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もちださんの鎌倉リポート No.292(2018年2月3日)



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中世の鐘 ―鐘について・3―


 小田急が伊勢原駅につく手前、大山のふもとに巨大な東海大学病院が聳えているのが目に入る。ちょうどその下あたり、下糟屋の集落に高部屋神社があって、鎌倉公方足利氏満(管領・山内憲方)の時代につくられた鐘1386がかかっている。中世の鐘は県内にもいくつかあって、だいたい大晦日にだけ撞くところが多いが、文化財ながら自由に打つことができるものも、なかにはある。

 願主「平秀憲」、鋳物大工は「河内守國宗」の銘が彫られている。河内守家は、鎌倉時代に活躍した物部鋳物師の作風を継承した清原姓の工匠であるらしい。


 よくわからない文言もあるが、デジカメでとった【実物の銘文】を読み下してみると、おおよそ次のようになる。鐘銘には異体字も多く、実物か拓本でなければ解読はむずかしいのだ。

大住郡糟屋庄惣社八幡宮鴻鐘銘
夫れ当社は瑞籬最も久しく、威光は森明にして星霜甚だ旧く、利生は新たなるに倍せり。晨晩の雲晴れて雨は栢城を排き、宵暁の月寒く風は宮甍に響く。霊夢静かに覚めて夜五更を凌ぐに、鳧鐘の声を待てども孰か三聖を驚かさん。茲に因り一身を励まして微かに弘精を里に営み、亡父の宿願に依って功業を成して、既に三熱を醒まし楼榲に眠る。寔に四摂に帰して閣遅を覚ますのみ。
仰ぎ願わくは、天地の長く久しく国家世を治め、信心の檀那の家門繁昌、息災にして福を増し、悉く法界に弘めて一切の郡類の利益等しからんことを。
        願主、平 秀憲。
至徳三年(丙寅)十二月 日。
        大工、河内守国宗。


 式内社に比定され、高部屋神社に改められたのは、比較的後世のことであるらしい。高部屋神社はここではなく、高鴨の神をまつる高森神社のことだという異説もふるくからあったようだ。本殿は鶴岡八幡宮若宮に似た五間流れ造り、さして古いものではないというが、拝殿のうらにまわれば瑞垣もなく、神扉のすぐ近くにまで登れる。むかしあったという応永年間の石燈籠にも、「正一位八幡大菩薩御廟」などとあり、拝殿には「高部屋神社」の古額のほか、「八幡宮」と書かれた額(悦山道宗筆)も収めてある。

 「高部屋」という地名はじつはもっとずっと山寄りにあり、上糟屋(いまは上粕屋)の東北、日向道に同バス停があるほか、さらに奥の渋田山に旧社地・元宮があるらしい。そこは現在地の下を流れる渋田川の源流域で、雨乞い信仰に関係があるという。そうかと思えば海洋信仰ともかかわりが深く、ここでは「汐汲み神事」といって、太古に「住吉の神」がやってきた道筋を清めるため、大磯から塩のしみた砂や海水・海草をはこんでくる。その海草は製塩につかうホンダワラで、注連縄に飾られる。

 火災で古記類はうしなわれたというが、いまは神武天皇を主祭神とし、八幡・住吉の神々を併座している。かつては神宮寺・薬師堂・観音堂などもあり、上杉定正がおさめたと伝える大般若経の残巻ものこっているとか1483。また他の経典には「大旦那源朝臣頼重」なる者の署名があるほか、本来は「愛甲新熊野宮」に施入したものだとする記載もあるという1434。



丸山城址・旧大山道(奥は神社)
 境内のすぐ裏側に、国道246(現代の大山街道)の切り通しを渡す陸橋があり、これをわたると「丸山城址公園」にでる。広場の端にわずかながら土塁ものこっているが、そこを本丸として、神社の建つ舌状台地一帯もまた、かつての城のいちぶだったという。かつての旧大山道は鳥居のまえをとおる道で、台地上の集落には糟屋上宿・下宿の地名ものこる。中世の城では鎮守の寺社や根小屋(城下町の原型)をはじめ、街道や宿を内包するものもあるから、城のいちぶと考えてとくに不自然はない。台地をはさんでながれる渋田川・歌川は外堀にみたてられる。

 ふるくはここが糟屋氏の城とされ、あるいは太田道灌が討たれた「上杉定正の糟屋館」だという説もある。糟屋館は別に上糟屋にあったという説が古来有力(レポ247参照)で、糟屋氏の菩提寺「極楽寺」の跡も上糟屋にある。ただ、道灌の首塚は下糟屋、胴塚(荼毘塚)は上糟屋にあり、菩提寺も大慈寺・洞昌院と、それぞれにあって解釈をややこしくしている。

