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もちださんの鎌倉リポート No.295(2018年2月24日)



No.294
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無名寺社紀行・13


 明王院まえの二つ橋と明石橋とのあいだにある石塔だまりには、「新編鎌倉志」1685の時点でちいさな堂があったらしく、「大きなる仏像の首ばかり、草庵に安置す」と描写されている。光圀はこれを北条政子三回忌に建てられた「大慈寺丈六堂」1227の名残りかと推定した。仏頭は現在、光触寺に安置されているが、近世の粗悪な修復をさておいても、創建当初のものかは疑問らしい。また、無縫塔には幕末の年号があり、いまは金沢龍華寺の管轄にあるという。

 大慈寺は五大尊明王院(五大堂寛喜寺1235)より古く、「平安の歌人・文屋康秀が相模掾のときすんでいた霊験の地」であるとする三善善心の夢想にもとづき、栄西を開山として実朝将軍が創建した(吾妻鏡1212)。禅寺というよりは四宗兼学の密教寺院だったようで、三重塔など多くの堂塔が整うのは実朝・政子の没後になってから。北条時氏(経時・時頼の父、早世)の墳墓堂1232などもたてられ、時頼のころ大規模な修復供養がおこなわれた1257が、その後も永仁の大地震1293などに遭っている。


 現存する明王院は、山ノ内・禅興寺のうちにあった明月院などと同様、たまたま一子院が存続したというものなのだろう。その明王院にしても、現在は撮影禁止のささやかな堂をのこすのみ。裏手は崖で、ハイキングコース登り口の支谷もそうひろくはない。前述の仏頭は一説に、明王院の講堂(または新丈六堂)にあったものだともいうが、草庵のためにわざわざ古仏の片材をもちいて首だけ修復するというのも不自然なので、光圀が来る前にはなんらかの大堂がのこっていたのかもしれない。

 大慈寺の諸堂は明王院東側の住宅街にあったらしく、「大慈寺」という文字や五輪塔をデザインした特製の軒丸瓦などが出土しているから、場所はほぼまちがいない。丘の手のイエズス会のところは「能満寺」とよばれていたらしい。金沢街道からはまるみえの、いわば見せる寺であったようだが、昭和初期の「鎌倉青年団の碑」によれば、すでに一片の礎石もなくなっていたという。

 円覚寺の秘宝・仏牙舎利は当初、実朝が「宋・能仁寺から入手」したもので、これを祀るため大慈寺をたてたとする異説もある。「吾妻鏡」によれば舎利は「栄西から相伝」したものらしいが、いずれにせよ大慈寺では恒例の「舎利会」がおこなわれていた。舎利は貞時のころ円覚寺に移された旨が大休正念の語録などにみえるが、おそらく元寇退治などの目的で「舎利殿」建立のさいに借りて、そのままになっていったようだ1285。これが衰退の原因になったのかもしれない。



道灌橋から
 伊勢原市下糟屋にある大慈寺は、太田道灌が鎌倉からうつしたものという。この大慈寺は十二所のものではなく、どうやら英勝寺の裏山にあったというので、伝・道灌墓ちかくの英勝寺墓地あたりだろうか。英勝寺墓地は現在非公開で、下の道からもちょっとだけ見えているが、入り口はふさいである。

 下糟屋の大慈寺はちいさな寺で、道灌橋がかかる渋田川という小川のほとりにある。近世の「道灌画像」をつたえるほか、なにものこされていない。門外にある道灌首塚も、どこにもあるような、わずかな石塔片を整備したものでしかない。川向うの丘陵地が、一説に「道灌暗殺の糟屋館」の比定地のひとつ、丸山城跡の一部とされる。

 「風土記稿」に、縁起を綴った近世の小鐘銘が載せられているのは、本堂の簷先にぶらさげてある半鐘のことだろうか。それによると覚智禅師(?-1366)開山、道灌が叔父の叔悦(周巌)を四世に迎え、この地ににうつして中興したとする。ただし覚智開山の寺は扇谷定正が中興開基した建徳寺のことで、鎌倉には道灌の死後にも存在したから(レポ278)、道灌が移したという「大慈寺」の原型がかりに実在したとしても、そのうちの小堂(境内寺院)にすぎなかったのかもしれない。



イマイチの銅像(伊勢原市役所前)・首塚・半鐘
 太田氏は戦国時代、なお公方管領に味方して滅亡にむかった「江戸太田氏」と、後北条氏の家臣となった「岩槻太田氏」とにわかれた。江戸時代に家康の妻・英勝院の一族として太田家を再興したのは、落魄し自害した江戸太田康資の「ご落胤」を名乗る者たちで、とうぜんみなしごの彼らには、先祖の歴史をものがたるものは何もなかった。

 道灌の伝記は後世に美化したものが多いらしい。たとえば道灌が風呂場で殺され、当方滅亡と叫んで未来を予言した、という話にしても、江戸時代、しがない田舎武士におちついていた岩槻太田資武なる者に問い合わせて、ようやく聞き出した「先祖話」にすぎない。もとより一次資料ではないのだ。刺したのは「曽我兵庫」、つまり道灌亡き後に江戸城を預けられ、定正を支えた有力部将を「実行犯」に名指し。風呂場で死んだというのも、義朝(頼朝の父)や頼家将軍の最期ににていて、どこか作り事めいている。また名高い「山吹の乙女」の説話にしても、もとは「老婆」だったとか。

