トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第293号 


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もちださんの鎌倉リポート No.293(2018年2月7日)



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中世の鐘 ―鐘について・4―


 西洋の鐘にも、かつては「われ怒れるものの心をやわらぐ」などの格言が彫ってあったと言う。やがて近代化とともに、鐘の銘も寄附した金持ちの芳名帳のようになって、味気なくなったというのは、日本と同じだ。ユイスマンスの小説「彼方」には、「ローマ教会のほんとうの音楽は鐘の調べだ」という、脇役カレーのせりふもでてくる。

 西洋の鐘といえば、学校のチャイムでおなじみのウェストミンスターの鐘とか、複雑な機構によりメロディをかなでるものもある。イタリアで「お国自慢(campanilismo)」とは聖堂の鐘のひびきわたるところ、といういみがあるらしい。つまり、音の響く範囲が故郷ということなのだ。むかし好きだったL.V.ウィリアムズの「ブレドンの丘(歌曲集「ウェンロックの崖の上で」)」には、鐘の音をめぐる恋人たちのせつない物語がうたわれている。あれも、原作の詩集につづられる英国のごくありふれた、なにもない土地(The Land of Lost Content)での話だった。


 日本人にとって鐘には、それほどの親しみはないのかもしれない。住宅密集地ではうるさい、などといって騒ぐ人もいるから、首都圏ではほとんど聞かれなくなりつつある。杉田の東漸寺にある永仁の鐘は、住職が薄暗い本堂の奥に秘蔵してしまったため、ほとんど価値を失った。鐘楼に吊っているのは似ても似つかぬ近代の物で、そのくせ「永仁の鐘ではありません」などと、思わせぶりな張り紙まである。

 相模国分寺の鐘1292は、わざわざ井戸のように掘り込んだ穴のなかにコンクリの鐘撞き堂ごと活けてあり、だれも近づけないようになっている。銘文をよみたい者にとっては、実にばかげたしろものだ。その銘は聖武天皇の創建、鐘は「魔界降伏」の音であること、いまこの鐘を再興するのは「天下静謐」「子孫泰平」ないし「法界平等(*すべてのものへの)利益」のためであること、云々。鋳造大工は物部国光、すなわち東漸寺1298・称名寺1301・円覚寺1301の鐘とおなじ人物だという。

 徳富蘇峰の「関東探勝記」1928によれば、村の子供が石を投げるため、銘文は下部が摩滅してよみ難くなっているとのこと。なぜそれほどまで忌み嫌われていたのかは不明だ。



七重塔基壇。中央奥の木立が現国分寺・薬師堂跡
 「いきものがかり」のさくらの発メロが流れる海老名駅を出ると、にぎやかな商業施設群「ビナ‐ウォーク」が展開し、中庭(中央公園)には街のシンボル・旧国分寺の巨大七重塔のハリボテ模型が出迎える。1/3スケールとはいえ、すでにふつうの塔の大きさなのだ。実際の旧国分寺跡は「ビナ‐ウォーク」のうしろの河岸段丘の上にあって、案内板もないから、崖上にでるのはちょっとややこしい。現国分寺はやや南、旧大山街道に準ずる国分坂の切通しの崖上にある。坂下からみて左側、「海老名の大欅」がたつ脇道をのぼるとみえてくる。

 国分寺のルーツは聖武天皇の詔741により諸国にたてられた大寺院。所依の経は唐代に新訳のでた「金光明最勝王経」で、四天王などの護国思想をとき、宮中の御斎会をはじめ吉祥悔過、放生会などに盛んにもちいられた。尼寺は女人成仏を説く「法華経」。奈良時代の旧国分寺跡は広大な芝生広場になっていて、廻廊・中門・僧房などは舗装標示、金堂跡はマウンド(盛土)、塔跡だけ化粧基壇を復元してある。東側の車道を北へむかい、相鉄の踏切をこえてさらにすすむと旧国分尼寺跡があり、こちらは金堂跡に木立がしげり庚申祠がたつなど、発掘前の旧状をよく残すような保存がなされている。全国の国分寺跡としては有数の規模であり、保存状態もかなり良好だとして、もっとも早く史跡に指定された。

 旧国分寺跡の傍らには「温故館」という無料の市立考古資料館があり、復元模型や出土物に加え、周辺遺跡からでた縄文・古墳や中世の遺物もならんでいる。展示フロアはけして広くはないのだが、館員さんもフランクだし(笑)、品数もかなり充実している。



ビナ‐ウォークの模型・尼寺跡・出土の相輪片(温故館)
 奈良時代の相模国府の場所は諸説あるが、さいきんは平塚(大住)説に収斂し、比々多、足柄、海老名(高座)、大磯(余綾)等は「あったとしても一時的なもの」として消極的な主張にとどまっている。巨大国分寺・尼寺のセットが、港ちかい国府ではなくて内陸の海老名におかれた理由は不明だが、当初は東山道に属していた武蔵国がやがて正式に東海道に編入771された背景に、海岸沿いを鎌倉・走水・上総へむかっていた古東海道が廃れ、すでに海老名経由武蔵行きの内陸ルートが主流になっていただろうことと、関係があるのかもしれない。

 ただ、相模国分寺・尼寺も何度か災害に遭っている。国分寺は全国一斉に国家鎮護の祈祷を行う重要な場所だから、別の寺に臨時の名義移転をおこない急場をしのいだ。国分寺では南の丘にあった薬師堂(上の台廃寺)がそれにあたり、近代の国分坂切通しを隔てて隣接する現国分寺はその後身とみられている。尼寺は北西にあったと推定される湧河寺(漢河寺)といわれ、変遷をへて東側の嶺筋(大松原)の頂きにある「水堂・清水寺(観音堂)」となったといい、やがて「龍峰寺」という後世の禅寺の末寺となって、いまはその龍峰寺が居候し、ちゃっかり龍峰寺をなのっている。

