連では特に「元瑜方」として執権北条経時の次男・鶴岡別当頼助が仁和寺御室より直接伝えた法脈もあった。「佐々目谷遺身院」とは故父・経時の廟所だった寺であるが、いまは痕跡すらわかっていない。「西方寺」も、伝承ではもともと笹目安養院にあったとか。「無量寿寺」は甘縄にあったとされる律院で、竺仙が開いた金剛王無量寿禅寺(三浦七阿弥陀のひとつ)とは別物。「亀谷堂」は薬王寺・岩船地蔵あたりにあった中原親能の「亀谷堂(レポ139参照)」、または梅立寺などのことだろうか。「相承院」は鶴岡供僧十二坊のひとつ(別当坊)。ちなみに、年老いた印融(85)が最後におとずれた東京青梅にある即清寺は、元瑜ゆかりの寺だった(開基・畠山重忠)。



徳恩寺(現・高野山真言宗)
 柿生の柿で知られる「王禅寺」(レポ162)は三会寺とおなじく、称名寺延命院・等海律師(?-1373)の再興。柿を見つけた等海上人は意外となぞの人物で、長寿寺鐘銘1397にみえる住持等海(建長寺系の禅僧)とは別人。また称名寺開山の律僧・妙性房審海(1229-1304)とは、世代から見て孫弟子であろう。血脈類の伝記によれば、早くに中興した恩田徳恩寺(1335・レポ170)が本拠だったとおもわれ、後世のものながら墓もある。

 等海が三会寺につたえ、のちに印融がまなんだ醍醐寺三宝院の法脈は、かの覚鑁を慕うあまり、大伝法院を高野から根来にうつして分離独立、新義真言宗を旗上げした頼瑜(1226-1304)の系統だった。等海は、その頼瑜の愛弟子で根来から鎌倉佐々目谷にうつり住んだ頼縁からさずかったという。醍醐寺三宝院といえば当山派の修験道ともかかわりが深いから、あるいみ伝法血脈は庶民信仰の伝播とも交差している。

 伝法灌頂とは、いわば修行の総仕上げの儀式・洗礼のようなもので、伝授される内容じたいは真言(サンスクリット)の呪文とか手に結ぶ秘密の印など、象徴的な所作にすぎない。さまざまな血脈に名をつらねた印融は、いわば資格コレクターのようなものだったのだろうが、その付託を一身に任せられるだけの人格を備え、膨大な学識と実践を準備してきたことは、まぎれもない。戦国の世にあって、多様な法脈の散逸・忘失をただ歎くばかりでなく、自身が先頭に立って、朋輩や弟子たちにも惜しみなく伝授している。



宅間上杉がひらいた報国寺
 「幼若にして登山し、事教の業成って無量光院に入職す。開講撓まず、義論は玄に入り、筆記は勝(あげ)て計(かぞ)うべからず。晩年、関東に遊説して談林を興し、論場を創(はじ)む・・・」(高野春秋)、「・・・老後、関左の密法の振るわざるを患(わづら)いて東遊し、武陽鳥山三会寺に止住して化を闡(ひら)く」(野峯名徳伝)などという関西での認識は、ほとんどウソであった。印融はほぼ一生涯を南関東ですごし、活動していた。たった一度(?)の高野訪問も、関東でまなんだ三宝院流を宥深という人物に「授けた」側であったという。すくなくとも一次史料として残された膨大な記録のうえでは、印融が関西の僧から直接印可をうけたことなど、ただの一度もなかったようだ。

 印融が「幼くして高野山に登り、老年まで学び続けていた」かのような通説は、なぜひろまり定着していったのだろうか。むしろ辺境であると勝手にみくだしていた関東のものに、みじめに教えを請うにいたった関西人特有のあせりが、「とりつくろいのための偽史」を必要とし、自己の優越を欺瞞し続けることによって、かろうじて精神の均衡を得るにいたったのだろう、と推測される。

 おもえば印融の時代の京都は、応仁の乱でいちどすっかり灰になっていた。また戦国時代、関西では法華・一向宗の凄惨な抗争があり、一山焼き討ちの先蹤をつくった。信長らは比叡山・根来寺などの僧兵を皆殺しにし、家康も教学の復興とひきかえに、高野聖や山伏といった半俗の僧の規制・撲滅をはかった。建物や仏像の様式ばかりでなく、あまたの僧侶もまた、うつりかわっていったのだ。私たちは改革・復興のすすんだ近世の印象で中世の仏教をみてはいけないのかもしれない。印融の生涯を辿ることは、とりもなおさず鎌倉密教の質のたかさを証明することにもなろう。


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