 山内顕定は公方方に五十子の陣を追われ、不利な環境で都鄙合体の和平を結ばざるをえなかったことを道灌の責任として遺恨に思っていたのかも知れない。当初、道灌は山内家に背いた長尾景春を討つため進撃したが、山内にしてみれば道灌もまた、みずからのテリトリーを侵す新たな脅威と映りはじめたのだ。道灌退治のため、主君定正はわざわざ「山内の援軍」を呼んだなどのつたえもある。みずからを過信し、「智者・人格者」を気取っていた定正は、へんな義侠心から容易に【敗者の謀略】に絡め取られていった。・・・道灌が殺された場所は、「カス屋ノ金造寺(*傍書「公所・洞昌院」)ニテ大夫殿ヨリ被打候」(甲斐妙法寺記)などと伝えるものもある。


 鎌倉亀ヶ谷切り通しの峠にかかるやや手前、ちいさな支谷「勝縁寺谷」にあった獅子王文庫は、「八紘一宇」をとなえた日蓮学者・田中智学(1861-1939)の別邸だったところ。童話作家・宮沢賢治(1896-1933)も心酔し、智学の主宰する国柱会に入会1920。これは東京に進学した最愛の妹・とし(1898-1922)が入院したさい1918、上京して講演会を聞いたからという。

 賢治の家は真宗だったが、早くより日蓮に傾倒。37で早世する前にも、「雨ニモマケズ」の手帳にお題目を書き付け、自己犠牲の物語「グスコーブドリの伝記」を発表、死の床では国訳法華経千部を配るよう、反対する真宗の父に遺言までした。国柱会本部は三保松原にあったが、上野鶯谷にも賢治のかよった会館があったらしい。夭折した妹・としは日本女子大(いわゆるポン女)出のエリートで、帰郷後は英語を教えたこともあり、自慢の妹ながら理想の女性でもあった。賢治の日蓮信仰にも、彼女だけは理解を示したという。さいしょに稿料をえた「愛国婦人」という雑誌も、あるいはとしのコネだったのかも。

 智学や鈴木大拙らがひろめた右翼思想とは、けっきょく「大和魂」だの「神国日本」「兵隊さんガンバレ」といったたぐいの、ありふれた愛国的精神論にすぎなかった。庶民レベルにおいては、「大東亜共栄圏」だの「米帝国主義」だのといった国際政治のうさんくさい概念は、はなから理解の外にあったようだ。



アジア石人(浄明寺地区)
 戦後、連合軍が問題視したのは、思想家としてただひとりA級戦犯(平和に対する罪)に問われた大川周明(1886-1957)らの【反米思想】だった。

 大川は殖民史を専門とし、「復興亜細亜の諸問題」「米英東亜侵略史」「亜細亜建設者」などを刊行。同時期、朝日新聞社も「聖戦博覧会」1939「大東亜建設博覧会」1940などを大規模に開催するなど、反米・汎アジア主義をひろめ、軍国主義に傾倒。反米ポピュリズムの頭目には、社会大衆党(当時の統一社会党)に支持され、宮様より濃く天皇の血を引く近衛文麿をかつぎあげ、挙国一致内閣・大政翼賛会を結成。盟友である同社主筆の副社長・緒方竹虎(1888-1956情報局総裁)とともに社会主義革命と国体運動との合体「昭和維新」や「大東亜会議」を画策。軍部への政権移譲も名ばかり、ふたりは終戦まで顧問格として入閣しつづけ、言論統制を背景に400万部を売り上げた欲の皮をひた隠しにしたまま、対米戦争を指導した。・・・

 けっきょく東京裁判では、「反米思想」を一刻もはやく隠滅しようということで利害が一致、抗弁の機会を奪うことのみを優先し、大川ら反米知識人の訴追は「発狂」などを理由にみおくられてしまう。近衛は自殺、責任転嫁にはげむ新聞社は「アメリカ博覧会」1950などをひらいてふたたび国民を洗脳し、狡猾に延命をつづけた。かれらの代わりに、「右翼」という、ありもしない空疎な【記号】が裁かれたといえるのだが、その具体的な正体はだれも知らないし、あえて知ろうともしていない。「戦後サヨク」のルーツをたどることは今も【依然としてタブー】なのだ。



太子堂(東京世田谷区)
 枯れたケヤキの洞(うろ)に祀られた庚申塔。東京世田谷のとある住宅密集地の狭い道にはみだすように、むりくり残された古いケヤキ並木の一本で、この木だけは樹齢700年の名木とされたが、倒木の危険から伐採されたという。境内に大量の「ぎんなん」を降らすイチョウの古木は400年とか。

 この辺には人気女優・賀来千香子さんばかりでなく、流行作家の林芙美子や壺井栄、プロレタリア作家黒島伝治などが住んでいた。芙美子の葬儀の日、川端康成が「自分の文学的生命を保つため他に対して時にはひどいこともした」と演説したことはよく知られている。川端さんの女性観がどんなものかはしらないけれど、同性の作家には、平気で嘘泣きなんかもする、カフェーあがりのいやな女、と毛嫌いする人もいたようだ。それでも壺井はながく親友だったらしい。

 黒島はシベリア出兵に従軍し、性欲にくるった大隊長の卑劣な命令をえがいた反戦小説などを書いた。指導者がどれだけ熱心に大義を強調しても、現場ではかならずこうした蛆虫のような人物が湧いて出る。これは黒島がにくんだ「反革命」の現場だけにとどまらず、あらゆる【正義】に共通するものなのだろう。他罰的要求型の正義には、必ずどこかに倫理的な欠落がある。仮にじぶんが左翼であるのなら、みずからを棚にあげるだけでなく、まず革命軍が【なにをしてきたのか】、忘れるべきではない。


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