 鐘銘には「医王善逝之聖迹」の文字がみえるから、鐘はつくられた時点では薬師堂に所在していた可能性がたかく、現国分寺(本尊・薬師)に伝わるのも当然のことのように思われる。ただし鐘銘の冒頭には「大日本国相州国分尼寺槌鐘」と題されており、ちょっと訳がわからなくなる。仮に薬師堂が尼寺とされていたなら、頼朝らが再興したという僧寺は、そのころどこにあったのだろう。旧国分寺跡には、平安以降に再興されたとおぼしき痕跡はないのだ。もしかして鎌倉大仏が「国分寺だった」という俗説も、あながち妄説ではないのかも・・・。



上郷遺跡附近・出土の石塔
 鐘を寄進した「大檀那源季頼」は国分次郎左衛門尉こと海老名季頼。海老名氏系図によれば、季貞(季定)の三男・有季が附近の国分郷を分与され国分三郎となのり、そのひ孫にあたっている。海老名氏は本来、武蔵七党の横山党小野氏の末であるが、著名な季貞の代には、父が外祖父である源有兼(村上源氏)の猶子になっていたと主張、すでに公然と源氏をなのっていた。支族は国分家のほか、北西にあたる依智の本間家、南方の下海老名家など。本来の横山党関係では愛甲氏なども同類だ。

 海老名一族は和田合戦に敗れるなど徐々に衰退、室町期には馬術・騎射の名家として知られたが、永享の乱では公方持氏を本拠にある海老名道場(河原口)に迎え、やがて持氏とともに敗走し六浦「引越の道場」で自害した。その墓というのがかつて上行寺東遺跡あたりに伝えられていたらしい。海老名館附近では、有鹿神社前の水道道に上郷遺跡というのがあり、いまは新しい碑がたつのみだが、室町期の大量の五輪塔類が出土、一族の墓地とみられている。石塔類の一部は「温故館」にも展示してある。

 国分家の舘跡はさだかでないが、鬼門の鎮守と伝える打出稲荷は河岸段丘のへり、旧国分尼寺跡の南西にあたるから、もともと尼寺には檀那寺などとしてゆかりが深かったのかもしれない。 



龍峰寺山門の仁王1751
 伝説では、・・・かつて海老名の低地は大きな湖だった。現国分寺門前の大欅は船の杭であったという。だがこの地に七堂伽藍がたつと、その光で魚がまったく寄り付かなくなってしまった。苦しむひとびとを救うため、ひとりの尼が巨大な伽藍に火をかけ、焼き払った。やがて尼は死刑となり、その涙は清水となって、この地に絶えることなく湧き続けている、・・・と云々。

 中世のひとびとにとって、けっきょく巨大寺院の存在は負担でしかなかったのかもしれない。湖というのは、律令制の条里阡陌であったという広大な海老名耕地開拓の労苦をあらわしているのだろうし、船というのも、下流の国府(平塚)へ通う相模川の盛んな水運をあらわし、きらめく光は領主らの過酷な重税や、再建費などのしつこい要求、殺生禁断、庶民による狩りの禁制(後北条時代)などのうるさい掟を投影しているのだろう。旧国分寺跡ふきんには、かつて逆川という運河のようなものが台地の南から北へながれており、船着場跡とみられるものも発掘されている。

 ・・・さいごに、小高い丘陵の頂にたつ龍峰寺をたずねた。村の合社としてたてられた弥生神社の参道・石段をのぼりつめ、社殿のすぐ裏側にあがると、ちいさな山門がある。境内にはなぜだか信楽ににた焼物細工がいくつかぶら下がっていて、鉢には実がついた綿の枝が、あちこちに生けてあった。住職らのホビーなんだろうか。


 正面の堂がかつての「水堂・清水寺」で、いまは御前立ちをおさめる。清水寺式観音は堂後の収蔵庫にあって、玉眼などから鎌倉再興期における丁寧な復古作ではないかという。伝説では京都清水寺の秘仏と同時につくられ、縁あってここに流れ着いたもので、鎌倉時代に土中から発見、頼朝が寺の再興を命じたとされる。そう、・・・鎌倉長谷寺の縁起物語とおなじなのだ。水堂が尼寺・または湧河寺の後身という直接的な証拠はないそうだが、法華経を所依する尼寺に観音はふさわしい。ただ残念ながら、開帳日にしかみられない。

 門前には忠魂碑がいくつかたっている。前述の徳富蘇峰によれば戦前、乃木大将の揮毫した戦没者慰霊碑をたてるため、まだ文化財の知識がない村の役人が国分寺跡の礎石を大量に掘り出して、その土台石に転用していたという。この忠魂碑の写真もとりたかったが、ちいさな女の子がそこをおままごとの秘密基地にして遊んでいたので、やめた。子供は遊びが仕事。

 もとの道を神社の方へ降りると、見下ろす町のむこうに相も変らず大山がそびえていた。かつて旧国分寺の巨大な塔が建った海老名の街には、「ビナ‐ウォーク」・「ららぽーと」などの巨大商業施設がたちならび、まるで大山を遮ろうとでもするかのように、100mクラスの集合住宅も続々ふえつづけている。やがては郊外の住環境も、劇的にかわってゆくのだろう。


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