トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第294号 


▲もちださんトップへ戻る

もちださんの鎌倉リポート No.294(2018年2月15日)



No.293
No.295



無名寺社紀行・12


 鎌倉の旧市内にも、近代に移転してきた寺がいくつかある。たとえば泉水の松久寺は、もともと東京白金高輪の「清正公」の傍らにあって、道路拡張のため移転したらしい。

 こちらは浄光明寺のとなりにある妙伝寺。額には「多宝谷山」とかかれており、鎌倉時代には多宝寺があったところ。いまの寺は東京白山にあった日蓮寺院が移転1974してきたもので、もとは「正信山」をなのり開山は日禅、紀伊大納言徳川頼宣の祈願所であったという。

 多宝寺は日蓮が敵視した忍性がひらいた寺で、極楽寺を開基した北条重時の子、業時による姉妹寺院にいちづけられる。鎌倉幕府滅亡時、極楽寺一門はこの辺から化粧坂口を担当したらしい。浄光明寺絵図に「守時跡」の記述があるとおり、一門の邸宅はこのあたりだったのだろう。裏山にいまも覚賢塔(レポ35)がのこっている。かつては畑があり、塔まで登れたようだが、いまは墓地奥には塀がめぐっている。そもそも観光寺院ではないし、入り口も民家っぽく、それらしい看板もない。門柱もアプローチも農家時代そのまま、といった感じだ(下)。


 goo地図などの古地図サービスによれば、妙伝寺はかつて東京・白山神社に隣接する寺町のうち、南西に龍雲院・妙伝寺・本念寺とならんでいた。参勤交代で諸国の大名が集まった江戸には、異常な数の寺があったのだ。戦後、白山通りが開削されるにつき、妙伝寺だけが移転。妙伝寺は度々の火災で古文書が焼失し、江戸にありながらくわしいことは不明。紀伊頼宣の母・養珠院(お万1580-1653)は禁断の日蓮宗不受不施派の熱烈な信者であったため、その没後は庇護をうしなって衰微していったのかもしれない。

 開山とされる日禅(?-1331)は日興門下であるが、近世には養珠院が駿府で中興した蓮永寺(日持創)の末となっていた。日持(1250-?)は日興の盟友であったものの晩年は不和になり、蝦夷地にわたったという「伝説」ものこる。戦前には「シベリアを経て、モンゴル皇帝を教化した」などの法螺話もつくられた、謎の人物だ。

 家康の妻・養珠院お万は三浦道寸の子孫とされ、母は北条氏尭の娘、小田原陥落後に家康の側室になった。出自は幕府の公式見解だから、ほんとうの所はわからない。養珠院は鎌倉浜土の法華寺を伊豆玉沢にうつし再興1606。また、紀州家老で支藩・熊野新宮藩主でもあった水野淡路守重良(1596-1668)を檀那として再興させた高松寺1642が、かつて西御門にあった。寺号は、お万の姪にあたる重良妻生母、故・高松院妙寿日仙(1641没)を開基にあて、追福したことに由来。開山には重良の娘・日隆尼(1640-1672)が幼くして撰ばれた。その妹という二世・日祐尼(1644-1691)は十四歳で跡を継ぎ、池上(比企)自証院日詔(1569-1617)が草創したぼたもち寺こと常栄寺1606の、中興開基1672ともされている。ただ日玄が池上に移した1689との説もあり、その前後ははっきりしない。高松寺は三世を義弟が継いで僧寺となり、大正の震災により宮城県栗原市に移転、いまはテニスコートとなっている。


 池上本門寺の周りには多くの子院があり、南之院は六老僧の一番・日昭。照栄院は二番・日朗、それぞれの庵が発展したものとされる。日蓮宗はさまざまな「法難」を利用してきたことでしられるが、真の法難はむしろ宗門の内部分裂にあった。

 最初の分裂は日興らの身延追放で、六老僧のうちでも比較的わかい日興の独善的態度が原因だったようだ。ついで「不受不施」の争論がおこる。鎌倉公方府や徳川幕府などの権力を【利用・従属】するか、【否定・敵対】するかの対立で、池上などの強硬派は争論を幕府の裁定にもちこんでみずから墓穴をほり、「邪教」として弾圧をまねいた。わざわざ「反権力」の認定を権力に求めるのだから、確信犯というしかない。

 南之院の門外墓地にあり、ひょうたん(落款)型の墓石が目を惹く狩野探幽の墓(レポ217)なども、昭和のはじめまでは別の寺にあった。日達(1586-1661)の創建、三田の麻布山大乗寺といい、かつては上野国小幡藩主・織田信良(1584-1626。信長の三男信雄の子)家の菩提寺などとして栄えたらしいが、不受不施の寺として早くに天台宗へと改宗させられてしまった1698。小幡藩はこんにゃくで有名な群馬県甘楽町にあり、織田家の嫡流とされた名家のため、小藩ながらも国主(大大名)格の待遇があったという。改宗後、大乗寺は織田家との縁も切れ、いまは中目黒にうつって永隆寺となのっている。


 大乗寺の日達はまた、鎌倉に薬王寺を再興した。実質的な中興開基は織田信良の娘・松孝院久姫(妙行日久1614-1690。本名・昌子)。すなわち駿河大納言忠長(1633没)の妻だ。忠長の横死後、松孝院は姫路から帰った天樹院千姫(1597-1666。家光・忠長の同母姉)の庇護をうけていたらしい。千姫らの亡母(お市の娘・崇源院お江)も織田一族だから、松孝院はたんなる「謀反人の妻」「弟の嫁」というだけではなかった。しかも千姫は豊臣秀頼の遺児(義娘・天秀尼1609-1645)さえ保護していたのだ。松孝院による追善供養は中興三世・日bのころといい、現存の供養塔には六世・日超の署名もみえるから、再興は最晩年にわたったとみられる。