 また、「亡父の宿願」で鐘を寄進した平秀憲はなぞの人物で、上杉秀憲にあてる説もあるが、同名人が「下野国長沼にいたらしい」というだけだ。糟屋氏も上杉氏も「平」姓ではないため、該当する人物はいまだ謎につつまれている。近隣豪族では愛甲石田の石田氏、また岡崎(佐奈田・土屋)氏などが平姓三浦党にあたっているが、和田合戦・宝治合戦などで衰退、この時期の動向には不明な点が多い。なお、ちかくの普済寺は15世紀なかばに「上杉寺月鑑明公」なるものがひらいたという。


 伊勢原市内に中世の鐘はまだいくつかあり、日向薬師のもの1340は以前紹介した(レポ245)。駅の南、沼目の八坂神社にも応永十年1403の梵鐘が残っている。もとは「天王社」とよばれ、熊野・山王を相殿とした本山(天台)修験の寺でもあった。「祇園宮(祇園感神院)」とは八坂神社の仏教的な呼称。檀那「道珍」以下、鎌倉公方満兼(管領・犬懸朝宗)の時代の人で、いずれも詳細不明。前公方の挙兵を阻止するため諫死したとされる管領山内憲春(1334?-1379)の法名が「大澤院殿高源道珍」とつたわるが、時代があわない。ただ故人の名義で追善と顕彰に資した可能性もなくはなかろう。

大日本国相模州大住郡糟屋荘沼部郷祇園宮新鋳巨鐘。その銘の詞に曰く、
祇園の花は綻び寿嶽は春を迎う。沼の地に泉湧き福源の波を湛う。法材を一指に根ざして願輪を六つの街に転じ、或は貴官長者を求め、或は信男信女を化さん。
施功は已に熟し巨鐘円成す。一百八の洪音は三界昏衢の夢を覚まし、千二百の功徳は四生に省悟の機を発こす。一人苦域を出でて人々楽邦に入る。専ら祈るらくは、皇風は永く扇ぎ、徳声は檀門に溢れ、仏日は高く懸かり、慈光は梵苑に輝かんことを。
応永第十癸未小春日。
大工、和泉権守恒光。
檀那、沙弥道珍。
幹縁、惣持住持比丘周持。


 鏨(たがね)で彫った文字がどれだけもとの字体をつたえているかは微妙だが、高部屋神社の華奢で流暢な書風とくらべ、いかにも僧侶らしいごつごつした文字だ。鐘の音は、黄鐘調(≒イ音)を基準につくられるらしいのだが、指ではじいた時と撞木を当てたときとでは、ちがった音価を奏でる。いわゆる倍音(ハーモニクス)だ。カン高い音を甲音といい、もーん、と籠るような低い音を乙音という。ううむ、と首を傾げる変な珍味を食べたさい、「・・・オツな味ですな」というのはこれに由来。波長がひくいので、ときおりそよかぜにさらわれて、もわん、もわん、とゆらいできこえたりもする。黄鐘調は雅楽や能楽の調律の基本ともなったので、可能な限り正確につくられたらしい。

 鐘はただ日暮れ時をつげたり、諸行無常の悟りを促したりするだけのものではなかった。「この鐘をわずかな機縁として願いを六道流転のものたちに拡げ」・・・世界の平和、檀家の繁昌等、在俗の人々に現世の幸福をもたらす呪力への期待も込められていた。

 沼目八坂神社は殺風景なバネ工場(写真の右の方)の敷地の裏にあるのだが、すぐそばの産直チェーン「わくわく広場」の屋根のうえには、真っ白な富士山がみえた。大山・丹沢のふもとに近づくと、かえって隠れがちになる富士の嶺も、山際をやや離れるとよくみえるのだ。旧糟屋荘にはもうひとつ、「極楽寺」の鐘が明治の初めまで残っていたというが、いまはない。



拓本「上粕屋極楽寺鐘」(集古十種より)
 戦国時代には、鉄砲の弾にするため供出を求められ、鋳潰された鐘も多かったという。先の大戦でも、同じことがおこなわれた。アジアのため、「アジアの未来」のためにアメリカと戦って、すべての日本人が犠牲になるのだから、だれもが等しく死に、自己を抹殺しなければならぬと説く者がいた。かれらは「全世界の全てを知り尽くした進歩的文化人」、そう自称していた。

 お前は自己を抹殺して私共と苦痛を分けるに至つた、
 梵鐘よ、
 ・・・お前の悲痛な現実に、
 新しい信仰と歓喜がないと、ああ、誰が断言しよう。
 誰か御前が名残りの鳴動、
 否な、応召の歓呼に、
 殉国報恩の叫びを聞かないものがあらう。 
            (野口米次郎「八紘頌一百篇」より)

 英文学者・野口米次郎は、アイルランド独立運動にふれ、あるいは大手マスコミの斡旋で魯迅、タゴール、ガンジーらと現地で会見するうちに、民族の悲惨な現状を知り、しだいに「聖戦」思想にとりつかれていった。かれらが胸をおどらせた、「新しい信仰と歓喜」「応召の歓呼」とは、いったいなんであったか、いまでは知る由もない。


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