 ただ三田大乗寺と同じく、薬王寺も禁断の不受不施の寺だったゆえ、大火1720の後は衰微。寺宝も多くは他の寺などからうつしたものらしい。本尊は艶福家の十一代将軍・徳川家斉が妖僧・日啓にたぶらかされ、大奥最大のセックス‐スキャンダルに発展した「感応寺事件」の、破却された寺の旧本尊が、保管していた池上本門寺から近代になって移された。本門寺には、近年まで藤沢に住む娘婿の屋敷墓にはいっていた大窪詩仏(江戸の書家)の墓石なども、移設されている。

 薬王寺の寺宝のなかには法隆寺六観音(白鳳時代)そっくりなものもあり、これはさすがに本物かどうかまゆつばなので、HPにも写真だけで、解説がのっていない。境内上部の観音堂には前立ちの仏像がたっているが、それよりも振り返ってみる町の眺めが、なかなかのもの。・・・墓地のてっぺんには、断絶した伊予松山藩主・蒲生忠知(1634没。享年31)の未亡人と一人娘の墓がある。この忠知にも、いわれなき「ご乱行」の噂があるという。


 白鳳仏といえば、調布の深大寺。ただし本堂の下から出てきたというだけで、伝来はいまも謎につつまれている。

 町田市成瀬にある東雲寺の釈迦堂。ここにも白鳳時代とみられるほんのちいさな誕生仏がおさめてある。かつて位牌堂の仏壇の奥からみつかったというだけで、由来は不明。どこか近傍の白鳳寺院跡から来たのか、小山田領とよばれた中世のある時期に、上方の和尚が霊仏として持って来たのか。いまの寺は龍谷性孫(1536寂)の草創、後北条氏関係の小机雲松院の末というので、戦国以前にはさかのぼれない。もともと寺は川向かいの城山(成瀬城跡)にあったといわれ、城とともにほろんで江戸前期に現在地に移った。たぶん隣接する成瀬杉山神社に附属する、別当寺になったのだろう。像には火災の痕がある。

 成瀬といえば人気歌手のaikoさんが上京後、下積み時代にレコーディングに通っていたことでしられ、ちょっとまえまで町田のレコード屋に特設コーナーがあった。現代人にとっての「神話」とか「聖地」といえば、むしろそちらの方面なのだろう。また同市郊外(玉川学園)には狐狸庵先生こと遠藤周作さんなどがすみ、文学館「ことばランド」などもある。観光地でない、ありふれた街にも、秘められた歴史は多い。


 いぜん紹介した阿野全成ゆかりの威光寺の後身、川崎市高津区長尾にある妙楽寺薬師堂。「江戸名所図会」では丘陵上部、長尾神社との間の高台にえがかれており、旧地は現在、民家になっている。「薬師堂・・・同所妙楽寺、別当たり」とあるから、寺号を失ってもいちおう別院あつかいはされていたらしい。旧薬師堂山の裏斜面には大師穴という巌窟があり、「風土記稿」には内部に月待板碑1492があったことをつたえる。

 かつて威光寺の場所には諸説あり、東京雑司が谷・鬼子母神法明寺(日蓮宗)の前身かという説(風土記稿)などもあった。だがこの薬師堂本尊脇侍の胎内銘によって、ほぼここが比定地として確実視されるようになった。

 文献記録としては、室町時代に地域本山になった東京・深大寺の僧、花光坊長弁の「私案抄」(国会図書館蔵)に、「長尾山藤本坊の所望」によって代筆した「威光寺洪鐘勧進表白文」1405がのっている。そのころにはすでに威光寺が、深大寺や影向寺などの周辺寺院と同様、慈覚大師円仁の「分身の徳」によって創建されたと主張していたことがわかり、「勤行の巌窟冷々たり」とあるのが大師穴にあたるようだ。「分身」とは、円仁が自ら弟子を遣わして、というほどの意味だろう。江戸の碩学・小山田与清は「松屋外集」にこれを引用、「妙楽寺・・・これ威光寺の遺趾なり」と早くも断定している。


 いまある妙楽寺(妙覚寺)の創建時期はさだかでなく、江戸前期の「寛文年中」とする資料(武蔵通志など)もあるが、民間伝承では「長尾景虎が霊夢に僧のお告げをうけ、霊窟のほとりに桜の霊木を得て病を癒した。その返礼として妙楽寺をたてた」という。景虎とは上杉謙信の本名だ。

 もともと妙楽寺は威光寺の子院だったとみられている。この地は太田郷長尾村といわれ、かつては太田道灌と長尾景春が争ったであろう土地柄。「小田原役帳」には太田新六郎の名がみえる。かりに伝承を信じれば、謙信の小田原攻め1561のさい、長尾氏寄りの檀家が謙信に従って分立し、妙楽寺ができたことになる。経緯は不明ながら、おそらく領主の交代、住持の追放などによっていつしか妙楽寺がのこり、威光寺の名は廃された、ということなのだろう。

 この地は展望にすぐれ、砦としてりようされたこともあったらしい。民間伝承では平将門の陣とする説もあった。1504年には北条早雲が一時、ちかくの枡形城に入っている。薬師堂本尊の胎内銘に「永正六年」1509、「威光寺」の文言がある脇侍日光菩薩胎内銘に「天文十六稔」1547とあることから、威光寺にまず兵火があったのは、これらの像の再興以前ということになる。


No.293
No.295